二
活気ある王都の街の中で、最も雑多な雰囲気を持つのが外周部に広がる下層地区だ。
上層、中層は自らの家を持つ定住者がほとんどだが、下層は間借り人が多い。王都へは国内、ごく稀には国外からの旅人が訪れ、そして一旗揚げるべく下層に居を構える。
少なからぬ者達が夢半ばで王都を去るが、成功のきっかけを掴む者ももちろんいる。
王都に自分の家を持てば――まずは成功者と呼べる。
とにかくこの下層はそれを目指す第一歩であり、種々異なる人々が集まるるつぼであり、清濁併せ持つ王都の、最もその色彩が顕著な区域だった。
クライフは麺麭を軽く焙ったものを口にくわえ、黒い軍服の上着を肩に掛けて、下層ヴァン・ルー地区の大通りを王城へと足早に歩いていた。
二十代半ば、茶色の明るい瞳と少し褐色がかった肌の、髪を短く刈り上げた陽気そうな青年だ。
早歩きなのは、勤務時間に遅れそうだからだった。ここ下層から王城の第一層までは、徒歩では二刻強、「門」を使っても半刻を要する。
「門」とは、一定区画で大通りに設けられた法術を施されたもので、いわゆる近道だ。この仕組みは広く坂の多い王都内の利便性や流通の向上に大きな役割を果たしていた。
「この時期は人が多いなぁ、まだ朝早ぇのに」
目指す場所へ先を急ぐ人々と、通りの店や露台を目当てに行き来する人々、店の主達や商品を納めに来た荷運び屋、様々な人々でごった返している。
それが秋も半ばのこの季節は、いつもよりぐっと人通りが増えた。
収穫をあらかた済ませ、王都では今年の豊穣を祝う祭りが行われているからだ。
十日間程度、各地で収穫したての作物や土地土地の工芸品、様々な屋台や旅芸人達、それを目当てに近郊の街から訪れる人々で賑わう。春の祝祭に次ぐ大きな祭りだ。
「治安維持も楽じゃねぇや」
正規軍が、と付け加え、気を付けなければ肩がぶつかりそうなほど混んだ通りを早歩きしながら、クライフはちらりと前方の屋根の上に覗く時計台を確認し、朝食の最後の欠片を飲み込んだ。
全力で走ってぎりぎり――遅れたら彼の上官、副将グランスレイの容赦ない雷が待っている。
「よっしゃあ、んじゃ走りますか……」
クライフが駆け出そうとした瞬間、前方で鋭い叫び声が上がった。
「ちょっと――返しな!」
女の声だ。
「私の鞄だよ!」
さすがにこの声は、朝のごった返した通りに別種の騒めきをもたらす事ができた。
少し前の人だかりが動き、クライフの視界にも逃げ去るように駆けて行く、茶色の帽子を被った男の頭が見える。
「ああ〜、朝っぱらから〜」
クライフは溜息を吐き、溜息を終える前に駆け出した。見たところひったくりの類だが、この区域では実はあまり珍しくない。
「遅刻の言い訳――じゃねぇ、仕事だな!」
気楽そうな顔を引き締め、人混みを縫うように走る。しかし目的の男との間には十人ばかり通行人がいて、思うように距離を詰められない。
「近衛師団だ! 道空けてくれ!」
クライフの大声にぎょっとして、数人がさっと道を空ける。だが状況を把握できていない通行人達が立ち止まってしまい、クライフは彼らにぶつからないようたたらを踏まなければならなかった。
「何だ何だ?」
「その男が鞄をひったくって逃げてんだ! 悪ィが通してくれ」
「え、鞄?」
声をかけながら走っても、逆に自分の荷物を慌てて確認する者達に阻まれ、なかなか埒が明かない。一方男は通行人を突き飛ばすようにぶつかりながら、尚も駆けていく。
誰か機転を利かせて足でも引っ掛けてくれ、と思った時、さっと辺りが陰った。
同時に黒い人影が空から降り立つ。
どこから飛び降りたのか――少年だ。
見知った姿に、クライフは足を止めた。
「じょう――」
ちょうど目指す男の目の前、と思った瞬間、少年の蹴り上げた踵が、きれいに男の顎を捉えた。
男の身体がふわりと浮いて、通行人が避けた後の通りに倒れる。わあっと驚きと歓声が上がった。
クライフは駆け寄って男を押さえ付け、手に持っていた荷物を取り戻した。
明るい声がクライフにかけられる。
「クライフ、遅刻だろ? 乗せてってやろうか」
「上将、お早うございます」
男を蹴り倒した少年、レオアリスへと、クライフは左腕を胸に当てる近衛師団式の敬礼を向けた。
それからにやりと笑う。
「いやぁ、マジ助かります! 散歩帰りですか?」
クライフは、レオアリスが乗せて行ってやろうかと聞いた、その乗り物を見上げた。
日差しを遮ったのは、レオアリスの乗騎である銀翼の飛竜だ。三階建ての屋根の上に浮いている。
十六の少年は歳上のクライフに対して、可笑しそうな、少し大人びた笑みを返した。
「そう。それで、お前がこの辺走ってんじゃないかと思ってさ。夕べ飲みに行くって言ってただろう」
「ははは。素晴らしい洞察力っす」
というより、日々の観察力かもしれない。クライフは照れくさそうに頭を掻いた。
その周りに立ち止まった通行人達が、隣同士で興味深そうな視線を交わす。
「何があったんだ?」
「ひったくりらしい。あの服、近衛師団だろ、あの二人。運が悪かったなぁ」
