【百名山最後の飯豊山山行記録】  【百名山登頂の日付順一覧】  【日本百名山記録山名索引】 【手紙】

飯豊山(2128m) 登頂日1990.9.23 妻・長男 晴れ
9月21日 上野駅→→福島駅経由米沢市のホテル泊
9月22日 米沢駅 →→小国駅→タクシーで飯豊山荘へ。
       飯豊山荘(8.30)−−−湯沢峰(9.55)−−−滝見場(10.50)−−−梶川峰(1310)−−−扇の地神(14.00)−−−門内小屋(14.30)
 9月23日 門内小屋(6.00)−−−北股岳(6.50)−−−梅花皮小屋(7.10)−−−梅花皮岳(7.40)−−−烏帽子岳(8.00)−−−亮平の池(8.30)−−−御手洗の池(8.50)−−−天狗の庭(9.25)−−−御西小屋(10.25)−−−文平の池(10.40)−−−大日岳(11.10)−−−文平の池(11.40)−−−御西小屋(11.55)−−−飯豊山(13.25)−−−飯豊山頂上小屋(13.35)−−−切合小屋(15.00)
 9月24日 切合小屋(5.20)−−−三国小屋(6.20)−−−地蔵小屋跡(7.10)−−−上十五里(8.00)−−−御沢(9.00)−−−川入飯豊鉱泉(9.30)→→タクシーで山都駅へ。JRで乗り継ぎで東京駅。

日本百名山名は姿を変えた癌との戦いでもありました。1987年9月の大菩薩嶺からスタートして、まるで憑かれたように日本百名山を登りつづけ、ちょうど満3年目となる1990年9月、最後の百座目として登ったのが飯豊山でした。

9月21日 自宅から米沢市へ≫

ふだん通り仕事を終わってから上野駅へ。台風一過、その名残を止めて風は強いものの、朝から青空が広がっている。天気予報も明日から3日間の晴天を告げている。気分よく日本百名山最後の山旅の第一歩をスタートした。同行は妻と息子の二人。

上野駅発19時20分、新幹線で福島へ、さらに奥羽本線に乗り換えて22時28分米沢駅着。予約済みのホテルに投宿。 ホテルで人工肛門の排便処理を済ませた。うまくいけば山を下りる明後日までは排便が無くて済むかもしれない。

≪第一日目 9月22日 米沢市から門内小屋≫

 5時30分、タクシーで米沢駅へ。澄み切った大気は秋そのもの、紺碧の高い空が広がっている。米沢駅には私達のほかにもうひと組の登山者の姿。ラジオが今朝の米沢市の最低気温を12度と伝えていた。

米沢からは米坂線で小国までの乗車。2輌編成のローカル列車は、わずかな乗客を乗せて発車。各駅で少しづつ乗客を拾いながら、列車は稲穂の広がる田園地帯を行く。車内は高校生で賑やかになってきた。いくつかトンネルを抜けると、濃霧の世界に変わってしまった。
小国駅に着くと、わき目もふらずにタクシー乗り場へ直行、登山口の飯豊温泉へ向かった。運転手が「小国は盆地になっているから、霧がかかることが多いが、盆地を出るといい天気ですよ」という希望のことば、そのとおり10分も走ると再びコバルトブルーの空が戻って来た。一昨日の台風はこの近くを通過したが、被害はなく、雨もたいしたことがなかったとのこと。登山道被害もなかろうと安心する。

前方遠く朝陽を浴びて山の峰が白っぽく見える。飯豊山系の一部だ。さあいよいよだ。期待と緊張が漲る。小さな集落を幾つか過ぎ、国民宿舎梅花皮荘から道は未舗装に変わる。玉川の渓谷沿いをさらに奥へと走る。

