hkk-907

北穂高岳・奥穂高岳・前穂高岳・西穂高岳・ジャンダルム

2010.08.26  西穂 ロープウエイ利用日帰り
2009.08.25  北穂高岳・涸沢岳・奥穂高岳・前穂高岳・・・山小屋1泊
1989.07.19  奥穂高岳・・・・上高地から岳沢経由日帰り
1994.08.19  涸沢岳・奥穂・ジャンダルム〜西穂・西穂独標・・・山小屋1泊 
1987.07.26  北穂高岳・・・山小屋2泊
2001.08.23  西穂高岳(ロープウエイ利用)・・・山小屋1泊
1885.10.14  一ノ沢〜常念・横通岳・大天井岳・槍ケ岳・南岳・北穂高岳〜上高地・・・山小屋3泊

登頂日2010.08.26   単独行  西穂独標(2701m)西穂高岳(2909m) 

●ロープウエイ山上駅(8.45)−−−西穂山荘(9.35-9.40)−−−丸山(9.50)−−−独標(10.30)−−−ピラミッドピーク(10.50)−−−西穂高岳(11.25-11.40)−−−ビラミッドピーク(12.20)−−−独標(12.35-12.40)−−−西穂高山荘(13.15)−−−ロープウエイ山上駅(14.05)
独標(右)から西穂への突兀とした岩稜

9年ぶりに西穂を訪れた。そのときは独標まで妻が同行したが、今日は単独行。快晴とはいかなくても展望も期待できそな天気予報に期待もあった。

新穂高ロープウエイは第一ロープウエイから第二ロープウエイへ乗り継いでいくものと思っていた。ところがネットを見ているうちに、鍋平まで車で入ると第二ロープウエイからも乗れるこがわかった。
鍋平に着いたのは7時前、始発は8時半、待ちくたびれるほど待って乗車、西穂高岳口駅へ。

駅舎から屋外へ出たが思ったほど涼しくない。暑い中での登山となりそうだ。望見する山岳の稜線には多少雲が絡んでいるが、まずまずの眺めが得られそうだ。

駅舎からの登山者は私を含めて3人、ほぼ同時にスタート。最初は少し下り気味の道を行く。木道などを歩いたあと本格的な登りに入る。木の根や岩の段差を踏んで登っていく。最低鞍部から250メートルほどの登りだ。同時スタートの二人はなかなかの健脚に見える。道を譲って先行してもらう。普通の登山者に道を譲るなんていうことは、かつてはなかったことだ。

急登の途中で学校登山の中学生30人以上が下ってくる。登り優先ということで、端によけて通してくれた。先ほど私の前に出た二人は待たせているという意識からかかなり頑張って登っていく。先行の一人に追いつくと、荒い息遣いでぜえぜえ喘いでいた。

山荘手前はお花畑、ホソバトリカブト、ミヤマアキノキリンソウ、タテヤマアザミなど秋の花が迎えてくれる。西穂山荘まで所要50分、樹林帯は風も通らず暑くて汗びっしょりになったがいいペースだった。

岩場を剥きだした険しいルート
休まずすぐ先の丸山へ。
これからたどる西穂への突兀とした岩稜を眺める。ピークはだいぶ遠い。笠ケ岳、錫杖ケ岳、焼岳、霞沢岳、乗鞍岳、そして眼下には上高地が見える。山頂へ着くまでこの天気が続いて欲しいものだ。

三角形のきれいなピークに向かって、ハイマツの中に一筋白い石ころ道が緩やかに延びている。がらがらした歩きにくい道を登っていく。見た目より歩いてみるとかなり急だ。『ああ、疲れた』という感じでピークに着く。独標はその先だ。ピークには何人もの登山者の姿が見える。

2701メートルの独標に登り着く。西穂ピークまであと200メートル、本来ならあとわずかと気合いが入るところだが、実は苦労はこれから。ここで引き返す登山者も多い。ロープウエイを一緒にスタートした二人は、もうかなり遅れているようだ。

独標を越えて、次の登りに取り付くところでストックをデポする。この先は両手を空けておかないと危険だ。3点確保を忠実に守らないと何が起きるかわからない。
併せてペンキで記されたコースを外さないよう、進む方向を常に見さだめながらの注意も怠れない。岩稜帯はイワギキョウ、トウヤクリンドウなどが見えるが、数も種類も少ない。

