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王の剣士
【第二章「人形師」】


 地政院の河川管理官は叩きつけてくる雨にずぶ濡れになりながら、運河に架かる橋の欄干に捕まって足元の水面を覗き込んだ。
 運河の岸壁に刻まれた目盛りを見る為だ。
 暗い橋のたもとを長い柄の先に付けた角灯で漸く照らし、傍らの同僚を振り返る。
「危険水域まであと一尺弱ってとこですね、だいぶ水嵩が増してきてます。今夜は堰を開けないと溢れますね」
 目盛りの赤い線の位置まで水がくると、運河が氾濫する危険性がある。
 彼等はここ、王都下層ラドヴィック地区を流れる新運河の水量の監視の為に雨の中を回っていた。
 年配の管理官も頷く。
「よし、もう商船の運航も止まってるだろう。街門の管理部に今後は入れるなと通知しよう。管理官長の許可取って船を流されないように逃がして、開けるとしたら準備が整うのが早くて四刻後かな」
「明け方まで保つかもしれませんが、その方が安全ですね」
 今は夕方も六刻を過ぎ、昼過ぎから降り出した雨はまだ強い雨脚を保ったままだった。
 足元の運河は雨水を貯え、ゆっくり、しかし確実に水嵩を増していた。
 王都内外に造られた運河は、この国の重要な血脈だ。各地方を流れる河川を繋ぎ、大量の荷の運搬を容易にしている。
 国内に張り巡らされた街道と、運河。
 ここまで整えられた輸送路は他国ではまだ見られない。
 土地の利、豊饒な土、高い軍事力、それらがこの国を安定させている要因だが、安定の上に立つ長期の繁栄の理由の一つには、国内の輸送基盤を整え、高めた事がある。王の賢政の一端を示すものでもあった。
 王都は中心に行くに従って傾斜がかかり、なだらかな山のような姿をしている。荷の運搬の為に造られた運河も当然傾斜が強く、それだけでは船が上る事は不可能に近い。
 その為に、運河には一定間隔で堰が設けられている。この堰で水量を調節し、水位を上下させて二つの区画の水面の高さを合わせる事で、船の通行を可能にしていた。
 だから基本的に運河に自然の流れは無い。一定の水位を保つ為の排水機能はあるが、排水量を超す雨が降り続けば、やがて溢れてしまう。
 今日のような激しい雨が長く続く日は、船の運航を止めて堰を解放し、水を強制排出する必要があった。
「じゃあ一刻余裕を見て十一刻に開けよう。お前は管理官長に報告して準備を始めといてくれ、私は様子見ながら歩いて街門まで連絡に行ってくる」
「判りました。一刻ですね」
 時間を確認しあい、二人は片手を振って橋の上で別れた。
 年配の管理官は橋の右手、ラドヴィック地区側の岸壁を街門に向かって歩き出す。
 少し行った所で管理官はふと足を止めた。ラドヴィック地区の反対側にもう一つ運河があるのを思い出したからだ。
「そうだ、旧運河も開けないとな――マート!」
 叫んで手を振ると、橋の向こうで同僚が振り返る。彼等の管轄はこの新運河だけではなく、マレル地区の旧運河も含まれている。
「マレルの旧運河も俺達だ! 忘れずに一緒に開けるように伝えてくれ!」
「旧運河ですね、判りました!」
 マートも大声で手を振り返し、二人はそれぞれの方向へ足早に消えた。
 降りしきる雨が運河や建物を叩く。
 その音の中に、別の微かな音が混じった。
 キリキリと、歯車が回るような音だ。
 先ほどまで二人が話していた橋の、建物の路地の暗がりから聞こえてくる。
 暗がりの音はしばらく雨に紛れて聞こえていたが、やがて遠ざかっていった。




「堰が開く」
 ユンガーは人形に身をもたせかけたまま、笑みを浮かべた。
 目の前の人形は管理官達の会話を伝え終わり、かくりと首を垂れた。