一泊目の門内小屋、後方は門内岳

登山口の飯豊温泉山荘前の広場には大勢の登山者が朝食をとったり、出発の準備にかかっていた。十数台のマイカーも駐車してあり、3連休を利用しての登山者も多いようだ。 私達も足ごしらえを確認して、百座目の飯豊連峰縦走の途についた。湯沢川にかかる崩れたコンクリート橋を渡るとすぐ右手に梶川尾根コースの登山口があった。

今回の登山はザックが重い。二十二、三キロ、この重量を担いで歩くのは初めての経験である。これを背負って、空身でもハードな1500メートルの高度差を登ることになる。いつになく緊張感が増す。しかし案内書のタイム程度で何とか登れるだろう。

コースはのっけから胸を突く急登ではじまった。樹林帯の急登をゆっくりと、ひと足ひと足登って行く。荷が肩に食い込む。すぐに玉の汗が滴り落ちる。「25分歩いて5分休憩のインターバルで行こう」と決める。私ほどの荷物ではないが、妻にとってはやはり初めての荷物でかなり堪えるはずだ。

25分、第一回目の休憩。腰を下ろして休む。飯豊山荘は既に眼下に小さい。
再び出発。若い女性二人を追い越す。道は相変わらずの急登がつづく。息子のペースが、今日は私にもちょうど良い感じだ。厳しいい急登は高度を稼ぐのに効率が良い。別の青年二人は梅花皮小屋まで行きたいが、門内小屋までになるかもしれないという。

縦走コースには無人小屋しかないため、大荷物の登山者が多い。一様にゆっくりしたペースで登って行く。尾根が平坦になったところに第一ポイントの湯沢峰の標柱が立っていた。ここで二回目の休憩にする。1時間半で約500メートルの高度を稼いでまずまずのペースだ。妻はやや遅れがちだが、道はよく整備された一本道、少し離れても心配はない。

5分の休憩で腰を上げる。次のポイント滝見場まで08キロとある。ブナの大木の中を少し下ったところが小鞍部になっていて、近くに水場があるらしい。荷を置いてブナの斜面を30メートルほど下がったところが水場だった。糸のようなかぼそい滴りで、コップー杯とるのがやっとだった。諦めて出発。鞍部から緩く登り返す。滝見場まで08キロ以上の長い登りに感じる。荷が重いせいだろう。100名山登頂を祝すために用意した食料をもう少し軽い物にすべきだった。缶ビール半ダースも多すぎた。お汁粉の缶詰も余計だった。シチューの材料も重い。

湯沢峰から約1時間、第ニポイントの滝見場に到着。妻はまだ到着しない。登山道を外れて踏み跡をわずか行くと、そこが滝見場で正面に梅花皮沢を挟み梅花皮の滝が遠望できる。この滝はここでしか見られないという。かなりの高度を何段にもなって白く落下していた。深く切れ込んだ谷が険しく、いく筋もの襞を刻んでいる。梅花皮沢上部の石転沢の雪渓は、残念ながら黒っぽく汚れた残雪がわずかに望見できるのみ、雪の少なかった影響で、今年は早々と消えてしまったらしい。

石転沢の突き上げた鞍分に、小さく見えるのが梅花皮小屋だ。その左のピークが梅花皮岳、右手が2024メートルの北股岳である。ここにようやく雄大な飯豊連峰の主稜線がはっきりと目に入って来た。

前方には梶川峰が待っている。地図を見てもここから等高線がびっしりと混んでいる。高度差は500メートル以上。登山道の状態も少し悪くなってきた。風化で脆くなった花崗岩は崩れて歩きにくい。雨でえぐれた赤土は足掛かりも悪く、余計な踏ん張りで体力を消耗する。ブナ等の高木も少なくなって、眼下に小国町方面が広がり、右手上方に見えてきたのは地神山であろう。

梶川峰への急登に取り付いて間もなく、五郎清水の標識を見てポットを持ち水場へ下りる。ここは斜面の窪みから手を切るような清水が湧き出していた。喉を潤し、昼食用の水をポットに詰めて再び胸のつかえるような急登と取り組む。

