二
俺の生まれたヴェルナー家は、いわゆる名家と呼ばれる、古い歴史を持つ家だ。
父ヴェルナー侯爵は王国の政務を取り仕切る内政官房の副長官の役職にあり、また十ある侯爵家の筆頭を努める。それ以上の位にあるのは、四大公と呼ばれる四名の公爵と、王だけだ。
兄弟は五人。六歳離れた兄とその一つ下の姉、五歳離れた妹、それから――双子の弟。
兄弟は幼い頃から個々の館で、養育官によって育てられた。それぞれに生母は違い、兄と姉、俺と弟の母は既に亡くなっており、妹の生母が現在は彼女と同じ館で暮らしている。
同じ家にありながら、兄弟達と親しく言葉を交わした記憶はさほど多くはない。何か儀式などがある時程度だろう。姉は早くに他家に嫁ぎ、兄は後継者としての教育を受ける為、常に周囲を多くの養育官に囲まれており、兄弟達と食卓を伴にするという事も殆ど無かった。
それは父とも同様だ。まず顔を合わせる事が月に一度あればいい方で、下手をすれば半年振りなどという事にもなりかねない。物心ついて以来、父と交わした会話の回数を数えるのは容易い事だった。
それに不満が無かったかと問われれば、当初はあったのかも知れないが、まあ慣れてしまえばたまに会う事の方が面倒になる。
兄と他の兄弟達との、父の接し方の違いは明らかだった。父は跡継ぎである兄にしか関心のない、そんな男だった。それ以外がいる事を覚えているのかすら、怪しいものだ。
それ程の繋がりの薄さを知っていれば、多くの者が俺の「家」などに要らぬ気を回す必要も無かっただろう。
そうした状況の中で、双子の弟だけは同じ館で育った。十を数えるか数えないかという頃までの話だ。
生まれつき胸が悪く病がちだった弟は、日の大半を寝台の上で過ごす事が多く、その分というのか、思慮深く穏やかな性格をしていた。いつも誰かしらが傍にいる事を好み、俺は良く彼に請われてその寝台の脇で書物を広げていた。彼がするとりとめもない話に頷き、意見を交し、求められればその日にあった出来事を語る。
とはいえ、俺もまた殆ど館を出る事もなく過ごしていたのだ。それほど日常に変化がある訳ではなかったが、それでも弟よりは日々の事を語る事が出来た。
彼は些細な事でも感心し、良く笑った。笑う程の大した事があるとも思えず、何がそれほど面白いのか、俺には分からなかった。
「だって面白いじゃないか」
それを問うと、彼はさも当然のようにそう答える。
「毎日同じ事の繰り返しの、どこが面白いんだ?」
「それだってちょっとずつ違う。生きてる以上は」
「……」
「ロットバルトは余り笑わないよね。だから僕がその分笑ってるのかもしれない。双子だから。――でもそうすると、僕が笑いすぎるから、君が笑わないのかな」
「――別に。楽しかったり嬉しかったりすれば、俺だって笑う」
「もっと笑った方がいいと思うよ。せっかくすごく綺麗な顔してるんだから、笑ったらみんな喜ぶよ」
「自分も同じ顔だって判って言ってるのか?」
呆れてそう返すと、ふと彼は、言い表しようのない表情を浮かべた。
「僕もそんな顔をしてるかな」
「……俺みたいになる必要はない」
「そういう意味じゃないよ」
彼の言いたい事は判る。俺達はまるで鏡に映したように似ていたが、彼の内部を蝕む病は、その表面から生気を奪っていた。
「ロットバルトは自分の顔が嫌いなの?」
「別に」
好きでも嫌いでもない。単にこれが俺だというだけだ。
館で過ごす中で、俺は様々な事を学んだ。政治、経済などの学問一般。護身の為の武術。学ぶ以外にすべき事が無かったというのが正しいが、敷地内には必要なものは大抵あり、わざわざ外に赴く事もない。教師達は父である侯爵の我が子等への配慮だと有難そうに言っていたが、単に一々考えるのが煩わしかっただけだろう。