霧の西穂山頂
岩場を慎重に登っていく。ここの岩場には1、2ヶ所鎖があるだけで、あとは足がかり手がかりを求めて行かなくてはならない。もちろん落ちたら結果は重大だ。たった残り200メートルの登りが実に長い。その間に上り下りもあるし、緊張感もある。

ピラミッドピークを越え、西穂への最後の登りはさらに険しい。岩の裂け目や凹みを拾って慎重に登っていく。安定してると思った岩が、体重をかけるとぐらっと動き、はっとすることもあるから気が抜けない。

無事に西穂山頂に到着。
実は、64歳のとき、この岩場をジョギングシューズですいすいと登ってしまった。ガイド地図によれば独標〜西穂高岳1時間30分となっているがたった35分しかかからなかった。今は到底そんな歩き方はできない。55分かけての登りだった。
ガスが上がってきて、先ほどまで見えていた前穂方面も見え隠れの状態になり、あっと間に山頂は濃いガスに閉じ込められてしまった。楽しみの展望ゼロ、これでは長居も意味がない。早々に下山にかかる。

下山途中、新しく鎖の取り付けられたところで、左寄りに降りていかなければならないところを誤って直進、すぐに変だと気付いたがガスで先の見通しが効かないとこんなこともおきてしまう。
独標からの下りになったころ、雨粒が落ちてきた。落雷が頭をよぎる。1967年、この岩稜で学校登山をしていた松本深志高校の生徒が落雷により11名死亡という大事故があった。当時私は深志高校の隣に住んでいて、この事故のことはよく覚えている。西穂高山荘へと足を速めたが、幸い案じた雨にはならなかった。

ほとんど休憩なしでロープウエイ駅まで下ったが、歩いた標高差にしては疲労感が大きかった。

2009.08.25〜26(単独)  北穂高岳・涸沢岳・奥穂高岳・前穂高岳

●上高地(5.10)−−−明神(5.52)−−−徳沢(6.35)−−−横尾(7.25)−−−本谷橋(8.20)−−−涸沢小屋(9.52-10.00)−−−北穂小屋(12.30) 小屋泊

●北穂高小屋(5.20)−−−最低コル(6.20)−−−涸沢岳(7.00-7.05)−−−穂高岳山荘(7.17-7.25)−−−奥穂高岳(8.00-8.15)−−−紀美子平(9.20)−−−前穂高岳(9.45-10.10)−−−紀美子平(10.30)−−−岳沢小屋跡(12.10-12.20)−−−上高地(14.00)
***写真集はこちらへ***          


槍ケ岳登山から1週間空けて、今度は穂高へ出かけた。
上高地から横尾までは1週間前の槍ケ岳と同じ道、少しゆっくり歩いたつもりだったが、前回より5分遅いだけで横尾へ着く。ここから涸沢へは久しぶりの道、記憶もほとんど消えうせている。途中の本谷橋も見違えるほど立派な橋に架け替わっていた。
本谷橋を過ぎると勾配が増してくる。北穂高小屋泊の予定にしているが、あまり早く着きすぎても小屋での時間を持て余してしまう。ゆっくりぺースで足を運ぶ。べースを押さえ気味にしていることにもよるが、先週槍沢を登ったときより足は軽いようだ。
ときおり立ち止まったりして、先方に開けてきた涸沢カールや穂高の稜線に視線を向ける。好天がうれしい。
途中、50年配の女性から『明日、北穂から奥穂まで一緒に歩いて欲しい』と言われる。歩きっぷりをみると、そのペースでは到底私についてくることは無理、約束はしないまま女性を後にして涸沢へと向かった。

夏山最盛期を過ぎた涸沢は、テントの数も少なめで賑わいの時期は去っていた。上高地から涸沢小屋まで、まったく休憩なしで4時間40分。小屋前のベンチに腰を下ろして10分ほど休んだ。真っ青に晴れ渡っていた空に薄い雲が見え始めた。いっ時の雲ならいいが、何とか山頂での展望を見せてほしい。