急坂の途中で少休止。眼下には手垢のつかない樹林が鬱蒼と広がっている。息子はいま標高どのくらいかと地図と睨めっこしながら残りの標高差と体力を天秤にかけている。ところが200メートル間隔の等高線を100メートルと勘違い、あと150メートルと思ったのは、実は300メ−トルの誤りと気づいてがっかりしている。妻はかなり遅れているようだ。なかなか姿を見せない。

扇の地神から門内小屋へ  左方奥は飯豊本山、その右は梅花皮岳、
右端北股岳、中央奥は大日ケ岳

梶川峰まであとワンピッチで行けるかどうか。再び重いザックを背負う。視線を足元に落としてただひたすら頑張るのみ。この登りは北アルプス三大急登(ブナ立尾根、合戦尾根、重太郎新道)以上の長く厳しい登りであることは間違いない。案内書にあったブナの巨木が目に入ってくると、さしもの急登も終わりを告げ、潅木を抜け出た先は広々とした草地の斜面に変わった。
ほっとした気分で腰を下ろす。この先もう厳しい登りはない。気持ちも軽くなって早速昼食の準備。フランスパンにキュウリを挟み、マヨネーズをつけただけの粗末な昼食(サンドイッチ用のチーズを忘れて来てしまった)20分遅れ妻も無事登り切った。

この草原は、花の時期にはさぞかし美しいお花畑となることだろう。イワイチョウが早くも黄葉を見せている。北方にのぞむ藍色のシルエットは朝日連峰、懐かしい大朝日岳も確認できる。似東岳の姿もある。さらに蔵王連山あたりか、その山影にわずかに雲がからんでいるのみで、上空は相変わらず吸い込まれそうな青空だ。無数に群れ飛ぶトンボがキラキラと光る。山の秋は深まりつつあった。

草地からわずかの登りで梶川峰1692メートルだった。前方の視界が開けて、扇の地神から北股岳、遥かに飯豊山まで縦走コースの稜線が見はるかせる。周囲はハイマツが覆い、高山の域まで登って来たのを実感する。森林限界を抜け出たこの景観は実に気持ち良い。高い山も低い山もそれぞれに良さはあるが、やはり森林限界を越してからが本当の山の魅力を感じさせてくれる。

記念写真を撮って、緩やかな尾根を主稜線へと歩を進める。今夜の宿泊地、門内小屋も近づいて来た。ひろびろとした伸びやかな尾根がつづく。草紅葉の始まった草原、笹やハイマツの緑との対比がまた良い。

主稜線の縦走コースと交わる扇の地神に立つと、これまで稜線に遮られていた西側の展望が開けて、360度の大パノラマが展開した。越後守門岳方面と思われる山々、北股岳、御西岳、そして大日岳はわずかに頭を見せている。
胎内山を通過して凹凸を行くと、目の前に門内小屋があった。小じんまりとした小屋だが、収容能力は60人となっている。

小屋到着時刻12時20分、ほぼ予定の時間であった。既に先着者が何人か、寝場所を確保している。まだ二階も空いているようだったが、便利な一階入り口付近の隅に場所を占める。新しくはないが小屋はしっかりした造りだ。ただトイレが施錠されていて使用できないのが不便、特に女性には気の毒だった。各自思い思いに場所を探してキジウチ、ハナツミをしなければならない。私の人工肛門はこんなときには都合が良い。

小屋に荷物を下ろして一息つく間もなく、二人を休ませて水汲みに行く。すぐ下に池があるが汚れていて、そのままでは使えそうもない。5〜6分斜面を下ればいい水場があると教えられ、水筒とポット併せて3個にコッフェルを下げて急斜面の小径を下ると、流れは細いがきれいな水場だった。それぞれの容器を満たんにして戻る。これだけあれば今夜と明朝の炊事、それと明日の水筒用には足りるだろう。

