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王の剣士3 「剣士」
【第二章】


 城下の街は常に賑やかな喧騒に満ちている。王都の住人達と各地から訪れた旅人や商人など、様々な者達が肩を擦り合わすように大通りを行き交っていた。
 王都で一旗上げようとやってくる者達は後を絶たない。清濁併せ持つこの街で成功し、財を成した者は少なからずいたが、その成功の陰で陽の目を見ない者達も数え切れない程あった。ここ上層区域であれば財産を失っても故郷に帰る程度で済み、まだ軽い失敗の内だ。自己認識や安全管理を怠ってはいけないと、その後の教訓にすればいい。しかし周縁部の下層地区では、金銭どころか生命を失う例も少なくはなかった。
 アル・ディ・シウム、『美しき花弁』と呼ばれるこの都は、広げた花びらの一枚一枚に複雑な色合いの影を宿している。
 レオアリスは様々な店が並ぶ賑やかな通りを歩きながら、自分がこの街を初めて歩いた事を思い出していた。
 あの時の自分にとっては王都は途方もなく巨大で、曖昧な意志や期待など、容易く打ちひしぐ容赦のない場所に思えた。
 そもそも剣士など、自分ですら話程度にしか知らないものが自分なのだと知って、戸惑いばかりが強かった事もある。
 王の御前試合を勝ち抜く事で僅かな自信を得、近衛師団に配属された事はただ嬉しかった。最初から全て順調に行っていた訳ではなかったが、気が付けば大将などという場所に居る。
(大将か)
 いつの間に、こんな所まで来たのだろう。
 王城内ではそれに囚われる事無く在る事は不可能だが、ただこうして街を歩くと、身を覆っていたものは一歩ごとに剥がれ落ち、何も持たないあの頃の自分に戻る気がする。
 しかしいつもは開放感を感じるそれも、今はどこか心細ささえ覚えた。
 喧騒に紛れていた思いが再び心に浮き上がってきた時、前を歩いていたアスタロトが足を止め、思考は中断された。ふと気が付けば、見た事もない程の美しい少女を追って、辺り一帯の視線も止まっている。
(目立つヤツ……)
 普段顔を見ていて、しかもアスタロトの言動を知っている為に意識する事は少ないが、アスタロトは非常に美しい顔立ちをしている。レオアリスの故郷の辺境部でさえ、アスタロトの噂は聞き及んでいた程だ。曰く、傾国の美女と……。
(先代だ、絶対……)
 美女と言うにはまだ年が足りない。加えてアスタロトの実態を知ったら、彼等の内少なくとも二割は視線を戻すに違いない。
「ぼーっとするなよ。可愛い女でもいたか?」
 アスタロトは店の扉を押し開けようとしていた手を止め、レオアリスを振り返った。
「いないよなー、私以上のヤツは」
 そう言って非常に得意そうに顎をつんと上げてみせる。
 それにはそれなりに同意も覚える。それ相応の年齢になれば、傾国も大袈裟な言い方ではなくなるだろう。……見た目は。
「それよりほら、結構最近お気に入りな店なんだー。何て言ってもご飯が美味しい」
「……飯?」
 何の話かと改めて目の前の建物を眺めれば、通りに面した白い壁に広い硝子窓がいくつも張られた、瀟洒な雰囲気を持った店だ。『アル・レイズ』という名前が、緑銅で縁取られた白い雪花石膏の板に刻まれ、扉の上に掲げられている。
 通りの右奥は行き止まりで、その先は高台になっているのか、低く作られた煉瓦塀の向うに、薄く柔らかい色をした雲と青い空が半分覗いていた。
「眺めもいいんだぞ」
 そう言ってアスタロトは扉を押し開けた。確かに、眺めは良さそうだ。
 広く間取りの取られた店内は右奥の壁一面が硝子張りになっていて、高台からの景色が見渡せる。外には露台が張られ、そこにも三つほど席があった。昼食時にはまだ少し早いが、店内には既に何組もの客がいて結構込み合っている。
 店内に入ると入り口の傍にいた店員が歯切れの良い声をあげた。卓に着いて思い思いに食事をしていた客達が、釣られるようにアスタロトの上に視線を向け、驚いたように眼を丸くする。