 全て彼の計画どおり――いや、この雨やアスタロトを手に入れた事は計画の内ではなかったが、計画を補うように進んでいる。
「じゃあ今晩だな」
 卓の向こうでウルドが身を乗り出す。ユンガーはゆったり頷いた。
「今晩、十一刻に王都を出る。用意を整えておいてくれ」
「娘達はどうすんの? 騒がれたら不味いよねぇ。ぎりぎりまでここに置いとくかい」
 エマは顎をしゃくって娘達を閉じ込めている階上を示した。
「そうだな。騒がないよう眠らせてから船倉に移してくれ」
「判ったよ。あのお嬢さんも?」
「彼女はいい。娘達が寝ていれば、一人で連れ出しようもないだろう」
「ま、さすがに五人担いでは行けないわね。やろうとしそうだけど」
 エマは笑って肩を竦め、「術の準備をする」と言って部屋を出ていった。
 彼等が王都を出るまで、あと五刻、日付が変わる前に王都を後にし、しばらくはどこかへ身を潜める事になる。
 一旦身を隠せば発見されにくく、発見されたとしても昼間の通り、正規軍を封じ込めるのは容易い。
 全て上手く進んでいる事を確信して、ユンガーは笑みを浮かべた。




 アスタロトはこの部屋の小さな窓を見上げた。ここへ来てから既に二刻は経っただろうか。
 その間何も動きが無く、ここまで来た目論見が外れたような状況で、正直に言えば少しだけ、焦る気持ちが強くなってきていた。
「まだかな――」
 先ほどから何度も部屋の中をくるくる歩き回り、椅子に座ってみたり壁を叩いてみたりしている。
 壁を叩いたのは隣に誰かいないかと思ったからだが、叩き返してくる気配はまだ無かった。
「もう」
 短い溜息をついて、再び椅子に腰かけた。この椅子一つしかこの部屋には無い。
「丁重に扱うなら、椅子だけじゃなく長椅子とか寝台とか、美味しい紅茶とか、美味しいお菓子とか用意してよね」
 こんな時にあれだが、ちょっとお腹が空いてきた。美味しいお菓子と紅茶を思い浮かべたら、アーシアの事が思い出された。
「アーシア、心配してるだろうなぁ。ヒューイットは上手く話したかな」
 アーシアが心配しているのは自分のせいにしても、ヒューイットがタウゼン達に話をする事ができたか、それがずっと気になっているのだが、さすがにこの状態では確認のしようがない。
 ヒューイットやタウゼン達を信頼するしかなく、ただそれに関してはアスタロトは自信があった。
(何が一番重要か、答えは一つしかないし)
 単純過ぎると言われようが、それが真実だ。形式や面子なんて命より軽い。
 それに彼女の副将軍タウゼンは、形式だけに拘るような狭量な人物ではない。
 だから、近衛師団への通達やこの場所を捜し出すのに多少時間がかかったとしても、待っていれば必ず、レオアリスはここに来るはずだ。
 来た時に、自分がどう動くべきか、考える必要があるのはそれだけ。
(ちゃんと考えなきゃ。できれば女の子達と一緒の部屋に入りたいんだけど)
 彼女達がどこにいるのか、アスタロトが今いる部屋では話し声も、泣き声すら聞こえて来ない。
(抜けて探しに行けたらなぁ。炎で扉を焼いてもいいけど、ユンガーがキレて娘達に手を出すのも駄目だし)
 捕えられた少女達、兵士達――これ以上誰一人傷付けずに事件を終わらせる義務が、アスタロトにはある。
「じゃないと来た意味ないもんね」
 それが出来なければ、それこそ正規軍将軍を名乗る資格は無い。
「あんまり待たせないでよね、レオアリス」
 今レオアリスが耳にしたらそれこそ切れそうな事を言って、アスタロトはのんびりくつろぐように両手を頭の後ろに組んだ。




「――何か、腹立って来た」
 レオアリスがぼそりと呟き、グランスレイは首を傾げた。
「どうかされましたか」
「いや……」
