大谷光瑞の業績・第四章
第四章・トルファン出土のミイラに就いて
シルクロードにおける大谷探検隊の業績に就いて(H.F氏論文より)



管理人、所見
 H・F氏の論文大谷光瑞の業績」は最終章第四章に入りました。ここではミイラについて論文は述べています。京都大学医学部教授、清野謙次氏はミイラについて人類学的に研究し論文を書いています。後世其の成果は非常に重要なものと認められ、京都大学自然人類学研究室が現在管理している縄文人骨標本は、清野教授により収集されたもので、清野コレクションと呼ばれています。

 前後三回にわたって行われた探検で多くの出土物が得られたことは前章で述べた。この章では特にミイラを取り上げてみたい。なぜ多くの出土物の中からミイラに注目するのか、その答えを持って、これを結論へ導く章と位置ずけたい。
なお、この章については、清野謙次著「中央亜細亜発掘のミイラに就いて」西域文化研究会編、小笠原宣秀著「西域文化研究第二」を参考とした。





関東廳(庁)博物館蔵版は昭和5年4月10日
発行されたものです。
 第三回の探検において橘瑞超と吉川小
一郎はトルファンで、10体のミイラを発見
する。もちろん日本に持ち帰られるが、前
章でも述べたように、他の多くの資料と同
じく日本から離れてしまうのである。このミ
イラ発掘についての記事は「新西域記」の
(支那紀行)に詳しく書かれている。現在ミ
イラは、旅順博物館に10体ある。うち男性
は6体、女性は3体、そして小児は1体であ
る。ソウルの博物館にも2体あるが、これ
は治格トン出土もので2体とも女性である
が、著しく不完全なものらしい。


古ロブ・ノール人のミイラ(幼児) 身長88
満4〜5歳と推定される幼児。毛布で体を包み、
合わせ目は16本の尖った木の棒で留めてあり、
左の肩には草網み籠が懸けられている。
籠の中にはわずかばかりの麦粒が入っていたという。


  古代エジプトでもミイラはあるが、これは人為的に造られたものである。
彼らの宗教では輪廻が信じられており、死者は生き返るものとして死体をミイラとして保存したのである。しかしトルファンを、はじめとする中央亜細亜のミイラは、自然に生じたミイラである。雨がほとんど降らない乾燥した土地においては、死体は筋肉や皮膚等が腐敗するより早く乾燥硬化する。このような気候だからこそ千年以上も前のミイラが保存されてきたのであり、そればかりでなく紙や布など多くのものも現存するのである。そして現存する資料があればこそ、当時の人々のことを推測できるのである。
 ミイラやミイラと一所に発掘された資料は、当時の生活様式など多くのことを教示してくれる。第三回探検で発掘したミイラは十数体である。共に副葬品も見つけられている。其の中にはミイラ付帯文書と呼ばれるものや、墓表も見ることができ、これらは「西域文化研究第二」に詳しく報告されている。ミイラの年代については「中央亜細亜発掘のミイラに就いて」によると墓表は5枚あり、最古のものは張氏の延昌20年のもので、陳の大建12年にあたる。そしてキク氏の延和9年の墓表は隋の楊帝の大業6年にあたる。そして最も新しい墓表は毛氏のものであり、龍朔2年とあり、これは他のものと異なり、高昌国の年号が記されておらず、唐の高宗の年号が記されている。このことから、この墓表の時代は高昌国のの独立性はなく、唐の支配下に入っていたことがうかがわれる。
又十数体のみいらにに墓表が5枚というのは、ミイラは家族で合葬されていたからである。
 吉川小一郎の「支那紀行」には(木乃伊は夫婦のものも多く、稀には小児が両親の枕頭に置かれあるを見る)とある。しかし、どの墓誌がどのミイラに属していたかわ解らない。
清野謙次氏が、小児のミイラを除く、11体のミイラの体格を測定された結果、このミイラは支那人型であった。又服装及び副葬品の土偶のデザインから、生前は支那の服装をしていたことが、うかがえる。

 前後3回行われた探検のうち、第三回探検隊が、はじめて古墳の発掘に着手したのである。そしてみいらを発掘することになる。数多くの探検隊の中でミイラを持ち帰ったのは、この大谷探検隊のみである。そこに彼らの特徴がある。
他の探検隊との違いは、彼らが仏教徒であったことである。仏教徒であった彼らはミイラに対して、死者に対しては特別な思いがあったのだろう。ゆえに他の探検隊が興味を示さなかったミイラを持ち帰ったのである。この章で多くの発掘品の中から特にミイラを取り上げたのは、個の理由からである。

 1993年10月12日の朝日新聞夕刊に載った記事は、本論分に非常に関係があるのでここで紹介したい。
 8日の中国紙光明日報によると、中国新疆ウイグル自治区郡善県の火焔山中腹で、毛皮の衣服と靴を身に着け、フエルト帽をかぶった2000年以上のものと見られる男女のミイラ、10数対が発見された。
発掘に当たった新疆文物考古研究所では、これらのミイラは前漢以前にトルファン盆地に住んでいたオアシス都市国家、車師国の人々とみている。
男性のミイラは毛皮の上着に毛皮の半ズボン、女性は毛皮のスカート姿で、何れも長い毛皮の靴を履いていた。考古学者らが特に注目しているのは粉状や固体状になった薬物を入れた袋を腰に着けていたミイラや、腹部に手術の跡があるミイラがあったこと。・・・手術の傷口は毛髪で縫い合わされており、これらは古代西域の医薬研究の重要な資料になるとしている。車師国は秦、漢時代にあった西域16カ国の一つ。同考古学研究所は道路建設に伴う破壊に備え、付近の古墓群を発掘していて発見した。

 今まで発見されていなかった毛皮の衣装を身につけたミイラが発見されたということは、北方の民族が深くトルファンに係わっていたことの証でありシルクロードの要所あったトルファンでは十分に考えられることである。詳細な研究報告を期待したい。



あとがき
 古谷三代吉が京都高等女学校教室新築設計図を描き、数枚の設計図を京女の歴史(京都高等女学校)のページで公開したのが縁で、続・京女の歴史(大谷光瑞の業績)、そして「大谷光瑞の業績(第一章〜第四章)」と進化していったのです。
この長編を製作した最大の動機は、古谷三代吉の曾孫にあたるH.F氏が「シルクロードにおける大谷探検隊の業績について」の論文で学芸員の資格を得、その論文と資料が物置の片隅から出現したと言う以外、何も理由はありません・・・それが最大の動機です。管理人 2003・9・25     
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