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王の剣士
【第三章「マレル旧運河」】


 黒い羽が風を切って暗い街を飛ぶ。
 艶やかな羽は降りしきる雨を吸って重たげだ。漆黒の羽を持った一羽の鳥が、王都下層、マレル地区を中心に、雲に覆われた空と濡れた建物との間を飛んでいた。
 三日前の夕方、祝祭でアスタロトとレオアリスが法術士の女に遭遇した路地。つい四刻ほど前、正規西方軍の一隊が人形師達と対峙した建物。
 その上を駆け抜け、再び旋回して戻ると、黒い鳥は建物の窓から二階の廊下に入った。湿って重い羽を揺する。
(思ったより見えにくいし動きも重い――この雨はきついな)
 鳥は小さな丸い金色の瞳を廊下の暗がりに向けた。
 雨の匂い。使われなくなった建物の、埃っぽく黴臭い匂い。
 その中に交じる、流されたばかりの血の匂い――
 むせ返る――
 暗がりでさえ見分けられる血の跡。
 正規軍がこの場を片付けて行った後も、殺戮の痕跡はまざまざとこびり付いていた。
 怒りが、腹の底の方から湧いてくる。
 そして、アスタロトがああした行動を取った気持ちはレオアリスにも理解できる。
(だからって突っ走りすぎだけどな、あいつはいつも)
 既にここには痕跡しかない。人形師や法術士、ましてや人形の気配すらない。
 鳥は再び羽を震わせて飛び立った。
(どこだ――?)
 良く知ったアスタロトの気配すら感じ取れないという事は、法術なりで目隠しをしているのだろう。
 再び沸き上がる苛立ちを、レオアリスは努めて押さえ込んだ。冷静に対処するのが近衛師団大将としてのなすべき事で、そもそも今感情を昂ぶらせては、視界が切れる。
 翼は再び矢のように風雨を切った。
 アスタロトが連れて行かれたとして、それほど遠い場所ではないはずだ。
 大通りに出れば人目に付く。
 可能性が高いのは、運河側――。黒い鳥は旋回し、旧運河に沿って並ぶ古い保税倉庫群を横切る。
 雨が降りしきり、視界が悪い。
 意識を集中して視界を確保しようとしたが、逆に一瞬、視界が二つの線を重ねたようにぶれた。
(そろそろ、限界だ)
 あまり長時間続けるには、まだレオアリスは未熟――いや、もう向かない。
 それを察したように、心配そうな声で黒い鳥が鳴いた。
(まだ、もう少し――)
 そう言い聞かせ、立ち並ぶ倉庫群を抜ける。
 できれば一軒一軒全ての倉庫を覗いていきたいが、さすがにそこまでちそうに無い。
(くそ、ちょっとぐらい手掛かりがあったって良さそうなもんだ)
 運河――、船――商業船と思しき中型の帆船が一艘、水嵩を増した水面と帆に受ける風に、大きく船体を揺らしている。
 船首に飾られた獅子の頭を模した船首像が、船体が揺れるのに併せて上下していた。
 運河を渡るべきか、もう一度倉庫街を飛ぶべきか、迷ったところで視界が回った。
 ぐん、と意識が引かれる。袋の中に放り込まれて思い切り振られたような、強烈な浮遊感があった。


 レオアリスは二、三度瞬きを繰り返した。
 雨に濡れた街の光景は消え、まず視界に入ったのはいつも通りの執務室の壁と、何やら会話をしているグランスレイとロットバルトの姿だ。
「戻っ――」
 身を起した途端に強烈な眩暈が襲って、レオアリスは咄嗟に机に両手をついた。
 ぱん! といっそ小気味よい音を立てて掌が机を打ったものの、幸い頭を打ち付ける前に止まり、机上に広げた図面が視界いっぱいに広がった。
「危ねェ」
 机を叩いた音に、グランスレイ達が振り返る。
 ロットバルトは執務机に寄ると、レオアリスが身を起すのを手伝って顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。時間切れで弾かれたっつうか、上手く出れなかっただけだから」
 レオアリスはもう一度背もたれに寄りかかり、明るい天井を仰いだ。少し長く飛ばし過ぎた。
「あー、目ェ回った……気持ち悪ィ」
「便利なのか不便なのか……」
 そう呟いたロットバルトの呆れた視線を横切り、黒い鳥がレオアリスの膝の上に降り立つ。しっとりと濡れた羽を嘴で繕いながら、丸い金色の瞳でレオアリスを見上げた。
 レオアリスは手を伸ばして艶やかな羽を撫でた。先ほどまで雨の中を飛んでいたのは、この鳥だ。
「お疲れさん、カイ」
 この鳥は祖父に貰った伝令使――巷では使い魔と言った方が通りがいい。
 遠方へ伝言を伝えるのが伝令使の主な役割だが、特にこの使い魔――カイは「物見」の能力も持っていた。主と視点を繋げてあらゆる場所を探索する事ができる、高度な能力だ。
 術を深く修得していればもっと苦もなく扱えるのだろうが、残念ながらレオアリスの技術は王都に来て以来上達していない。