職場の同僚が作ってくれた『日本百名山登頂達成』ボードを持って、小屋のすぐ先の門内岳へ登る。この小ピークも展望絶佳、南に北股岳、御西岳、飯豊山、大日岳、北には地神山方面へと飯豊連峰の主峰が泰然と連なっている。朝日連峰もしっかりと確認した。とくに門内岳から北股岳へと気持ち良く延びる稜線沿い、そこは既に狐色に染まった草原が風に靡き、傾きかけた秋の陽に、山全体が秋色に覆われていた。

明日はあの頂きに立って、日本百名山完登の喜びを味わうことが出来ると思うと、年甲斐もなく胸の高まりを押さえられない。

用意して来た御馳走は明晩の楽しみにして、今日は簡単に済ませる。アルファ米のご飯に、カレー、鳥肉と鯖の缶詰、それにみそ汁。日が傾くと気温はどんどん下がって行く。防風着をつける。はるかに海が光り、街が見える。新発田か村上市だろうか。大日岳の上に糸のような月がかかっていた。
梅花皮沢から小国の盆地を目隠ししていた雲海も、今はすっかり払われている。

次々と到着する登山者で小屋はほぼ満員となった。
まだ外は明るいが早々にシュラフに入る。星が素晴らしいという声が耳に入るが、起きるのも面倒。明日に備えて早く眠ることに努めたが、気持ちが昂っているのと、ひどいいびきが気になってなかなか眠りに入れない。細切れの睡眠のまま、起きだす人の気配で時計を見ると4時だった。

≪第二日目 門内小屋から切合小屋

寝不足を感じながらも5時過ぎに起床。
餅入りの雑炊で朝食を済ませて6時に小屋を出発。目ぼしい食料はほとんど手づかず、ザックの中身もせいぜい1キロくらい減っただけであいかわらず重い。
ガスっていてご来迎は無理のようだ。ゆっくりペースで体調を整えながら北股岳への主稜線をたどって行く。見た目以上の登りだ。

早朝、朝陽に輝く草もみじを行く

北股岳山頂は大展望台だった。銅製の鳥居と石祠が祀られ、小さなケルンが朝日に長い影を引いている。じっとしていると寒い。今日のコースを目で辿る。梅花皮岳、烏帽子岳、御西岳、大日岳、そして飯豊山へと延々とつづく稜線、妻たちは見ただけで疲れ顔。しかし私にはわかる。見た目ほど大変ではないことが。
昨日喘いだ梶川峰はここから見ても急登である。石転沢から梅花皮沢の眺めが手に取るようだ。朝日連峰、さらに蔵王連峰、その先に霞むのは船形山あたりか。振り返ると門内小屋が小さくなって朝日を浴びていた。
梅花皮小屋のある十文字鞍部へは急峻な坂を一気に下る。下りにかかると妻との距離があっと言う間に開いてしまう。小屋は既に全員出発していて空っぽ。ザックがひとつ、ぽつんと残されていた。休む間もなく梅花皮岳への登りにとりつく。展望を楽しみながらのやや急な登りもたいしたことはなく、25分ほどで頂上に立った。

霧も晴れてきて梅花皮沢の展望が素晴らしい。先ほど通過して来た北股岳の山容が一段とカッコいい。門内小屋から歩いて来る登山者が小さく見える。
烏帽子岳へは少し下って登り返せば山頂。飯豊山が今朝歩き始めたときよりかなり近くなってきた。上空には青空が戻ってきた。
烏帽子岳を越えると、その先にもう大きなピークはなく、緩やかな起伏が御西岳へと続いている。御西岳から飯豊山への稜線西側に広がる雄大な斜面は見ごたえがある。笹混じりの草原からその下方へ目を移すと、ダケカンバの幹の白さが輝き、さらにブナ等の原生林へとつづく広大な斜面である。コース沿いの池は干上がっているものが多い。台風の雨もこのあたりの池を満たすことはできなかったらしい。
水をたたえた御手洗池で少休止をとる。池のほとりというのは、なぜかほっとさせる安らぎがもらえる。