ただ確かに、この状況が恵まれているのは確かだ。不満を差し挟む余地はない。
「そう言えば、あれはどうなったの?」
何の事かと顔を上げると、弟は寝台の上で枕に背を預けたまま、剣を抜く素振りをしてみせた。
「この前、上手くいかないって言ってたやつだよ。斬る時の力の入れ方が良く判らなくてってさ。こんな感じ?」
まだ一度も剣を持った事のない弟は、何回か剣を振る真似をしてみせて、やはり感覚が掴めないのだろう、自分でも首をかしげながら寝台の脇に座っていた俺の顔を見下ろした。その顔には微かな憧れの色が見える。
「……まあ悪くはないと思うが……斬る瞬間だけ握り込むんだ。今のところそれが一番いい」
「なんだ、もう解決しちゃったんだ。一緒に考えようと思ったのにな」
つまらなさそうに枕に背中を預け、それから穏やかな瞳を天井へ向けた。
「でも、やっぱりすごいよね」
「何が」
「出来るまでやるもんね、君は。負けず嫌いだしさ。何日かかった?」
彼は人を褒めるのが上手いとでも言うのか、彼の柔らかい口調でそう言われると、理由は無くても自分はそうなのではないかと、そんな気にさせられる。
「……ひと月と十日」
「ずっと? それだけやってたの?」
俺が頷くと、驚き、呆れた後、彼は可笑しそうに笑った。
父に会う機会など殆ど無いにも関わらず、弟は父の事を慕っていた。
「父上にお会いしたいなぁ。いっつもお仕事で、この間の僕らの誕生祝いにも来てくれなかった。せっかく九歳になったのにな」
誕生祝など大して意味のあるものではないが、一応の祝いの席でも、これまで父が顔を見せた記憶はない。それを言おうかとも思ったが、彼がひどく淋しそうな色を浮かべていた為、さすがにやめた。
「仕事があるんだ。仕方ない」
「だって兄上とはいつも食事を一緒にされるじゃないか」
「兄上は跡取りだろう」
「だからって兄上ばかりずるいよ。――ロットバルトは淋しくないの?」
「別に」
正直に言えば、俺には父を恋しがる弟の心情が理解できなかった。年に数える程しか会う事の無い相手を、どうしてそう慕えるのだろう?
同じ時間を過ごしながら、考え方がこうも違ってくるのは不思議だ。生来の性格が為せるものか、彼が病を得て不安を感じていた分、より多くの愛情や関わりを欲したのか。
「僕は大きくなったら絶対、父上のお役に立てるようになるんだ。そうしたら父上も喜んでくれるよね」
「――確かに、役に立つようになれば喜ぶだろうな」
事実を言ったまでだが、彼は悲しそうな顔をして、寝台の脇に寄りかかって座っている俺を見下ろした。
「でも、じゃあロットバルトは何の為に勉強してるの? ずっとずっとやってるだろ。剣だって、手の皮が剥けるまでやってるのを知ってるよ」
「別に。――暇だから」
弟はすっかり頬を膨らませ、寝台の上で肩を落とした。
「ロットバルトは冷たい」
「お前が期待し過ぎなんだ」
言葉も無く黙り込んだ為、少し冷たく言い過ぎたかと思った。そんな時はいつもそうであるように、また落ち込むだろうと思っていたら、彼は瞳を見開くようにじっと俺を見て、それから嬉しそうに笑った。
何故笑ったのか、その時には聞かなかった。
だからもう、彼があの時何故笑ったのかを、知る事はできない。
弟の病が進行し、もはや手の施しようもなくなったのは、それから一年も経たない、まだ彼が十年も生きていない頃だった。季節は冬へと差し掛かっていた。王都の冬はそれ程寒いものではなかったが、それでも冬の冷気は身体に堪える。