「近衛師団? 何で師団がこんなとこに。通報したのか?」
「違うよ、ほら、クライフ中将がこの辺だから」
「ああ、第一大隊の――え、」
驚きを含んだ視線が上空にいる銀翼の飛竜と、クライフの横のレオアリスを見比べる。
「銀翼って、大将の乗騎だよな。じゃあ」
近衛師団第一大隊の大将と言えば――
「思った以上に若いんだな」
確かに近衛師団の士官服は細身の身体にしっくり馴染んで、纏う空気も街を行く同世代の少年達とは大分違う。
しかし、若い。
「――剣士か……」
通行人達がレオアリスに向けた視線には、驚きと興奮、興味が入り交じっている。
「剣は?」
「出してないみたいだけど――腹の中にあるんだよな?」
「何だ、剣で捕まえたんじゃないのか」
「まさか、こんな街中で。あんた剣士を知らないのか?」
囁き、ではなく遠慮の無い賑やかな会話だ。当然レオアリス達にも届く。
レオアリスの顔を見れば、自分に向けられた好奇心たっぷりの視線と会話に少し決まり悪そうだ。困ったように苦笑を浮かべている。
どちらの気持ちも判るとクライフも苦笑して、取り戻した荷物を掲げてみせた。
「ほらよ、荷物。どいつのだ?」
ざわざわと通行人達が顔を見合わせる。クライフはぐるりと見回したが、輪の中から持ち主が歩み出てくる様子は見られなかった。
「何だぁ? 持ち主いねぇのかよ。大事な荷物なんじゃねぇのか?」
あんな悲鳴を上げたくせに、おかしな話だ。
「どうします、上将」
レオアリスは少し瞳を細め、その荷物を見た。煤けたような茶色の布地の、どこにでもある肩に掛ける形の鞄。
「――そうだな。仕方ない、一旦師団で預かるか」
「ですね」頷いてクライフはもう一度声を張り上げた。「今取りに来なきゃ、荷物は近衛師団第一大隊で預かるぜ! 捜してる奴がいたらそう言っておいてくれ!」
最後の言葉は通行人と、特に通りに店を構えている商人達に向けたものだ。幸い建物に軒を連ねる店の他、通りの上にも露店がずらりと並んでいる。
まだ誰も名乗り出てくる者が無いのを確認し、クライフは気を失っている男を肩に担ぎ上げた。
「こいつも一緒に連行ですね。二、三日放り込んどきましょう」
「ああ。――ハヤテ!」
レオアリスの呼び掛けに、上空で待機していた銀翼の飛竜がすうっと降りてくる。集まっていた通行人達が慌てて場所を空けた。
レオアリスは彼等に顔を向け、軽く頭を下げた。
「すいません、お騒がせした」
凛とした声が再び、秋の朝の颯爽とした空気を覚えさせる。
飛竜は三人を背に載せて、さすがに少し重そうに浮揚すると、騎首を王城へと向けて飛び去った。
束の間の静寂の後、すぐに普段の騒めきが戻り、大通りは活発に流れ出した。
ただ、今日のいい話の種を手に入れたのは確かだ。
五ヶ月前、この春に史上最年少で近衛師団第一大隊大将になった、その本人を見た、と言えば、例えば客との会話も弾むに違いない。
それだけ、レオアリスは良く人の口に登り、興味を引く存在だった。ここ数ヶ月の話ではなく、二年ほど前からか。
二年前、弱冠十四歳で王の御前試合を制し、近衛師団に入団すると、瞬く間に少将、中将と歩を進め、大将となった今でさえ、十六歳という驚くほどの若さだった。
物語のような立身出世話はいつの世も好まれるが、レオアリスは北方の辺境にある小村の出身で、それもまた気分がいい。
そして、それ以上に、人々の耳目を引くものが、彼にはあった。
元々御前試合の出場者は出世が約束されてもいる。ただ、それにも増しての異例の出世には相応の理由があり、それこそがこの若さで大将位に就く事を納得させる理由だった。
レオアリスの種族――彼が「剣士」という種族であること。
この世界には発達した言語能力と生産能力、そして形成される社会という意味においても、人間だけではなく多種多様な種族が存在する。半獣、半鳥族、水棲族、竜族。そうした種族の一つに、戦闘種と呼ばれるいくつかの種族があった。
その名の通り、戦いを得意とする――いや、戦いそのものを本能に持つ種族だ。
剣士は戦闘種の一種で、中でも最も高い戦闘能力を誇っていた。
身の裡に剣を宿し、剣士一人いれば百の兵を抑えると言われ、恐れられる。その能力の高さ故に、時に「殺戮者」とも揶揄される。
種としての数も少なく、稀な存在だ。
その稀な剣士の中でも、レオアリスは特殊とさえ言える剣士だった。
剣士の持つ剣は通常一振り、左右のどちらかの腕に宿す。だが、レオアリスの剣は二本。腕ではなく、十三対目の肋骨を剣に変化させた。
これまでに、レオアリスと同じ特徴を、そして二振りの剣を持つ剣士はいない。
また、軍に所属している剣士も、レオアリス一人だった。
飛竜が飛び去った空を、狭く入り組んだ路地の影から、沈んだ視線が見上げた。
あの袋の中に入っていたものは――
「近衛師団……しかも剣士だなんて、間の悪いこと」
悔しそうに呟いて、女は込み入った路地の奥へと足早に入って行った。
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