北穂山頂への急登にとりつく。登りはじめてすぐ、歯にしみるような冷たい引水がある。美味い!いくら美味くてもコップ一杯以上は飲めない。
岩片の散らかる急登を、ゆったりしたペースで一歩、また一歩と高度を稼いで行く。勾配は先週の槍ケ岳肩への急登以上かもしれない。ガスが岩の稜線から降り来る。昨日あたりから長野県下に季節外れの低温注意報が出ている。日差しが閉ざされると風が急に冷たく感じられる。眼下の涸沢あたりだけ日のあたっているのがわかる。あの女性はどうしただろうか。今朝横尾を出発したと言っていたが、この急登を登りきれるだろうか。

岩と岩片のきびしい急登に、先行の登山者も歩いては立ち止まり、また少し歩いては立ち止まったりして苦戦している姿が多い。いくつかのグループを追い越し、岩場の梯子を越えると岩稜の様相に変わってきた。 座り込んでいた50歳前後の男性が「もう無理だ、ここで引き返したい」と話していた。ここまで頑張ったのに勿体ないですよ、多分あと30分くらいですよと励ます。「ありがとうございます、少し元気が出た気がします」と言って立ち上がった。

風が冷たい、岩場をガスが流れる。煙霧のような霧を透かして北穂の小屋が見えてきた。小岩峰の基部が奥穂方面への分岐、そこから10分ほどで3回目の北穂山頂だった。小屋は山頂の一角といっていい位置に建てられている。
ガスで展望はないが、常念岳方面と眼下の涸沢だけが見えていた。
時間は早く、穂高岳山荘まで足を延ばす余裕は十分あったが、思い入れの残るこの北穂の小屋へ泊まることにする。
冷たい風の吹くテラスで生ビール、3000メートルの山小屋で生ビールが飲める時代になったのだ。

北穂小屋はこれが2度目の宿泊、昔高校生の息子と常念、槍と縦走してきた泊まったことがある。あの夜は超々満員、2名用のマスに6人詰め込まれ、人いきれと足も延ばせない辛さに耐えられず、小屋から抜け出して蒼白い月光に照らされる槍ケ岳を眺めて、二人で夜明けを待ったことを思い出す。
今日は2名用のマスに二人、ありがたい。前のときの夕食はビフテキだったが、今回はポークソティに変わっていたものの、食器は陶器、小ぶりながら食卓・椅子はアンティークな作り、食堂も懐古趣味が漂い、BGは落ち着いたクラシック音楽ときている。人気の秘密だろう。

翌朝、文句のないピーカン。薄明までにはまだ間がある。テラスへ出てみると満天の星空、天の川を見るのはいつ以来だろうか。槍ケ岳は闇に紛れるように黒く濃いシルエット夜の支配の中にあった。
常念山脈の稜線上に曙光の前触れが兆し、感動ときが待たれる。急ぎ朝食をすませて山頂での日の出を待つ。寒い。昨日の朝は槍ケ岳山荘では氷が張ったという話をしていた。
稜線の虚空が朱を濃くしてきた。天穹にも明るさが広がる。あと少し。一瞬閃光を感じると同時に日の出のときを迎えた。アルプス交響曲の『夜明け』を聴くような荘厳が満ちる。モノトーンの世界に色彩が戻り、見る間に凝視できないほどの強い光へと変わっていった。
360座めくるめく山岳大パノラマに酔いしれてシャッターを何回もきった。とりわけ大キレットを挟んだ槍ケ岳、曙光に赭く染まった涸沢、奥穂高岳の岩稜の迫力、ひとときの感動を充分に味わってから奥穂高岳へと向かった。

北穂からの縦走路も岩場の連続するかなり険しい道だ。次々とあらわれる悪場を鎖やハシゴを頼ったりしながら慎重に通過していく。夜はすっかり明けきって、色彩が溢れている。岩の隙間に命をつなぐけなげな高山植物たち、ハイマツの緑、朝日に赭く染まる岩壁、澄み切った青く高い空。絶好の登山日和、最低コルから鎖などを伝って岩場を這い上がるようにして登りつめていくと涸沢槍のピーク、北穂や槍の姿に見とれ、さらに次のピークが三等三角点涸沢岳、コルへ向かって一気に下った鞍部が穂高岳山荘。鼻歌が出そうな行程だ。