 この昼のアスタロトの行動を思い起こし、今後の対応を考え、ついでにアスタロトを見付けた時の彼女の第一声を想像してみたら、何となく腹が立っただけだ。
(絶対遅いとか良く来たなとか言うんだ、決まってる)
 どうせ心配したのが虚しくなるくらい元気な様子で。
 容易に想像できる。
 だから、問題無い。
 頭を一つ振り、濡れた髪から雫を落しながら、レオアリスは王城の玄関の階段を一段飛ばしに昇った。
 王の召命を受け、レオアリスはグランスレイと共にすぐにここ王城を訪れていた。
 近衛師団隊士が警護する巨大な玄関扉を抜け、大広間を真っすぐに横切り、更に正面の大階段を昇る。
「とにかく、王のご下命をいただいて、出来る限り早く動きたい。じゃないとあいつ、何しでかすか判らないからな」
 少しぶっきらぼうな口調に、グランスレイは階段を上がりながら数段上を行く上官の横顔を眺めた。
 ただ、そこに覗いている感情は、口振りとはまた違う。
「一刻も早く、公をお救いしましょう」
「別にあいつは心配ないだろ、仮にも炎帝公だぜ。それより攫われた娘とか、そこらの建物とかが心配だよ」
「そうですな」
 他の部下達ならここぞと突っ込んだだろうが、グランスレイは生真面目に返した。
「ですがやはり心配でしょう」
 そう真面目に問われると、意外と困る年頃だ。
「そりゃ、まあ――」
 何となく照れ隠しのように言葉を探していると、廊下の向こうから三人ほど、王城の女官がやって来るのが見えた。
 深草色の女官服を身につけた女達はレオアリス達の一間ほど手前で立ち止まると、裾を軽く持ち上げ丁寧にお辞儀した。
 一番前にいた女官が顔を伏せたまま静かに告げる。
「失礼致します、近衛師団第一大隊大将閣下。お迎えに上がりました。控えの間へご案内致します。陛下がお呼びになるまでそちらでお待ちください」
 レオアリスがすっと緊張を纏ったのが、後ろにいたグランスレイにも良く判った。
 彼の身を覆う緊張は召命を受けた時からずっと感じていたが、王の名を聞けば否が応にも高まる。
 グランスレイもそれは同じだが、レオアリスの感覚はグランスレイ達の感じ様とはどこか――根源的な部分で違った。
 女官は二人を控えの間へ案内すると、手回し良く揃えていた近衛師団の軍服を差し出した。
「お待ちの間に濡れたお召し物をお着替えくださいませ。今お召しの物は乾かして後日お持ちいたします」
 王の眼前に雨に濡れたままの軍服で上がるのは礼を失する。レオアリス達がこの雨で濡れるのを避けられないと、そう予想していて始めから手配していたのだろう。
きちんとレオアリスとグランスレイの身に合うものだ。
「ありがとう」
 心配りに礼を述べると、女官は微笑んで恭しくお辞儀をし、部屋を退いた。
 濡れた軍服を着替えていると、感じていた緊張感はじわりと密度を増してきた。王の前に立つ事への緊張だ。
 王に直接謁見し、直に言葉を交わす機会は、近衛師団大将という立場であってもそれほど多くはない。
 通常の朝議などへの参列はしても、軍の大将級ではまだ、求められない限りそうした場で発言する事は殆ど無かった。
 何より、幾度その眼前に身を伏せたとしても、その度に王の纏う空気に圧倒される。
 この国で、王はある意味別種の存在だった。
 建国からの長い賢政――西海バルバドスとの大戦を経た後の三百年に亘る賢政、大戦の百年、そしてそれ以前から、王の治世は続いている。
 王家ではなく、一人の王の。
 王が有する、法術とは異なる能力、また国土をあまねく見通すと言われる慧眼。
 王を前にした時、誰もが畏怖と畏敬と、時には戦慄すら覚える。
 そしてレオアリスが最も強く覚える感情は、喜びだ。
 グランスレイがレオアリスの上に自分達と違う感情を見出みいだすものが、正にそれだった。