「まぁ、アスタロト様だわ」
「この店によく見えるとは聞いてたけど……」
 アスタロトの名前に店内にざわめきが広がる。この国の最高位の貴族である四大公の一人が、一般の民が通う店に来るということ自体、他の四大公では考えられもしない事だ。気さくなアスタロトは、城下でも非常に人気が高い。
「あの隣の子は?」
「子って、あれ、あの服師団だぜ。しかも士官だ」
「士官? あの歳で?」
 彼等の興味は自然、横にいるレオアリスにも注がれたが、近衛師団大将とはいえ一般にはほとんど顔は知られていない。剣士、或いはその名を聞けば誰しもが膝を打つだろうが、注がれる視線の中にそれと気付いた者はいないようだった。
「軍と言えば、エザムが襲撃されたという話だ」
 微かな声だったが、レオアリスは素早く視線を投げた。中程の卓に座っている壮年の男だ。妻らしき女性が眉を寄せる。
「怖いわ……貴方、気を付けていただかなくては……」
「私の販路は西方だから、それほど心配はない。だが、エザムの近辺は今通行が出来ないらしい」
「そんなに酷い状態なんですか、お父さん」
 男と同席の青年が身を乗り出す。
「北方軍が封鎖しているから、状況は良く判っていないようだ。ただ、北の商人達は迂回させられて、日数も経費も余計にかかってしまうとぼやいてるよ」
「でも、アスタロト様がこちらにいらっしゃるって事は、それ程問題はないって事なんじゃないですか?」
「そうかもしれない。だが王城でも先日、北の外門で侵入者騒ぎがあっただろう。治安が悪化しているとまでは行かないのかもしれないが、情報がもっと欲しいところだ」
 アスタロトは空いていた露台の席を注文すると、レオアリスの了解を得ず案内の後を付いてすたすたと歩いていく。先ほどの男達の卓の傍を通りかかると、彼らは慌て口を閉ざした。
(城下は、まだこの程度の情報か……)
 今回の件に関しても、城下の情報規制をしているとは聞いていたが、思った以上に閉ざされているようだ。レオアリスはさりげなく店内を見渡した。ほとんどの客の視線はアスタロトの姿を追っている。
 アーシアに促されてレオアリスも露台に置かれた席まで行くと、既に席に着いているアスタロトの前に座った。
 アスタロトは早速、店員に何やら注文を始めている。手元の品書きを何も見ていないくせに次から次へと出てくる単語にただ感心して、レオアリスはやる事もなく頬杖を付いた。
 露台の席と店内を仕切る硝子戸に目を向けると、注がれていた視線が一斉に散る。
「――」
 多くはアスタロトを見ていたが、興味の対象はそれだけではないのだろう。やはり彼等も、今王城内とエザムで起こっている事が気になっているのだ。
 乳白色の優美な欄干の向こうに目を向ければ、高台に張り出すようなそこから城下の街が望める。すぐ下に見えているのは商人や職人達の多く住む地区だ。通りに沿って店の日除け布が色とりどりに広がっている。
 普段と何も変わらない、王都の町並み。今回は厳しく情報規制が敷かれているが、伝わったとしても、生活に影響がなければ噂話程度に囁かれるくらいで、日々の暮らしは変わる事無く流れていく。
 この場所から北の方角は望めない。
 街道上のエザム、そして、北の果てにある故郷。
(十七年前か)
 重い息を吐いて正面に顔を戻し、――思わずがたりと椅子を引いた。
「なっ……」
 息を呑む光景というのは、実際こういう事をいうのではないか。
 黒檀を円に削り上げた上品な卓の、艶やかな表面はすっかり覆われて、見えない。
 卓を覆い隠しているのは、様々な料理の盛られた幾つもの皿だ。冷菜、温菜、汁物、炒め物に揚げ物、焼き物、肉料理や魚料理。全部で十人前くらいは軽くありそうだ。
「……何だ、これ……」
 呆然と呟いたレオアリスを余所に、アスタロトは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「食うか? お前の分も頼むぞ」