涸沢→北穂→涸沢槍→穂高岳山荘のルート、思えば22年前、直腸がんで人工肛門となり、絶望の中を生きがいを求めて挑戦したのが、妻と息子と歩いた穂高、それがこのコースだった。そしてそれが登山へのめりこむ端緒となった。風雨の激しい中、登山にはまったくの初心者3人で、岩に這いつくばうように歩いたのだった。この岩のコース、妻もよくぞ歩いたものと、今日再び歩いてみてそれが感慨としてあらためて強く感じられた。

穂高岳山荘を後にして奥穂への登りにとりつく。山頂まではわけなかった。奥穂山頂の展望はまた秀逸ではあるが、とりわけここから眺めるジャンダルムの威容は特質ものだ。あれを越えた日のことが脳裏に甦る。

通称吊尾根を呼ばれる尾根を紀美子平へと進む。悪場もあるし、もったいないほどに下っていかなくてはならない。1時間20分のコースタイムを1時間5分で前穂の肩“紀美子平“へ着く。ここでは一服することなく、そのまま前穂のピークをめざす。ここも岩場の連続する切り立つような急登、このルートで前穂山頂へ登るのは初めてのことであった。思った以上に険しい登りで、中にはガイドとアンザイレンで登っているパーティもあった。

山頂に着いて遠くなった槍ケ岳をカメラに収めようとした瞬間ガスがその姿を隠してしまった。まさに山の天気は変わりやすい。腰を下ろし、腹ごしらえをする。以前この前穂へ登ったのは、5月初旬の残雪期、奥明神沢からアイゼンの歯が立たないのではと不安を感じるようなガチガチの氷を踏み、胸を突くようなとんでもない急登を攀じて前穂ピークに至った経験がある。そして前穂からの下りが恐怖を越える緊張の連続だった。もちろんガイドが同行していた。
そんなことを思い出しながら山頂でのひとときを過ごしてから下山にかかった。

何人もの登山者が休憩している紀美子平を素通りして、重太郎新道へ入る。最初から落ち込むような急峻の岩場に梯子がつづく。北アルプス3大急登の一つと言われる(合戦尾根、ブナたて尾根)。その名に恥じない急な下りがイヤになるほど長い。何人かの先行者に道を譲られて、紀美子平から岳沢ヒュッテ跡まで1時間40分の下りだった。
なだれに破壊されたという岳沢ヒュッテは、今や敷地が残るだけで跡形もなかった。疲れた脚を癒すためにしばらく休憩をとる。20年前、上高地→岳沢→紀美子平→奥穂→紀美子平→岳沢を日帰りしたことがある。それも途中ルートを間違えて危険な雪渓をさまよった上でのことだった。どうしてそんな体力があったのか不思議でさえある。

岳沢からは上高地めがけて下っていくのみ、気楽に考えていたが、それは20年も前のこと、72歳、この歳での1時間40分の下りは長かった。

過去のさまざまな思いが交錯、懐かしさをかみ締めた2日間は満足度100パーセント、まだまだ山を登れるという自信も確認できた収穫も大きかった。


登頂日1989.07.19 単独  奥穂高岳(3190m) 

●上高地(7.15)−−−岳沢ヒュッテ(8.40)−−−ルートを誤り途中から重太郎新道へ合流(10.00)−−−紀美子平(11.00)−−−奥穂高岳(11.55-12.30)−−−−−− 紀美子平(13.20-35)−−−岳沢ヒュッテ(15.00)
●岳沢ヒュッテ(4.00)−−−上高地(5.00)
所要時間  1日目 7時間45分 2日目 1時間 3日目 ****
 無謀・必死の登頂・・・・  よくも滑落事故を起こさずに(52歳)
上高地から奥穂高岳を仰ぐ


我が国第三位の高峰奥穂高岳で思わぬリスクに直面した。そのときは夢中で自分のやっている行為を冷静に見ることが出来なかった。登頂を終って山行記録をつづっているとき「よくも無事で帰れた」と思わずにはいられなかった。
あれから12年経った今も、それを思い出すとぞっとしてしまう。
繁く山に通うようになってまだ1年、怖さもわからない暴走登山をやっていたのだ。