 剣士として覚醒――いわば身の裡に眠る剣が目覚めて以来、レオアリスにとって術を使うのは以前より少し困難になったようだった。
 それはともかく、レオアリスは既に明確な視野を取り戻した瞳を執務机の上に広げた図面に向けた。王都下層の図面だ。
「何か見えましたか」
 グランスレイが問い掛け、レオアリスは眉をしかめた
「難しいな――見えたのは普通の光景だ。倉庫に運河、帆船。この雨のせいで街にもあまり人は出てないし――まあ一度見ただけで時間も足りなかったから仕方がないが、もう少し手がかりらしいものがあればな……。クライフ達から、何か報告は?」
 王の下命を受けた段階から、三名の中将達はそれぞれ数班を率いてマレル地区の周辺を当たっている。
 ただ、二刻が過ぎた今のところ、かんばしい情報はまだ無かった。既に時計の針は八刻を指している。
 レオアリスがカイを飛ばしたのは、彼等の捜索の手を補う為と――隊士達をマレル地区の倉庫街に入れるのを避けた為だ。
 万が一突発的に戦闘になる事をなるべく回避したい。
 まずは情報だけ――そしてできる限り正確な情報が欲しかった。
「新しくフレイザーから一点。やはり服飾関係の店で新たな情報があったそうですが、納品先が今回の昼の建物と同じで、それ以上は判らないとの事です。ただ、仕入れに来た男の名前は判りました。ウルドという男だそうです。今、クライフの中隊とヒューイット中将の隊がその男の線で当たっています」
「そのウルドって男が全体の仕入れ役か」
 人形師と法術士の女、ウルドという男、その三名の中でそれぞれ役割があるようだ。
「状況からすると、こういう追跡を想定していわゆる本拠地とは別に納品場所を作ってる訳だろ。それが一つとは限らないよな」
「そう考えられます」
 グランスレイの眉根に刻まれた皺を数えつつ、レオアリスは腕を組んだ。
「別の場所を見つけても簡単には踏み込めない……俺もあんまり手の内は見せたくないしな」
 糸を切るのはおそらく、レオアリスの剣には容易い。ただユンガーという男が見せた戦い方を考えると、機会を逸すればアスタロトと同様、レオアリスにとっても不利だ。
 レオアリスが関わる一番の目的は、兵や攫われた娘達に被害を出さない事に尽きる。
「踏み込むのは一回のみ、確実に当りを引かないとまずい。何か確証になるものが無いかな……」
 じっと図面に視線を落としたレオアリスへ、ロットバルトが問いかけた。
「その事ですが、上将、先ほど帆船があったと仰いましたね。それが気になります。どのような物でしたか?」
「帆船? ……ああ、確かにあった。商船風の、中型で足の速そうなヤツだったが」
 レオアリスは先ほどカイの眼を通して見た光景を辿るように、図面の上で視線を流した。運河に船が係留されているのは当たり前の光景だ。そう思ってふと、視線を止める。
 マレル地区の運河。
「――今は使ってない旧運河か。それにしちゃ、現役で動いてるような船だったな。帆も張ってたし」
「当りを付けるのに一番確実なのは逃走経路と申し上げましたが、現段階で一番可能性が高いのは船です。搬送力が高く足が速い」
「けど、王都を出る時に街門で一旦荷を検(あらた)めるだろう。そこでバレたら船じゃ逆に動きが取れないぜ」
「確かにその危険性はありますが、それは陸路でも変わらないでしょう。特に今は、船を利用するのに有利な条件が揃っています」
「条件?」
 レオアリスは執務机の上に肘を乗せるようにして身を乗り出した。ロットバルトが図面上で運河を示す。
「運河の構造はご存知でしょう。今日のような雨で水嵩が増せば、運河を仕切る堰を開放し、水位を安全域まで下げます。その際、船の通行は止め、開放された水流による被害を避ける為、運河上にある船は船渠や、運河とは切り離せる係留区に移されるのが通常です」
「帆を張ってるって事は、これから船を移すところか、それとも――奴等の逃走手段だって可能性が高いって事か」
 暗い運河の水面に、白い帆を張り揺れていた帆船。船首像の獅子の頭が脳裏にくっきりと浮かぶ。
「基本的に今の時間は、緊急の要件で無い限り商船は運航しません。この時間運河を通行しようとすれば、運河の運行管理所に別途申請が必要です。何の問題もない商船であれば申請を出しているでしょうね。申請を出していなければ、人形師の船という確率は高くなります」
「堰が開くのに乗じて、一気に街門まで下れる――」
 街門も堰と同様、放出される水を避ける為に開け放す。
 いわば、流れに乗ってしまえば、検閲を受ける事なく街門を抜け、王都を出る事ができる。
 レオアリスは瞳に鋭い光を宿し、立ち上がった。
「すぐに絞り込めるか?」