御手洗の池、烏帽子、梅花皮、北股岳を眺めながら休憩

御西岳へは長く緩い登りがつづく。途中の天狗の庭という草地は休憩にはもってこい。ところどころ草がはげて赤土も出ているがいい休み場だ。他にも休憩しているグループがある。ここでもザックをおろして一服入れる。朝から3時間半ほど歩いているが、昨日喘いだ登りからすればはるかに楽だ。
御西小屋まではもうひといき。深くえぐれた堀状の縁を通り、やや深い笹をくぐって最後の登りが終わると、御西岳のなだらかな円頂が目の前に迫り、その円頂のつづきに飯豊山がひょっこりと聳えていた。ここで見る限り飯豊山はあまり迫力が伝わってこない。
やがて風景は草原へと変わり、このあたり、夏半ばまで雪田と高山植物に彩られた飯豊連峰随一の美しい場所だという。今の時期は草紅葉、それもまた美しかった。 登山道が右に円曲すると御西小屋が指呼の距離に見えてきた。小屋周辺に登山者が群れているのが見える。

小屋の建つ台地状の広場は秋の優しい陽を受けて、さながら憩いの広場だった。30人前後の登山者が、それぞれのパーティーごとに休んだり食事をとったりしている。御西小屋から吊り尾根状の登山道が延び、その先に堂々たる大日岳が高度感を持って聳えている。御西小屋からけっこう距離はありそうだ。コースタイム往復2時間40分。妻たちはここでゆっくり休憩をしてから、先に飯豊本山の小屋へ行くように指示して、私一人大日岳へ向かった。
空身になってカメラを片手にふわふわと軽くなった体でいつもの早い歩きを取り戻す。文平の池で若い登山者に追い付く。追い越させてくれるかと思ったが、狭い道を男はそのままどんどん歩いて行く。その後をぴったりとついて行く。男は意識してぐんぐんスピードを上げるが、私も重荷から解放されれば早歩きでは滅多に遅れはとらない。男は『この爺さん、すぐくたばるさ』くらいのつもりで飛ばしたことだろう。大日岳への急登に変わってもぴったりと後をつける。男の首筋から汗が滴っている。相当無理をしていることがわかる。

7〜8人のパーティーを追い抜いて一気に頂上に立った。男は座り込むと、水筒の水を貪っていた。

連峰随一と言われる大日岳での展望は、あいにく南側にガスがかかって北側しか望めない。御西岳や飯豊山もガスに見え隠れしている。今朝から歩いて来た北股岳からの稜線が手に取るように見える。しかし満足な展望も得られないので記念写真だけ撮ってすぐに引き返すことにする。帰りは邪魔されるものもなく一気に御西小屋まで戻る。結局2時間40分のコースタイムを1時間35分で往復してしまった。

御西小屋に戻ると、食べられるように温めてくれたお汁粉があった。家で食べるお汁粉と同じものだが一味もふた味も違う。
気力をよみがえらせて二人の後を追って飯豊本峰へと足を急がせる。 御西岳はどこが山頂とも知れない大きな円頂の一角で“御西岳の標識が立っていた。ゆったりとした草原が広がり、まるで高原を散策している気分になる。草紅葉の先に大日岳、牛首山が茅の隙間に見え隠れしている。女性が一人、レンズを花に向けていた。チングルマだった。毛花となっている今頃、どうしたわけか咲き残っているのが可憐である。女性は「珍しいので・‥」と言って見つめていた。このあたりも名にしおう高山植物の宝庫、時期が合えば足の踏み場もなかろうにと想像する。  