早朝7時15分、まだ人気の少ない河童橋から岳沢への登山道に入る。
岳沢ヒュッテ着8時40分で順調。これから奥穂高岳を往復して今夜はここに宿泊したい旨申し込んで手続きをとる。
「今出発すれば夕方6時には戻れるでしょう。今年は雪が多いから無理をしないように、昨日下ってきた人の話しでもスリッ プに注意するところが2ケ所あるそうだ。注意して下さい」との指導を受ける。

最低限の荷物だけ持って9時前に出発。この時期は履物はジョギングシュ ーズか布製登山靴だが、今日は珍しくビブラム底の革登山靴を履いてきた。残雪が多いとキックステップの必要があるかもしれないと思ったからだ。  
前穂高岳への重太郎新道を登るらしい登山者が二人、連れではなくそれぞれ単独行らしい。そのあとを追うようにして巨岩のゴロゴロした岳沢におりる。重太郎新道への登山口はどこ?、ときょろきょろするがよくわからない。前を行く二人に追いつき、『登山道はこっちでいいでしょうかね』とお互い頼りなげに確かめあう。  
実はここで基本的な失敗をしてしまった。不安だったらもっとしっかり確かめるなり、ヒュッテに戻り聞くなりすべきであった。先を急ぐあまりただ漫然と進んでしまうとは、まだ私も山歩きにおいてはまったくの初心者レベルだったと後日反省。  

ヒュッテを出てから岳沢を直角に横切ると、対岸にきちんとした重太郎新道を示す標識があったのだ。そうとは知らず前の登山者の動きに釣られて、岳沢を遡上してしまったのだ。  
沢はすぐに幅100メートル以上もあるかと思われる残雪で埋まる。左岸に重太郎新道への取りつきがあるはずと信じて、滑落に注意しながら登る。先ほどの二人もそれぞれにこの雪渓を登ってくる。沢を詰めるにつれ雪渓はどんどん傾斜を増してきた。通常の歩行は困難となりキックステップで足場を切って慎重に登る。ビブラムでなかったらどうにもならなかったところだ。

登山道らしき取り付きがあらわれない。残雪で隠れているにしてもどうも変だと気付く。しかし『右手の尾根に重太郎新道はあるはずだ』と右手の枝沢の雪渓に入って様子を見ることにした。
この沢を詰めれば重太郎新道のある尾根に登り着くものと思われた。しかし枝沢の雪渓は尾根に辿りつく前に、潅木の茂みに遮られ前進は不能となってしまった。ここでヒュッテまで引き返し、正しいルートを登ればまだよかったのに、一旦登った高度を引き返すのが惜しくて更に誤った方向に進んでしまった。  

枝沢を左岸から右岸へおっかなびっくり横切る。雪渓は急傾斜をもって岳沢へ落ち込み、一 歩足を滑らせればピッケルもない素手では停止することなど不可能だ。一つ一つステップを切るが、まともなステップにならない。足に全神経を集中して渉りきった。

次にブッシュを掻き分けて支尾根をひとつ越えると、また枝沢の雪渓であった。凄まじい雪崩の爪跡がこれ以上の前進を拒んでいるように見えた。しかしこれも無謀にもトラバースして、もうひとつ支尾根の薮をかき分けると、そこは岳沢本沢の雪渓最上部であった。眼下には滑ったら下まで一気に行ってしまいそうな雪渓が無気味だった。雪渓の中ほどに岩稜帯があり、あれを登ってどこか歩きやすそうな場所を右手にトラばースして行けば、もしかすると重太郎新道の上部に出るのではなかろうか。そう思って雪渓を恐る恐る踏んで岩稜に辿りつき、少し登って見たが行く手は岩壁でとても私の手の出せるものではない。(後で地図をみるとこの岩壁は奥穂南稜であることを知り驚く)岩と雪渓の間が大きく離れて、覗き込んでも深い底まで見ることができない。とんでもない方角へ来てしまったらしい。

先程の二人の姿は雪渓の上には見えない。さてどうしようかと座ってしばらく思案していると、 ヒュッテあたりから前穂高岳への尾根筋下部に人影がちらちら見え隠れしている。二人の内の一人が、下まで戻って重太郎新道を登り始めたのかも知れない。それに違いない。あの尾根が重太郎新道だったのだ。
よし、それならばせっかくこの高さまで登ったのだから、下に降りないでこの高さで山腹をトラバースしながら重太郎新道に合流しよう。  