主治医は少しでも長らえる為に、空気の暖かい所で療養する事を勧めた。幸いヴェルナー家の別邸は各地にあり、南方の一つに弟を移す事になった。俺まで行く必要はなかったが、弟がそれを望んだ為、俺も共に別邸へ移った。
移った当初の四、五日は、弟の容態はゆるやかに快方に向かっていくように見えた。寝台の上に起き上がる事もできたし、窓から外に広がる湖を眺める事もできた。
「湖に船を浮かべて乗ったら楽しいだろうね。ねぇ、ロットバルト、乗って見せてよ。僕はここで見てるから」
弾んだ声とは裏腹に弟は幾度か小さく咳き込み、俺は外気の流れ込む開け放されていた窓を閉ざした。弟に視線を戻すと、彼は名残惜しそうに窓の外へ目を向けていた。
「……自分で乗ればいいだろう。体調が大分良くなって来てる。あと数日もすれば乗れるさ」
「君が見せてくれれば、それでいいよ」
もう一度、そんな事は自分でしろと、そう言って俺は部屋を出た。
廊下から外を眺めた窓越しに、陽を受けて碧く輝く湖が館の前面に広がっている。
深く穏やかなその色は、彼の瞳のようだと、ふと思った。
弟の容態が急変したのは、その晩だ。
苦しそうな息の下から、弟は何度も父の名を呼んだ。
俺は生まれて初めて、父に宛てて手紙を書いた。ただ言付けるだけで良かったのにそんな事をしたのは、父が手紙によって或いはここに来る気になるかもしれないと、そう思ったからだ。
弟が貴方に会いたがっている。せめて一目、顔を見せて欲しい、と。
急使を立てたから、手紙はその晩の内に王都に届いただろう。
弟には父はすぐ来るだろうと、そう言った。どれ程の痛みがその身の裡にあるのか、俺には感じ取る事すらできなかったが、苦しみに耐えながらも彼は嬉しそうに笑った。
その隣に立ったまま見下ろすと、弟の蒼い瞳と目が合った。色の失せた顔の中で、その瞳だけが熱を宿している。周囲では医師達が慌しく行き来していた。逼迫した空気の中で、弟の姿だけが静かだ。
立ったままの俺を見て、弟は僅かに笑みを浮かべた。
「――僕が、一番、気掛かりなのは」
「止めろ」
断ち切るように遮ると、弟は口元を緩ませる。
「まるで、今にも、君が死にそうだ」
その方がマシなんじゃないか。
どう考えても、俺より弟の方が価値が高い。俺には何も面白いとは思えない。父に会いたいとも思わない。
そうしたい方が、残ればいいのだ。
何故そうはならないのだろう?
弟は黙ったままの俺に構わず、天井に視線を向けたまま、押し出すように言葉を紡ぐ。
「僕が一番、気掛かりなのはね――この先、君がどこで、……夜を、過ごすんだろうって、事だ」
「……どこでだって、俺は居られる。お前が居て欲しがるからだろう」
「そう、だね……」
弟は曖昧な笑みを浮かべた。
もっと何かを言うべきかと言葉を探したが、口を開く前に彼はひどく咳き込み、医師達がその周りを取り囲んだ。彼らに押されるようにして退いた俺を、色の褪せた視線だけが追う。
掠れた呼吸と共に押し出される微かな声は、それでも俺の耳に届いた。
「……君が、笑うように、なるかな……」
「――言っただろう」
何も代わる必要などない。
彼はただ、笑った。
その後は、もはや会話も交せる状態ではなく、途切れ途切れの荒い呼吸だけが、彼の命がまだある事を告げていた。
俺は彼がいつもそう望んだように、寝台の横に背中を預け、床の上に座った。
時折物音に耳を澄ませる。
けれど深い夜の中で、馬車の車輪が石畳を弾く事もなく、飛竜の羽ばたきが夜風を切り裂く事もなかった。