 レオアリスは思わずもう一度卓の上を見渡した。
「……。え、これ俺の分ねェの?!」
 弾かれるように顔を上げてアスタロトを眺めたが、はっと気が付いて慌てて首を振る。
「って、そうじゃねぇだろ!」
 机を叩きたくても叩く余地が無い。レオアリスは仕方なくアスタロトを睨むだけに止めた。アスタロトが愛らしく首を傾げる。
「何って、ごはんデショ」
 向けられた甘やかな笑みに、つい緩みそうになる口元を無理矢理引き結ぶ。
「――そうじゃなくてよぉ……」
 レオアリスは肺の空気を全て吐き出す程の溜息をついた。
 店内の客達は、今度は別の意味で硝子戸の奥の卓に視線を集中させている。だがそれも、たった三人でこれだけの量を注文すれば当然だろう。アーシアは食事を摂らないしレオアリスの分は含まれていないというのだから、正確にはアスタロト一人で食べるのだが、多分、不本意にも、他の客達はレオアリスがこの大半を食べると思っていに違いない。
「相談料」
 アスタロトがにこり、と笑う。頬を赤くして熱心に見つめてくる窓越しの客に、ひらひらと手を振ってみせた。
「はあ?」
「だからぁー、話を聞いてやるから奢れってコト」
「……何かずいぶん高くねぇか?」
「安い方だ」
 はぁ、と再び溜息をついて背凭れに寄り掛かり、レオアリスは諦めた顔になって、嬉々として食べ始めたアスタロトを眺めた。
「ああ、アスタロト様、こぼさないで。それから一皿だけ召し上がるのではなくて、色んなお皿をそれぞれまんべんなく召し上がるのが礼儀ですよ」
「はぁい」
 三度溜息が洩れそうになる口元を咄嗟に押さえた。こうなったらもう溜息をつくのももったいない。口元に片手を当てたまま、目の前にあった料理が次々とアスタロトの口に消えていくのを、レオアリスは今更ながらに感心して眺めた。
 元来アスタロトは良く食べる。しかし、あの胃は絶対どこか、異次元に繋がっているに違いない。噛み砕かれたものが降ってきたらもの凄く迷惑だよなぁ……、と、レオアリスは非常にどうでもいい事を想像した。
「んで? 十七年前って何?」
「え……? ――あ、ああ」
 ふいに問われて、レオアリスは二、三度瞬きをし、椅子に預けていた身体を起こした。思わず本来の目的を忘れていた。
 その原因を作ったのが自分であるにも関わらず、アスタロトは呆れたように美しい顎を持ち上げると、既に半分以上片付けた料理の皿を脇に寄せ、一先ずアーシアが淹れたお茶に手を伸ばした。
「今の件に関係あるのか?」
 ざわざわと店内に満ちる賑やかな空気は、まるで今の状況にはそぐわない。だが、逆にこの方がいいのかもしれなかった。少しぐらい現実と離れた場所から、第三者的な視点を持って眺める事も必要だろう。アスタロトがそこまで考えてこの場所を選んだのかは分からない。
(意外性あるからな、こいつ)
 しかし、では何を、と問われると、何が一番の問題なのか、曖昧なままな事に気付く。躊躇うように卓の上に視線を落としたレオアリスに、アスタロトは首を傾けた。
「何を調べてて、どの部分で答えが出てないわけ?」
「……答え、か……。多分、答えは全く出てないんだ」
 改めて考えてみれば、バインドが現れてから既に五日近くが経過しようとしているのに、レオアリスの手元にある情報はそれから殆ど変わっていないままだ。逆に、捜せば捜すほど、周囲の扉が閉ざされていくような感覚がある。
「――判ってるのは十七年前に鍵があるって事と、バインドの名前だけだ。だから、そこから調べようとした」
「近衛師団に関係あるのか?」
「判らない。おそらく、だ」
 深紅の瞳をじっとレオアリスに注いで、アスタロトは暫らく両手の指を顎の下で組んだまま黙っていたが、一度ゆっくりと瞼を閉じた。
 開かれた深紅の瞳に、心の中を見通すような光が浮かぶ。
「なぁ。まだ私は、何でお前がそんなこと調べてるのか、聞いてない」