先ほどの2本の枝沢雪渓は怖かったが、何とかこれを戻って更に潅木の茂みを分けて行くと大きい枝沢に出た。雪渓はかなり上まで延びている。『よし、これをさかのぼろう』それほど急傾斜には見えなかったが、雪渓にとりついて見るとなまやさしい傾斜ではなかった。冷静に考えれば、アイゼン無しで登るなんて気ちがい沙汰だった。緊張しながら靴先を蹴込んで雪渓上部を目指していくが、これも見た目よりずっと長く、上に行くほど傾斜がきつくなって、もう危険の限界だった。歩き憎いが雪渓とブッシュの境目を、潅木の枝などを頼りにようやく雪渓を抜け出した。
ここまでの体力消耗は激しいものがあった。へとへとに疲れていた。
もうひと頑張りと思い潅木帯を押し分けると、明るい切り開きに飛び出した。目の前の尾根が目指す尾根では・・・斜面をはい上がって見ると、それはまぎれもない登山道。重太郎新道に違いない。何と遠回りをしたことか、しかしやっと辿りついた安堵感に、へなへなと座り込んでしまった。時間は10時。1時間少々のさまよいだったが、もう何時間もたったような気がする。

登山道のどの位置にいるかよく分からないが、岳沢がずっと下の方に見える。里山ならいざ知らず、登山の素人が北アルプスの険しいところを、道もないままよくも歩いたものだ。
今度はルートの心配がないだけ精神的には楽だが、それにしてもこの重太郎新道というのは、評判どおりの険 しく急峻な登りである。
燕岳の合戦尾根、烏帽子岳のぶな立尾根と並ぶ北アルプス三大急登の一つだけのことはある。
疲れた足に鞭打って痩せた岩稜の急登を撃じる。普通なら何とか休まずに頑張って登ってしまうのに、疲労が足の芯にまで達しているようで、頑張りがきかず何回も立ち休みを繰り返した。

やっとの思いで紀美子平に着いた。これから吊り尾根を辿って奥穂高岳へのルートは、たいした登り降りもなく楽に往復出来るものと勝手に考えていた。紀美子平が2900メートル、あと300メートルほどの高度をじわじわ登って行くのだと思った。
雪渓の二つ目が最低鞍部で、ここからの登りがきつかった。重い足をなだめながら運んでいく。結構頑張って登っている登山者を追い越しながら、やはり私の歩き方は速いのだなあと改めて思う。  

これまで岳沢側にあったルートが吊り尾根稜線に変わると、アルプスの展望が開け、明神岳、前穂、常念岳、大天井、燕、北穂などの山岳が目に飛び込んできた。
個沢カールは雪一色で、とても7月中旬の涸沢とは思えない。
奥穂山頂はまだかまだかと繰り返しながら、もう一度涸沢を見下せる稜線に出ると、やっと奥穂頂上が目前に姿を現した。
11時55分、山頂到着。本当に疲れた、辛かった。ジャンダルムを眺めながらへたりこんだ。

穂高岳山荘ならすぐ下にあるのに、ここから岳沢まで戻らなくてはならない。もどるだけでも結構大変である。上高地からだとここまで単純に高低差1700メー トル、登り降りや途中の無駄な歩きを考えれば、一日でこれだけの高低差を登ったのは初めてのことかもしれない。

下りは気持ちが楽だ。いつものことながら、ひと仕事したあとの充足感で花の写真を撮ったり道草を食いながら吊り尾根を紀美子平まで戻ると、岳沢への取り付きで会った登山者の一人に出あった。やはり途中まで雪渓を登ったあと、間違いに気付いて一旦下まで戻ってから、登りなおしてきたとのことだった。もう一人は登項を諦めたようだ。

重太郎新道の途中から、がむしゃらに登った雪渓をあらためて眺めていると、我ながらよく登ったものだと、半ばあきれ、半ば感心した。  
ヒュッテに着いたのは3時ちょうど。上高地まで下る時間は充分にあっし、体力も残っていたが、予定通り岳沢ヒュッテに泊まることにした。

