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王の剣士 番外 「バインド」


 右肩が熱い。
 常に火が灯り続け、肉を焼き続けている。
 右手の指の間接が、肘が、砕けそうに軋んでいる。



 青白い光が辺りに満ちている。

 あの男の剣が身を掠める。
 目の前の剣士を切り裂くか、自分が切り裂かれるか。
 押さえ難い笑いが込み上げてくるのが、自分でも判った。
 ここで切り裂かれて死ぬのなら、それは悪くない死に方だ。


 だが、期待していた死も、期待していた勝利も無かった。

 ふいに男の剣が砕け、その姿が掻き消える。
 狼狽すら覚えて一歩踏み込んだ先に、もう一つの青白い光が見えた。
 まだ生まれたばかりの、真新しい光。
 だが、そこから発される力の片鱗に、バインドは笑った。
 男の視線が向いたものは、あれだ。
 ただそれだけを目指して、歩く。
 こんなものの為に、あの男は戦いから気を逸らしたのか?
 くだらない。
 いや、早く育て。早く、早く。
 そして――

 俺と、闘え。


 冥く嘲る声が囁く。

 ――いいや。

 ――お前に既に、剣は無い。


 
 ひやりと冷たい感覚に、バインドは閉じていた眼を開けた。
 開けるよりも前に、そこに居る者が誰か判っていたが、感じる怒りは無かった。
 バインドの視線に押されるように、子供が後退る。バインドは自分の右肩に置かれた、水を含ませた布に眼を落とした。焼け付く痛みを布が冷やしている。
「――ふん。お前は俺の言葉を理解していないのか? それとも殺されたいって事か?」
 身体を起こし、載せられていた布を子供へ放る。それは身じろぎもしないままの顔にぴしゃりと当たった。
 冷淡な言葉にも、子供はただバインドの顔を見つめたままだ。よく見れば、最初五、六歳と思われたが、もう少し年齢は上だろうか。栄養の極端に不足した体付きのせいで幼く見えているのだろう。
 未だ一言も言葉を発していないという事は、口が利けないのか、それとも言葉を知らないのか。
「……チッ」
 バインドは舌打ちをすると、欝陶しそうに左手を払った。
「行け」
 そう言うと再び、視線すら向けずに横になった。


 子供は土の上に寝転がった男を見つめ、それから自分もその場に横たわった。
 そうすると男の背中が見える。
 出会ったときに笑ってくれた。
 いくらいっしょうけんめい考えてみても、自分に笑ってくれたあいてをほかに思い出すことができない。けれど男は、きのうも自分に笑ってくれた。
 さっきは首をつかまれてひどく痛かったけれど、きっとまた、あのキレイなビンを持ってくれば笑ってくれる。
 あのへやにはあれがいっぱいあって、きっとあのぶんだけ自分に笑ってくれるだろう。
 食べるものも、持ってきたらいいかな。
 子供は小さく笑みを浮かべ、身体を丸めて眠りに落ちた。



 子供は、いつから一人だったのか、それすら覚えていなかった。
 ずっとずっと、ずっと前に、誰かと一緒だった気がするけれど、その人の顔も思い出す事は出来なかった。日々を生きるのに精一杯で、思い出す余裕も無い。時折暖かい陽射しの中でまどろんでいると、微かに、朧げな輪郭が蘇って来るような気がした。子供にとって、彼等はそんな存在だった。
 実際には、子供は物心つく前に両親を病で失っていた。ただでさえ貧しい村に生まれた子供には、引き取ってくれるような親戚も隣人も存在せず、それはただ死ぬのを待つ状態に置かれたようなものだった。
 空腹のあまり村の畑の野菜を盗み、それで村を追い出された。
 子供が飢えで死ななかったのは、幸運の上にも幸運が重なったからと言っていい。子供に限らず、例え成人であっても、厳しい季節、病、飢え、そんなもので命を落とす者は後を絶たないのだ。
 弱い者から死んでいく。それが、当然の摂理だ。
 子供は村を追い出された後、当ても無く彷徨う内に、大きな森に辿り着いた。
 森は村よりも、子供に優しかった。
 空腹を感じると、森の中に生えている草の根や、小さな生きものを捕まえて食べた。小川ではうまく行けば、魚が捕まえられた。
 暖かくなってくると、森はとてもいい場所になる。花は蜜を蓄え、木には甘い果実がたわわに実る。小さな闖入者一人分を養うだけの余裕を、森は十分に持ち合わせていた。
 夜は大きな木の根元に丸まって眠る。凍えそうな時は、土に穴を掘った。
 森を出る事はあまりない。
 森のすぐ傍には北の街道が走り、小さいながらも栄えた街があった。
 アス・ウィアンというその街は、王都から馬で四、五日の距離にあり、王都の恩恵を受けるにそれは十分な距離だ。
 だが、子供にはそれは理解できるものではなく、第一子供は王都すら知らない。
 ただ、街には大勢の住民がいて、子供にとっては恐ろしい場所というだけだ。
 街の中は綺麗でいたる所で美味しそうな匂いがするけれど、子供が近づくと石をぶつけられたり追い掛けられたりするから、すごく恐い。森にも大きな生きものがいて、恐ろしい思いをする事もあったけれど、彼らの住んでいる場所に近づかなければ、彼らもあまり近寄ってはこなかった。だからいつも森の中にいた。
 この間、おおぜいが住んでいるところが、すごく賑やかだった。きれいな音が聞こえて、たくさんのいい匂いがしていた。
 恐さを忘れて近寄ったら、見たこともないくらいたくさんの人達がいて、見たこともないものがいっぱいあった。
 それは街の祝祭だったが、子供にはただ奇異に、そして華やかに感じられただけだった。
 街の中を歩いていても、誰も子供を気に留めず、誰にも追い掛けられなかったから、子供は少し奥まで行ってみた。突き当たりに石造りのとても大きく立派な家があって、壁に子供が漸く通り抜けられるほどの隙間があった。その中に何があるのか、ふと気になってそこから潜り込んだ。
 部屋には誰の姿もなく、ただたくさんの木箱や麻袋が整然と置かれているだけだ。子供は辺りを見回し、きれいな壜と、美味しそうな食物を見つけて、それを持ってそこを抜け出した。
 賑やかに浮かれる街を抜け、森に入ったところで、あの男達と出くわした。少し走ったけれど、捕まえられて、せっかく持ってきたものを取られそうになった。
 まさに自分が殺されるところだったのだと、それが子供に理解できていた訳ではない。
 だが子供が絶望や不条理という言葉を知っていたなら、こう明確に考えただろう。
 何故、こうも苦しい想いばかりをしなければならないのか?
 その時、初めて彼に会ったのだ。
 子供が持ってきた壜を見て、彼は子供に笑みを向けた。
 あれがあると笑ってくれるのだと、以来夜にこっそりあの場所に行っては、あの壜を持ってきた。



 朝の光に眼を開け、バインドは辺りを見回した。あの子供の姿は見当たらない。
 汚れていた顔や手がすっかり拭われているのに気付き、バインドは顔を顰めた。
(ふざけやがって。何なんだあのガキは)
 どうにも苛々して仕方がない。あんな子供一人が自分にどう影響する訳でもないが、追い払ってもまるで逃げようともしないのも気に食わなかった。
 ふと眼を向けると、すぐ足元に昨日の壜が置かれている。
 手に取り、放り捨てようと思ったものの、バインドは振り上げた腕を止めた。代わりに木の幹に壜の首を叩きつけて割ると、中の液体を喉の奥に流し込む。
 酒の味は悪くは無かった。





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