夜更けを過ぎても、父は姿を見せなかった。だがもう、うわ言を言う事もない弟には、父が来たところで判るまい。
俺はただ、弟の手を握るでもなく、寝台の脇に座っていた。
夜明けが室内に忍び込む頃、弟は静かに息を引き取った。
完全に夜が明けきる頃には、館の中は慌しさに包まれていた。走り回る足音と、啜り泣く声が交じる。
「――葬儀の準備をする必要があるな。父へは何と?」
「お亡くなりになった事をお伝えしましたが……、ご指示は、まだ……」
「なら、別にいい。進めてくれ」
誰もが、何を言うべきか分からずに、戸惑った表情を浮かべている。俺達の養育官は、慎重に言葉を選んで俺を諭した。
「お父上はお忙しかったのでしょう」
そうだろう。
「余りお父上を責めてはなりませぬ。……クラウス様を、ご自分のお子がお亡くなりになって、お心を悼めておられるはずです」
まあ、そう思うのが一番いいだろうな。
ただ頷いて、弟の部屋を出ようとした時、朝日を浴びて光る碧い湖が視界に入った。
ゆらぐ深い色は、生命を満たした柔らかいあの瞳のようだ。
「……船はあっただろうか」
「は? い、いえ、ございますが」
「なら、少し乗ろう」
もう見る事ができる訳ではなかったが、多少は喜ぶのだろう。
「まだ十にも満たぬというのに、あの方は冷静で、眉一つ動かされん」
「あの方が一番、侯爵に似ておられるのかもな」
「泣いて差し上げた方が、クラウス様は喜ばれたでしょうに……」
漏れ聞こえる声はただ煩わしい。
葬儀は身内だけでひっそりと行われた。
父の姿は無かった。
欝陶しいくらい、晴れた日だった
長じるにつれ、俺はそれなりに自分の能力を育てていった。
吸収できる限りの知識を吸収し、武芸を学んだ。
王立学術院に入ったのは、交渉力や社交力を身に付けるためだ。
館に用意された教師達だけでも、ある程度の知識を得るには十分だったが、十五を数える頃にはそれでは物足りなくなっていた。何よりこの狭い世界の中では他者との接触の機会はほとんど無い。
知識を得る事よりよほど重要なのは他者との交渉術だが、ここではそれを学ぶ術や機会は無かった。
寮を希望したが、それは認められなかった。
だが院の試験は無難に抜けられたらしく、その年の総代として式典で挨拶を行う事になった。
壇上に上がると、数百の目が一斉に注がれる。それは生まれて初めての緊張を覚えた瞬間だった。無事に宣誓を終え、壇を下りて自分の席に戻った時、後方の席から密かな声が洩れた。
「総代だって? さすが、ヴェルナー家の子息は扱いが違うよな」
静まり反っていた場内の空気が騒めき、教師達の慌てたような叱責の声が幾つも上がった。
たったそれだけの言葉で、彼は席を立たされ、その日の内に除籍された。俺に対しては、副学院長がわざわざ謝罪の言葉を告げに来た。
呆れた対応を通り越して、笑うべきだろう。知を信奉する組織が、まともな判断とは思えない。だがそう告げても、彼等はひたすら恐縮するばかりだった。
俺が、自分の家が――自分がと言うべきか、他者からどう見られるか、初めて突き付けられたのがそこだ。
これまで外部とは没交渉のまま館の中で過ごし、自分の置かれている場所を異質なものとして認識する事など無かった。
反目と、追従。
それは学院にある期間、ずっと消える事なくあった意識だ。
歓迎できる反応では無かったが、彼らが俺の背後に、在りもしない父の影を見て様々な態度を見せるのは、いっそ面白かった。
誰もが、俺の上に父、ヴェルナー侯爵の影を見ている。
『ロットバルト・アレス・ヴェルナー』?