大日ケ岳山頂 文平の池から大日ケ岳をのぞむ

正面に駒形山が見えてくると右手に痩せた雪田が霧を透かして二つほど見える。これが御鏡雪田だろう。傍らにはチングルマ、ウラシマツツジが深紅に紅葉している。
徐々にガスが増え、駒形山あたりも隠れがちになってきた。飯豊の小屋へは、駒形山々頂を巻いて飯豊本山小屋へ思ったのに、知らぬ間に駒形山へ着いてしまった。そして飯豊山はすぐそこにあった。

ようやく日本百名山最後の飯豊山の頂に立った。 日本百名山完登。ついに癌に克った。なぜか思い描いていたような激情する喜びは湧いてこない。ただ、大きな仕事をなし終えた満足感というのか、安堵感のようなものが静かに胸の中を広がって行くのを感じとる。
癌手術から4年8ヶ月、登山を始めて満3年。1年先の保証がなかった体だったが、これまで生き長らうことができた。生きた証が出来た。

飯豊山本山神社付近で妻と

頂上には数人の登山者がいたが、私の日本百名山達成など知る由もない。感慨もそこそこに一旦飯豊山本山小屋へ直行、先に来て待っていた妻たちと合流。時刻は13時35分。まだ早い。妻たちも頂上経由のコースで来たとのこと、それならもう一度山頂に戻ることもなかろう、今日は切合小屋まで下っておこうということになる。本山神社に参拝し、「日本百名山登頂達成」のボードで記念写真を撮ってから切合小屋へ向かった。(明日1日で1500メートルの下りは、妻にはかなりきついものになるだろうという予測から、少しでも下まで下りておけば楽なるという目算もあった)

3時ころには切合小屋へ着けるだろう。二王子の表示を見てから御前坂はガレの急な下り。10人程の老人パーティーが登って行く。また3人パーティー。今夜は飯豊本山の小屋は混むことだろう。

歩きにくかった下りもそう長くはなく、間もなく鞍部に着く。空身の10人ほどのパーティーが上を目指して登って行った。半端な時間だがこれから頂上を往復するのだろうか。鎖場のある御秘所も鎖に頼ることもなく通過すると、予想外に登りがあらわれる。草履塚1908メートルへの登りである。重くなった足を持ち上げてワンピッチで草履塚に着く。小学生連れの夫婦が休んでいた。これから山頂の小屋まで行くようだ。夕方までに着けるかどうか、人ごとながら少し心配になる。遅くなれば寝場所が確保できるかどうかも危ぶまれる。

青い屋根の切合小屋はそこから潅木のトンネルを抜けると目の下の平坦部にあつた。途中の流れで水を確保し、予定の3時に小屋に到着。ひと足先に到着の息子がいい場所を取っていてくれた。新旧棟つづきの大きい小屋で、100人は収容できそうだ。

切合小屋で日本百名山完登の祝杯

早速今夜の祝いの食事作りにとりかかる。下ごしらえをして来たシチューは里芋、ニンジン、ジャガ芋それにウインナーソーセージ。サラダはキュウリ、トマト、ハム、シーチキン、主食は赤飯。一番重かった缶ビールを並べて準備完了。妻と長男は、私には内緒で「おめでとう 日本100名山達成」という布で作った幕を持参していた。

幕を張って隣の人にカメラのシャッターを依頼する。気づいて満員の小屋の人々が祝福の言葉を次々とかけてくれるのを聞きながら、ようやく完登の喜びが体いっぱいに広がって行くのを感じた。
「カンパーイ!」

3年に及ぶ長い道程が今終わった。人工肛門というハンディを負ってよく100座を登り切った。それも勤務の傍らたった3年で。しかし感激という激情は湧いてこない。それは静かな喜びだった。

こんなに食べられるかという御馳達も、残さずすべてたいらげてしまった。夕刻、小屋前の広場に立つ。遥か東方の灯はどこの街か。夜空をちりばめた星が宝石となってこぼれんばかりだった。