 レオアリス自身気付いている。
 心の奥底から沸き上がるような歓喜。それは身の裡の剣が覚える慶びでもある。
 初めて王にまみえた時から――いや、まだ北の辺境で王都やそこに座す王の姿を思い描いていた時から、レオアリスの中に深くその想いはあった。
 長く待つほどもなく、先ほどの女官が扉を開けた。
 案内されたのは通常臣下への謁見が行われる謁見の間ではなく、王が政務を行う為の執務室だった。
 廊下の奥の重厚な両開きの扉の前に、男が一人立っている。身長は六尺四寸近くの引き締まった体躯に、短い白髪と、僅かな空気の動きすら読み取るような鋭い瞳。
「閣下」
 レオアリスは一度その場に立ち止まり、左腕を胸に当てて頭を下げた。
 近衛師団総将アヴァロンだ。
 近衛師団総将は常に王の傍近くに控え、王の守護者たる証として、近衛師団の中でさえ唯一、王の紋章が描かれた長布を纏う。
 近衛師団総将となる者は心技体共に優れた者でなければならず、アヴァロンは既に六十を過ぎた外見ながら老いを感じさせないどころか、王の守護者として相応しく視線一つで周囲を圧する迫力があった。
「王へは既にご説明している。おそらくすぐにご下命があるだろう」
 レオアリスは僅かに息を詰め、頷いた。
 レオアリスの全身を覆った緊張を見て取り、アヴァロンが口元を緩める。
「そう緊張せずとも良い。陛下はそなたに会う事を好まれる」
 瞳に抑えがたい喜びの色を浮かべたレオアリスの様子に笑い、アヴァロンは扉を開いた。
 すっと頬を撫でるのは、扉の内側から流れ出るような張り詰めた空気だ。自然と身が引き締まる。
 この国の――、彼等の王が、そこにいる。
 室内は灯りを落とされ、静寂が満ちていた。
 吐く息の微かな音でさえ散らすのを躊躇うような静謐さ。それはこの王が纏う空気によるものだ。
 広大な国土を安定させ、長期に亘って治め続ける王が纏うのは、決して勇猛さや叩きつけるような苛烈さではなく、息を潜め、身を震わせるような静謐。
 澄んで凪いだ深い湖のような思慮と叡智を思わせる。
 レオアリスは毛足の長い絨毯を踏んで部屋の中央に進み、片膝を付いた。
 左腕を胸に当て、深く顔を伏せる。
「近衛師団第一大隊大将レオアリス、召命により御前に参上致しました」
 王は執務机の上に落としていた視線を上げ、椅子の背に身を預けるように身体を動かした。
 空気が揺れる感覚が肌に伝わる。金色こんじきの双眸が静かに注がれる。
 身の裡の剣が鳴動するのを感じ、レオアリスはゆっくりと息を吐いた。
 束の間の沈黙の後、王は口を開いた。
 低い静かな声の響きやその表情からは多くの感情が伝わってくる訳ではないが、明確な意思の力がある。
「タウゼンから状況は聞いた。華やかな人形とその技は人の眼を楽しませてこそ相応しい。そしてこの世に永遠など在り得ず、永遠の時に意味は無い」
 長い時を経て尚、王の面は過ぎてきた歳月とは無縁のように、あたかも漸く四十の壮年に届くほどの歳に見える。
 それでいながら、永遠など無いと言う。
 全てを見透かすような、黄金の瞳。
「レオアリス。事の経緯はそなたの方が詳しかろう。すべき事は一つ」
 どくりと鼓動が鳴り、剣が鳴る。
「第一大隊を動かすか、そなたが出るか、それはそなたの判断に任せよう」
 ぐ、と引かれるように、レオアリスは頭を伏せた。
「我が名のもとに、全てを在るべき場所へ収めよ」
 王からの勅命――この瞬間に、今回の件は近衛師団の正式な任務となった。
「勅命、謹んで承ります」
 左腕を胸に当てて恭しく礼を捧げ、それからレオアリスは漆黒の瞳に光を刷いて立ち上がった。





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