翌日は焼岳へ登ってから帰る予定であったが、目覚めると雨がしとしと降っている。とりあえず上高地まで下って様子を見ることにする。早朝、雨の上高地は人影もなく無人の河童橋とは珍しい。雨に煙る河童橋を写真に撮ったのが、なかなか雰囲気があって自分としてはお気に入りの写真となった。  
雨は止む気配はない。焼岳は出なおすことにした。
前穂高岳はココをクリックしてください。


登頂日1987.07.26〜28   妻・長男  北穂高岳(3190m) 

●上高地−−−涸沢小屋(泊)
●涸沢小屋−−−北穂高岳−−−穂高岳山荘(泊)
●穂高岳山荘−−−涸沢−−−上高地(泊)
涸沢岳付近
天候不順で梅雨明け宣言後もはっきりしない天気が続いている。穂高は昨日もひどい雨だったらしい。今日は少し青空が見えてきた。
足ごしらえを再点検して上高地を出発する。小梨平を過ぎると明神岳が目にとびこんでくる。青空は慰め程度にほんのわずか、やはり雲が多い。明神、徳沢を過ぎて横尾となる。

直腸がん、人工肛門となってから1年半、無謀な冒険に挑むような気分だ。長男と妻が万一を案じて同行してくれている。

横尾で休憩ののち、梓川を渡って涸沢への登山道へ入る。屏風岩の大岩壁を仰ぎ見ながら本谷橋渡ると、いよいよ本格的な登りとなる。視線を落としてあえぐように歩いていると、雪渓の末端があらわれ、間もなく涸沢に到着。赤、青、黄色、テント村の中を通って涸沢小屋までが意外に長く感じる。
今日は涸沢小屋泊まり、夕方まで時間はたっぷりとある。
前穂高岳はピークから1峰、2峰と見えているが、肝心の奥穂高、北穂高はガスにすっぽりと覆われている。常念岳には陽がさしているが、どうやら天気は期待外れかもしれない。日暮れまで待ったが結局奥穂の稜線は顔を見せてくれなかった。

二日目、未明に小屋を出て北穂高岳に向かう。前穂の山稜だけは藍色のシルエットがうかがえるが、あとはすべて雲の中、天候は悪化の予感。
懐中電灯の小さい明かりを頼りに急登を攀じる。見下ろすと同じようにこの南稜を登ってくる灯が点々つづいている。

東の空が明るくなり懐中電灯もいらなくなるころ、常念山脈の稜線上がオレンジに染まり一瞬期待を抱かせたが、この穂高周辺の岩稜は深いガスに包まれたまま。
風とともに流れる濃いガスの中を、ようやくたどりついた北穂の項上は視界ゼロ。2年前、息子と登った時のあの大パノラマがしのばれる。ガスは滝谷から強風に乗ってが吹き上げ、体の芯まで冷えてくる。北穂小屋に入れてもらって朝食をとる。
小屋を出ると、ガス、強風の中に今度は雨粒も交じってきた。ここからの難コースに不安を感じる。男女数名の若者グループが、ハイキングのように軽装のいで立ち、しっかりとした雨具もなく、足ごしらえはスニーカー。この悪条件の中を本当に奥穂まで行くのだろうか。我々は雨具をしっかりと身に着けて穂高の3000メートル稜線縦走にとりかかった。

烈風が滝谷の底から吹き上げ、まっすぐ立っていることも容易ではない。風上に体をあずけるようにして進む。岩、そしてまた岩、妻は必死の面持ちでついてくる。ガスで殆ど視界はきかない。ルートを示す黄色の丸印を外さないように慎重に脚を進める。
涸沢槍の岩峰がガスの中に霞んで見える。急角度で積み重なる岩肌に、ルート表示が見える。あれを越えられるのだろうか。強風に吹き飛ばされはしないか。不安はピークに達する。三点支持を忠実に守り、慎重に一歩一歩足を運んで行く。風がうなりを上げる滝谷側から、ルートが涸沢側に変わると嘘のように風がやむ。滝谷側に出ると又襲いかかる強風、岩にしがみつき、這うようにして風衝帯を何とか通過する。一番の難所は越えたのだ。あの若者の男女はどうしているだろうか。途中で出あった不安におののく女性二人づれは無事北穂小屋に行き着けるといいが。
夏山とはいえ、3000メートル以上の高所はやはりきびしい世界だ。