そんなものは単なる侯爵家の一部だ。そこに見いだせる価値などない。
だが、ヴェルナーに生まれた以上、そのくびきから逃れて個として立つ事は不可能に近いと、俺は次第に自覚するようになった。
反目する者、お世辞を並べたてる者、俺に近づく者の大方はそのどちらかに別れた。ただ、近づいてくる者は少ない方だ。それ以外の大勢は、ただ俺との関わりを避けるように遠巻きにして眺めていた。
反目と追従であれば、どちらかと言えば、反目される方がまだましだったが、時に拳を交えるような場所でさえ、父の影は消えなかった。
当初は苛立ちも覚えたが、次第に俺は、ただ受け流す事が一番手っ取り早く、問題も少ないと学んだ。まあそれも交渉術の一つと言えなくもない。いつだったか、弟が言ったとおり、幸いこの「顔」はただ笑むだけでかなりの面において問題は回避される。家柄にしろ、容姿にしろ、使おうと思えばそれなりに役には立つものだ。
結局それはどれも俺自身の能力によるものではなかったが、周囲はそんな事は気にはすまい。
王立学術院に入って数ヶ月が経過した頃からか、館で父の姿を良く見かけるようになった。朝食の席に前触れも無く現れる。
特に何かを話す訳ではない。俺も話したい事は思い付かなかった。まあ世間一般の挨拶程度は交わしただろう。それ以外はただ黙々と食事を進めるだけだ。莫迦らしい事この上ない。
「お父上は、成績優秀な貴方を喜んでおいでなのですよ。学院での成績をを常に気にされておいでです。学問も武芸も首席でいらっしゃるから、誇らしいのでしょう」
俺から父に成績を報告した事など無かったが、おそらくは学院から報告が上がっているのだろう。
次第に来訪の回数は増え、当初は朝食だけだったものが、時折晩餐の席にも現れるようになった。忘れられたようにしんと静まり返っていた館の中が、その度に活気を取り戻していく。
父の意識がどこへ向いているのか、それをこの狭く深い世界の中で、誰もが息を潜めて注視していた。
丁度その時期に、敷地内の庭園で偶然兄と行き合った。そこは中央の庭園でもそれぞれの館に面したものでもなく、家の者が余り訪れない、裏門の近くにある庭だ。
兄は数名の侍従を連れ、植え込みの合間の整えられた小路を正面から歩いてくる。
俺は脇に避け、兄が通り過ぎるのを待った。
だが、次第に近づいて来るにつれ、このまま礼を通して過ぎるのを待つか、それとも言葉を掛けるべきか、当然のごとく迷いが生じた。
兄から言葉をかけない限り、下の者から話し掛ける事は通常有り得ないのだが、随分と長い間、兄とこれ程近い距離で顔を合わせた事はない。尤も、会話の内容など思い付かないが。
すぐ手の届く位置まで、兄が近づいて来る。伏せた面を上げようか、尚も迷っている間に、兄は俺の横を通り過ぎた。
軽く息を吐いて顔を上げ、歩き出そうとした時、兄の声が聞こえた。
「今のは何という名だったか」
侍従達の間に、追笑が洩れる。
「貴方の弟君ですよ」
「ロットバルト様でしょう」
「ああ――」
兄は足を止めも、振り返りもしない。
「死んだのでは無かったか」
「滅多な事を仰いますな」
「そうか? 同じ顔が二つもあって、判りにくかったからな。まあどちらでも大差はない」
兄と侍従達の密やかな笑いが緑の中に散る。
一瞬膨れ上がった怒りを押し留めきれず、俺は彼等の方へ振り返った。視線の先で兄も振り向く。
全く似ていないのは母が違うからだが、それ以上にそれが俺達の距離なのだろうとさえ思えた。
怒りは急速に冷める。それ程に遠い距離にあるのなら、発する言葉は届く前に散り、意味を無くす気がした。
兄は何を思ったのか、俺の方へ数歩歩み寄った。俺が儀礼的に頭を下げると、やはり上辺だけの笑みを浮かべる。
「久しいな、ロットバルト。健勝そうで何よりだ」
「兄上におかれましても。日々のご活躍は聞き及んでおります」
「学院では、大層優秀だそうだな。私も聞くにつれ、誇らしい想いでいる」
「恐れ入ります」
「お前も、いずれ内務に進むのだろう?私の下に来るといい。働き振りが楽しみだ」
そう言って一つ笑うと、俺が顔を上げるのを待たずに兄は再び背を向けた。侍従達を後に従え、庭園の外へ消える。
息を吐き、反対方向へと歩き出しかけて、それまで黙って控えていた養育官の悔しそうな顔が目に入った。
「どうした?」
「いかに兄君のお言葉とはいえ、同じ侯爵家のお子に対して、あの侍従共の無礼さは目に余ります。貴方に対して、道を譲りさえしないとは」
心底憤っているのか、声は微かに震えてすらいる。
「……長子以外は侯爵家には無くても変わらない。気にするだけ無駄だ」
「そのような事を……! 第一、侯爵がお館へいらしている事も分かっていての態度なのでしょうか」
だからこそのあの態度なのだろう。それはこの屋敷の中での全ての中心だ。
まあ彼が憤るのは判る。弟はこの養育官を慕っていた。
もう一度庭園の入り口に視線を投げ、俺はその場を離れた。
内務へ進めと、父がそう言ったのは十八歳を過ぎ、三年間の院での学業の修了を間近に控えた頃だった。その頃には、父が晩餐を伴にするのは兄ではなくなっていた。
「……まだ私は、進むべき方向を決めてはおりませんが」
「お前が決める必要はない。私がお前に相応しい地位を用意しよう。お前はヴェルナー家の誇りだ。兄よりも、このヴェルナーを繁栄させるだろう」
相応しい?