 レオアリスは再び躊躇うようにアスタロトの顔を見つめた。
『お前の一族はどうなった』
 あれ以来、常に頭の中に留まり続けて離れない、その言葉。
 それが何を指しているのか判らない事が、一番の問題だ。
『仇の元に仕えるか』
 嘲笑う響き。
 レオアリスは静かに息を吸い込み、それから肺から押し出される空気の勢いを借りるように、言葉を吐き出した。
「……奴が王城に侵入した晩に、俺に告げた事だ」
 アスタロトが細い弓なりの眉を寄せる。
「俺の、生まれた頃と、一族について、調べろと」
「一族? お前の一族を?」
 意外そうに声を上げたアスタロトに頷く。
 レオアリス自身、自分の一族について、これまであまり多くを考えた事は無い。失われたのか、――もしかしたらどこかにいるのか。
 故郷の森にある、あの廃墟。そこがそうだという確証など無い。そこではないかと思いながら、否定する気持ちはずっとどこかにあった。
 それは淡い希望だ。だからこそ、敢えて考えようとしなかったのかもしれない。
 黙り込んだレオアリスを見て、アスタロトは首を傾げた。
「自分で調べてたんだろ。さっきもさ。何かあったのか」
「無い。不自然なくらい、何も――」
 中途半端に、レオアリスは口を閉ざした。
(不自然だ)
 今までは漠然と、記録が無いのなら、そういうものなのかと半ば納得しようとしながら、ずっと胸の辺りに引っ掛かっていたのはそれだ。
 スランザールの言ったとおり、王立文書宮にも、当時を記した文書は無かった。バインドの名すら出てこない。名が違っているのかと剣士で引けば、多くは三百年前まで遡ってしまう。
 レオアリスは右手を二、三度握り込み、開いた掌に視線を落とした。
 バインドの存在は確かだ。
 剣を打ち込んだ感触は、今でも明確に思い出せる。
 スランザールは確実に何かを知っている。総将アヴァロン、正規軍の何人かの将校、そしておそらく、グランスレイも。
 存在は事実、何かしら、それが何か判らないものの、知っていながら隠している者があるのも事実なら、文書に残っていないからと言って初めから無かったと考えるのは、その方が無理がある。
(――何だ……)
 何を隠している? 隠すのは何故だ?
 自分とバインドとの間に、一体何があるのか。
 それが何であれ――
 誰もが口を閉ざす事によって、言外に告げているのではないか。
 あの男の言葉が、正しいと。
 そして。

『仇』
 心臓が早鐘を打つ。

 焦燥がじりじりと胃の中で焦げる。
 ロットバルトはシスファンから何か情報を得られただろうか。
 シスファンはバインドを知っているのか。
「――バインドか」
 考え込むようなアスタロトの呟きに、レオアリスは顔を跳ね上げた。
「何か知ってるのか!?」
 レオアリスの勢いに驚いて、アスタロトは少し瞳を見開いた。柔らかな頬の線が引き締まる。
「いいや。けど調べよう。先日のタウゼン達は確かに変だったしな」
 アスタロトはたおやかな手に細い顎を乗せたまま、思い起すように天井を見上げた。
 そう、確かに初めてバインドの名が出た時、議場内に一瞬戦慄にも似た空気が走った。それは何かに抑えられたかのようにすぐ消えたが、表情に微妙な変化を残した者、全く反応を示さなかった者、二通りだ。
「判ったら、教えてやる。……ま、あまり考え込むなよ。バインドとやらを倒す事が先決だろ。それより、お前――バインドが言った事は、他にはもうないな?」
 アスタロトの深紅の瞳がじっとレオアリスに注がれ、レオアリスはそれを受け止めるべきか逸らすべきか、迷うように見返した。
「……いや」
 歯切れの悪いレオアリスの瞳を、アスタロトがじっと覗き込む。
「本当か?」
「……お前には言うよ。判ったら」
「……ふんだ。それならいいけど、ちゃんと話してよね」
 頷いた時店の扉が開き、束の間、通りの喧騒が店内の空気と混ざり合った。扉の傍から店内に騒めきが広がる。