穂高岳山荘の赤い屋根が眼下に見えて来たとき、心底安堵感が体中に溢れるのを感じた。
山荘ではうまいこと個室がとれ、ゆっくりと休息できたのはありがたかった。

僅かの間だったが、ガスが切れて山荘テラスから涸沢カールが眼下に俯瞰できた。雪渓、テントなども見え。しめたと思ったのもつかの間、すぐに濃いガスが視界を閉ざして再び晴れることはなかった。

三日目、目を覚まして外をうかがうと本降りの雨、ついていない。梅雨明け10日の一番安定しているときをわざわざ選んできたのにこれだ。多分妻は、この後こうした登山の機会はないかもしれない。何と運のないことか。

奥穂はあきらめてまっすぐ下山かることにした。奥穂、前穂から岳沢を下る計画だったが本
当に残念。
ザイデングラードで涸沢経由、横尾へと下る。次第に明るさをまして、横尾につく頃にはまだ雨は降っているものの、稜線で強風に脅やかされたことが信じられないような穏やかだ。

 上高地で一泊、一杯のビールに舌づっみをうち、翌日帰宅の途についてこの山旅を終えた。
  *****************
 がんとの闘いが始まり、加えて人工肛門というハンディを背負っての人生再出発にあたり、この登山が気持ちを奮い立たせるきっかけとなり、ここから日本百名山、日本300名山へと突き進んで行くこととなった。私には忘れえぬ山行の一つである。
 


登頂日2001.08.23〜24   妻同行  西穂高岳(2909m) 

●ロープウエイ山上駅(11.20)−−−西穂山荘(12.25)・・・泊
●西穂山荘(5.00)−−−独標(6.15-6.20)−−−西穂穂高岳(6.55)−−−独標(7.40)−−−西穂山荘(8.15)・・・・ロープウエイで下山
独標(手前)と西穂(奥)

新穂高温泉ロープウェイで一気に2000メートルを超える高度まで上がってしまう。新穂高温泉へは何回も来ているが、ロープウエイに乗るのは始めて、高度差日本一のロープウエイというのが売りで、観光客にも人気があるようだ。。
今回は妻も同行、初日は西穂小屋まで1時間余のらくらく行程。

小屋へ到着後、丸山の先まで散策して見たが、山々は霧に包まれて展望はほとんどない。
霞沢岳・六百山がときおり雲の切れ間から見え隠れし、錫杖岳や笠ケ岳の一部が見えるだけだった。
夕暮れどき、山小屋の窓から雲の払われた焼岳が一瞬姿を見せてくれた。

翌朝、5時に小屋を出発。西穂へ向かう。妻は独標までを目標にする。途中休憩を入れたりしてゆっくりしたペースを維持、1時間15分かけて独票に到着。今朝も展望には恵まれない。ビラミッド型をした西穂山頂への痩せた岩稜が見えるだけだ。
独標と言えば、30数年前に松本深志高校の生徒が集団登山中落雷事故で10人以上も亡くなった場所である。当時私は松本市勤務で深志高校の隣に住んでいた。へリコプターが深志高校の校庭に何回も離着陸する様子を「いったい何が起きたのだろう」といぶかりながら眺めていた記憶がある。事故による怪我人や遺体の搬送だったことをあとで知った。

独標に妻を残して一人西穂山頂へ向かう。
7年前、奥穂からジャンダルムを越えて西穂へ縦走してきたときのことを思い出して懐かしい。
痩せた岩稜帯に入って足元に注意しながらもピッチを上げて登って行く。山頂まで険しい岩稜にはちがいないが、奥穂からジャンダルムを越え緊張を強いられたてきたとき、この岩稜がほっとした開放感をあたえてくれる程度にしか感じなかったものだ。

独標から西穂山頂まで35分で歩いてしまった。コースタイムは1時間30分、その3分の−という速さに、我ながら早く歩きすぎたかなあ〜、いやガイドブックがサバを読みすぎているのだろう。
全く展望を得られないまま西穂山頂を後にした。西穂ピークへ登る人々との交叉が多く、その待ちなどで予想外に時間をくってしまう。途中で再び妻と合流して山荘まで戻り、一服してからロープウエイ駅へと向かった。