「地政院に堰の開放の有無と時間、旧マレル運河を運行する申請が出ているかを確認しましょう。それと今、ヴィルトール中将に逃走経路を中心に当たってもらっています。船の条件を伝えて絞り込んでもらいます」



 二刻後――クライフは既に捜索から戻り、レオアリスの執務室にいた。ヒューイットもまだ正規軍の指令部に戻らず、結果を確認する為にこの場に控えている。
 地政院では堰の開放を確認した。解放されるのは今晩、十一刻――もう後一刻も無い。
 ただ、まだマレル地区の船が確実に人形師の物か、それが確認できておらず、今はヴィルトールとフレイザーの捜査結果を待っている状態だった。
「おっせぇなぁ、ヴィルトールの奴。早くしねェと堰が開いちまうぜ」
 クライフは扉を開けて廊下を覗き、それから室内をうろうろと歩いた。隊を出すなら、あと四半刻の内に動かさなければ間に合わない。
「上将、いっそ先に出ませんか」
 それに答えたのはロットバルトとグランスレイだ。
「先走って動いた結果が見当違いとなったら、余計状況が悪化しますよ。我々の動きに気付けば次は同じ手段を取らないでしょう」
「落ち着いていろ。ヴィルトールとフレイザーの二隊で当たっているのだ、必ず探し出せる」
 クライフは二人の顔と、それからレオアリスの表情を見て、反論せず壁際に寄りかかった。
 レオアリスの上にはクライフと同様、少なからず焦燥があり、ただそれをじっと抑えているのがクライフにも判る。当然、グランスレイやロットバルトも平然と待っている訳ではない。
 正規軍と人形師との戦闘から既に六刻――時間は十分すぎるほど経ってしまっている。
 今待っている情報ですら、もしかしたら見当違いかもしれないという焦りも大きい。こうしている間にも、人形師達は別の方法で王都を出ようとしている事も考えられる。
 もしかしたら攫った娘達は切り捨てて身軽になり、平然と街を出るかもしれない。
(いや――、それはほぼ無い。目立つ人形がある)
 船を使うのが一番確実だ。欲しいのは確証――
 レオアリスは何度目か、壁際の置時計に視線を投げた。
 静まり返って張り詰めた室内に、時計の歯車が回る音がやけに大きく響く。
 カチカチというその音が、残りの時間を切り刻んでいるようにも、時が永遠に同じところを刻んでいるようにも感じられる。
 降り止まない雨の音――
 ふっとレオアリスは視線を上げた。
 窓の外から流れる雨音に交じって、廊下を急ぎ足で渡る足音が聞こえ、すぐに扉が開いた。クライフが跳ねるように寄りかかっていた壁から身を起し、レオアリスも執務机の前に出る。
 ヴィルトールは室内に入り、レオアリスの前へ行くと手にしていた書類を差し出した。
「遅くなって申し訳ありません。ですが見つけましたよ。確かに船を買ってます。中型の帆船で、獅子頭の船首像があります」
 ぐっと室内の空気が引き締まる。
「購入したのはやはりウルドという四十前後の男です。相当急いでたらしくて、年季の入った船を言い値で買ってくれたと売った方はだいぶ喜んでましたよ。あれはかなり吹っ掛けたんだろうなぁ。ただ、年季が入っていても現役だし足が早い船だと言っていました。納船はもう済んでいて、場所は」
「マレル地区、旧西南運河」
「そうです」
 レオアリスが後を引き取り、ヴィルトールは頷いた。ヴィルトールが手許の書類を見ながら、執務机の上に広げた図面の一箇所を指で示す。
「旧保税倉庫地区」
 先ほどレオアリスが「物見」で見た地区と船の係留されていた位置だ。
「当たりだな」
 レオアリスは顔を上げ、ぐるりと中将達の顔を見回した。全員が背筋を伸ばし、光を宿した眼差しを返す。
「堰の解放時間に合わせて、隊をマレル地区運河下流域と運河出口に配置しろ。クライフ、中軍を」
「承知しました」
「待ってくれ、クライフ」
 それまで一言も発さなかったヒューイットが敬意を払いつつ、だが素早く踏み出し、右腕を胸に当てた。
「大将殿、その役割はぜひとも、正規軍中隊にお任せください。万が一帆船が王都を出た場合、今度は正規軍第二大隊の管轄に入ります。出口付近を固めるのは正規軍の方が連携が取りやすいでしょう」
 レオアリスは躊躇い無く頷いた。
「判った。そこは正規軍に任せよう。師団は補佐に回す」
「有難うございます!」
「ただし、兵は船を止めるだけだ。船には近付かないように徹底してくれ。人形は俺一人で抑える」
 ヒューイットが敬礼を向ける。
「よし――行こう。今夜で夜行も終わりだ。アスタロトが待ちくたびれてるだろう」
 息を一つ吐き、レオアリスは靴を鳴らして廊下へと向かった。





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