 入ってきたのは背の高い金の髪の青年だ。中性的に整った顔を店内に向け、すぐその視線を一点に止めた。客席、特に女性客が陶然と見惚れる中、青年は店員の案内を断って露台の席へ足を向けた。
「げげ」
 少し慌てたようなアスタロトの表情に気付いて、入り口に背を向けていたレオアリスが振り返る。
「ロットバルト。良くここが判ったな。それで」
 立ち上がろうとしたレオアリスを片手を上げてやんわりと制し、ロットバルトはアスタロトに一礼すると、レオアリスの耳元に顔を寄せた。
「――バインドです、上将」
 低い声に乗せられた名前に、レオアリスの瞳が険しさを帯びる。それまでの煩悶の色も、影を潜めた。
「私にも聞かせろ」
 アスタロトの言葉に頷き、ロットバルトは二人に姿勢を向け直した。
「つい先刻、アス・ウィアンに現われたとの報告がありました。現在、街道に配備されていた北方二軍の中隊が向っておりますが、間もなくアス・ウィアンに到達するものと思われます」
 アス・ウィアン。先日のエザムよりも更に北の街だ。レオアリスは席を立ち、アスタロトに視線を投げた。
「アスタロト。手ぇ出すけど、いいな」
 正規軍の管轄に、という事だ。
「いいよ」
 あっさりと頷いて、アスタロトはレオアリスを促すように手を振ってみせる。
「――カイ」
 レオアリスが小声で呼ぶと、どこからか微かな鳥の声が答えた。常にレオアリスの傍に従う使い魔だ。レオアリスの指示を瞬時に伝える事ができる。
「グランスレイに伝えろ。市街地ならヴィルトールだな。俺は直接現地に向う」
 低く告げ、今度はロットバルトに視線を向ける。
「ハヤテは?」
「上空に」
 頷いて見上げると、上空で銀の鱗が光を弾いた。一旦動きかけてぴたりと足を止め、レオアリスは再びロットバルトを振り返った。
「悪い、立て替えといてくれ。それから、戻ったら話を」
 それだけ告げて一度高く指笛を鳴らし、露台の低い欄に手を掛け、レオアリスはそのまま飛び降りた。
 店内で数名が思わず息を呑んだ。
 直後、上空から銀色の疾風が駆け抜け、その背にレオアリスを掬い上げて再び上空へと上昇する。
「アス・ウィアンだ。お前なら半刻で飛べるな?」
 飛竜の青い瞳を覗き込むと、ハヤテは聞くまでも無いと言わんばかりに高らかに鳴き、一度大きく風を煽った。
 瞬く間に銀竜の姿が蒼天に消えるのを見送って、アスタロトは肘を突いて顎を支えたまま、どこか気まずそうにロットバルトから顔を背ける。
「うーん。律儀なヤツだ。別の機会でいいのにぃ」
「……立て替え、ですか」
 いちいち確認するように繰り返す声が怖い。
 ロットバルトが冷めた蒼い瞳を、チラリと卓に流す。卓の上には既にすっかり空になった皿が、いくつも重ねてあった。
「なるほど?」
「あはは〜。……い、一応言っとくけど、レオアリスにも勧めたぞ」
 食べてないけど、という言葉は口の中に飲み込み、取り繕うようにひらひらと手を振るアスタロトの横で、アーシアが笑いを含んだ溜息を洩らす。
「公」
 整った面に柔らかい笑みを刻み、ロットバルトはアスタロトに向き直った。
「な、何だ」
 アスタロトは少し身構えるようにロットバルトを見、それから傍らのアーシアの耳元でこっそりと囁いた。
「やっぱ食い過ぎ?でも腹八分目だよな」
「知りませんよ」
「締めの菓子食ってないし」
「まだ召し上がるおつもりだったんですか?」
 ひそひそと交わされる言葉が漏れ聞こえ、ロットバルトは浮かべた笑みを苦笑に変えたが、すぐに蒼い瞳に一種の冷厳とさえ言える色を刷いた。
「私が直接参ったのは、単に伝令役だけの為ではございません」
 改めて姿勢を正し、アスタロトに視線を向ける。
「分を超えた発言と承知の上で申し上げます」
 支払いに関して苦言を呈されるかと首を竦めていたアスタロトは、肩を降ろしてほっと息を吐いた。ロットバルトが笑みを消す。
「――アス・ウィアンに向った北方二軍を抑えて戴きたい。無駄な犠牲は避けるべきかと」