相応しいのは俺にではなく、ヴェルナーの子息にだろう。
屋敷の内部は、数年の内に大きな変化を見せていた。
「本日も面会を求める者が複数ございました。全く、調子のいい者達が多い」
後半は独白に近かったが、最近常にそうした憤りを見せている養育官を眺め、彼が示した卓の上に視線を向けた。
「お笑いになっておられる。そうでしょう、これなぞ、いつぞやの侍従の一人ですぞ」
不快そうな響きの中に僅かに勝ち誇る色があるのは、それがいつか庭園で兄の横にいた侍従からのものだからだ。そこに積まれた書状や品々の差出人には、兄に近い立場の者の名も幾つか含まれている。
父の態度の変遷は館の内部にも確実に伝わって、彼等の関心の舞台はいまや二つに別れていた。
「どのようになさいますか」
「放っておけばその内飽きる」
彼等の予測する方向には事態は進まないと、遠からず理解するはずだ。
父の身勝手に付き合う気は全く無い。
俺が近衛師団を選んだのは、軍の役務に興味があったからではない。
近衛師団は王直轄の組織だ。師団の任免は王が決定する。例え四大公と言えど、師団に直接口出しする事はできない。
あまり他者に話せた理由ではないが、単に俺は『ヴェルナー』という枠の中から抜け出したかったのだろう。それができる場所なら、要はどこでも良かった。
子供じみた思考だと、自分でも思う。
「近衛師団を志願したというのは本当なのか」
父は、とんでもなく馬鹿げた事をしでかしたとでもいうように、俺の顔を見るなり声を荒げた。内政官房の副長官として、長年内政を動かしてきた男だ。その血を受けた者は当然の如く、自らの意図のままに動く事を信じて疑わない。
その驚き憤る様は、中々に面白かった。それだけで、軍を選んだ価値があるというものだ。
「ええ。先日試験を受け、ちょうど採用の通告を受けた所ですよ。幹部候補での採用との事です」
「何を考えている」
「ヴェルナーは軍での基盤は弱い。今現在、正規軍に数名は在籍しているものの、誰も軍の要職にはないでしょう。軍内、特に近衛師団に確たる繋がりを持っておく事は、この家にとっても有意に働くと思いませんか」
「だからと言ってお前が軍になど入る必要はない。今からでも内務に進め。お前の席は既に用意してある」
くだらない。思わず笑い出しそうになる口元を堪え、目の前の父の顔を眺めた。濃い髪の色は、俺とは違うものだ。目の色だけが僅かに血の繋がりを感じさせる。
「既に兄上がおいでだ。その為に様々な知識を身に付けてこられた。おまかせしますよ」
父の声は苦虫を噛み潰したように、だが僅かに、低くなった。
「ロットバルト。私はあれよりそなたに期待しておる。侯爵家は」
「それでは、兄上は納得されないでしょう。跡継ぎとして彼を育ててきたのは貴方だ」
父にとって、ただそれだけの為に、兄は存在していたと言ってもいいだろう。
最近時折眼にする兄の顔には、焦燥と苛立ち、そしてどこか不安定な精神が伺えた。
それに――父は気付いていないとでも言うつもりだろうか?
「誰を跡継ぎにするかは私が決める。お前達の口出す事ではない」
一瞬だけ、俺は拳を押さえ込むのに苦労した。
「――熟考されるべきですね。余計な諍いを増やす必要はありません」
それ以上会話をする気にはなれず、呼び止める父の声を無視して、俺は席を立った。
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