≪第三3日目 切合小屋から下山≫

快晴の素晴らしい夜明け。早立ちの登山者の気配に起こされて4時過ぎに起床。今朝も餅入りの雑炊。
ひと仕事なし終えた満足感で5時20分小屋を出る。草履塚の右肩に飯豊山の頭が見える。

まず目の前の種蒔山への早朝のひと登りが待っている。ザックがかなり軽くなった。ゆっくりゆっくり種蒔の登りを行く。飯豊鉱泉までのコースタイムは3時間40分、できたら4時間以内で到着したい。そうすればひと風呂浴びて、なお予定よりひとつ早い汽車で帰ることができる。

種蒔の頂上からは、夜明けの展望が広がっていた。草履塚の背後に飯豊山が朝陽に浮かび上がり、御西岳がなだらかな線を描き、大日岳へと昨日歩いた稜線がうかがえた。一夜明けた山々の紅葉はまた進んだようだ。山全体が燃え立つように見える。
磐梯山はその特徴ある山容でひと目でわかる。左が安達太郎から吾妻連峰、さらには薄い影を見せるのは月山、蔵王の連山か。
遠くの双耳は燧ケ岳、さらに日光連山は皇海山、奥白根、平頂の山は平ケ岳か会津駒ヶ岳であろう。
ひとしきりの展望に酔ってから先を目ざすと、真っ赤な太陽が吾妻連峰の方角から昇ってきた。妻には初めてのご来迎であった。

少しづつ遠ざかる飯豊の主稜線を何回も振り返り、また正面の磐梯、安達太郎方面の展望を楽しみつつ七森の起伏を越えて行った。展望のよい一つの岩頭に荷を下ろし、ここちよい風に吹かれながら最後の眺望を楽しむ。見納めの大日岳はいかにも威厳に満ちて他を圧していた。

下山。  剣ヶ峰の岩稜

三国岳で時刻を確認すると、コースタイムよりかなり時間がかかっている。ペースを上げなくてはならならない。この三国岳は福島、新潟、山形三県の県境にあって、縦走してきた主稜線もここまで、いよいよひたすらの下りが始まる。剣ケ峰と呼ばれる岩場の下りで妻は遅々として前に進まない。鎖も取り付けられたりしているが、それに頼るほどの険阻な岩場ではないが、慣れないとけっこう大変のようだ。

時間が気にかかる。息子が先に下ってタクシーの手配をするように頼み、妻と共にようやく鞍部に降りた。しばらくは潅木の中の苔の蒸した登りがつづく。登りついたところが血の池、この間も予定を20分オーバー、地蔵山はすぐ先にあったが山頂はパス。小屋を潰した残骸が積み上げられた脇を通り、ほっとするゆるい下りも笹平まで、そこを過ぎるとやがて堀状の深い溝道となって本格的な下りが始まる。

湿った赤土の堀は苔がついていかにも滑りそうだ。『長坂』という名前通り、ここから御沢までは高低差900メートルの下りがつづく。上十五里の水場へ下って見たがほとんど涸れて、コップー杯とるのもようやくのこと、諦めて戻る。一歩一歩が足にこたえる。下十五里にはちょっとした休憩広場がある。膝ががくがくする長い急坂がようやく終わってほっとしたところが細沢だった。沢で顔を洗ってから、林道を川入の飯豊鉱泉まであと30分、どうやら予定の時間をちょっと過ぎるくらいでつきそうだ。振り返ると紺青の空に三国岳が望め、三国小屋もはっきりと確認できた。下って来た高低差を改めて確かめた。

飯豊鉱泉には息子が風呂から上がってビールに舌鼓をうっていた。私達も風呂で汗を流しビールにありつく。体の隅々に染みとおって行くようだった。3日間、好天に恵まれた山旅が終わった。

がんの全摘手術を受け、人工肛門のハンディを背負って日本百名山に挑戦、3年の歳月をかけて達成することができた。満足感に包まれて磐越西線の車窓から飯豊連峰に見入る。それは飯豊本山から大日岳へかけての稜線であった。