 北方二軍ではバインドを止められない、と明確に告げている。侮辱とも取られかねない、そんな発言だ。
「レオアリスの邪魔をするなって?」
「そうお取り戴いて結構です」
 ロットバルトの口元に浮かんだ穏やかとさえ言える笑みに、アスタロトも笑う。
「言うなぁ。ま、お前のとこの総将からも言われてる事だ。いいさ、そう指示しよう」
 ロットバルトは胸に左腕をあて敬礼を施すと、踵を返して扉に向った。
 アスタロトはじっとその様子を見守り、充分離れた所で、はぁあ、と息を吐き肩の力を抜いた。
「ぅわ、フツーに払ってるっ怖っ」
「……アスタロト様は、あの方はやっぱり苦手なんですね」
 アーシアが可笑しそうに笑みを浮かべると、アスタロトは白い頬に少し憤慨した色を刷いた。
「苦手なわけじゃないぞ。けどさぁ、一言ったら十返してくるし、何言ったって表情も変えやがらないし、あいつに比べたらタウゼンとかグランスレイの方が数十倍可愛いよな?」
「さ、さあ……」
 立場上も含めて頷くのは難しい。ただ、ふい、と横を向くアスタロトを見て、アーシアは更に可笑しそうにくすくすと笑い声を洩らした。
「どうやらアスタロト様に忠告を聞いて戴くには、ああした所作を身に付けた方が良さそうですね」
 途端にアスタロトはひどく動揺した顔で振り返った。
「止めろよ、可愛くなーい。お前は一番可愛いんだから、このままでいいの!」
 アーシアの頭をぎゅうぎゅうと抱き込み、髪に頬をすり寄せる。アーシアは収めかけていた笑いを再び上らせた。
「……冗談ですよ。でも」
(やっぱり少し、羨ましいな)
 アーシアとしては、ああしてレオアリスを補佐できているロットバルトは羨ましささえ覚える。自分の立場では、アスタロトを政治的に補佐しようと思っても出来ないからだ。
「でも何だよ」
「いえ」
 アーシアはいつも通りの柔らかい口調で首を振った。
 力や地位や財力など、伴えば伴う程逆に孤独を産むものだ。そんな事を言えばアスタロトは怒るのだろうが、アーシアは時折、アスタロトの中にそれを見る。アスタロトの奔放な態度は、そこに起因していると思っている。
 三年前にレオアリスと出会った事で、アスタロトは少し立つ位置を変えたように思う。結局は離れられなくても、そこから見える景色は前と違うだろう。楽しそうな表情を浮かべるアスタロトを見つける度、アーシアは穏やかな安堵を覚えた。
 アスタロトはまだアーシアの頭を抱え込んだまま、店の扉と北の空を見比べた。
「ふんだ。まあでも、あいつは有能で地位がある。今みたいにレオアリスがいない所を選んで、自分一人の発言に留めるところなんてやっぱ考えてるよ。いずれいい補佐役にも後ろ盾にもなるだろう」
「……アスタロト様がなって差し上げてはいけないんですか」
 後ろ盾に、という意味だ。アスタロトが明確にその立場を表明すれば、少なくとも軍内部で批判が上がる事はなくなるだろう。
 だがアスタロトはあっさり首を振った。
「ヤだよ。私は友人だもん。アイツに感謝なんかされたくない」
 そう言うと、アスタロトもまた席を立った。
「さて、私達も行こう。バインドとやらを拝んでやる」



 ざわざわと喧騒に溢れる街を抜ける。自分に注がれる視線を少しも気にする様子もなく、ロットバルトは人々の行き交う通りを歩く。
 アス・ウィアンに向った北方軍は、アスタロトの命で止まるだろうか?
 北方二軍は勇猛で知られ、率いているのは輪をかけて気性の荒い中将カシムだ。
 ロットバルトは口元に薄く笑みを刷く。
 止まらなくても、何ら問題はない。
 要はアスタロトの命があったという事実と、レオアリス以外にバインドを止め得る者はいないのだと、その二つが明確になりさえすればいいのだ。
 くだらない批判をいつまでもさせておく必要はない。




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