七
執務室の扉を開けると、思い思いの場所で黙り込んでいた中将達がさっと顔を上げた。入って来たレオアリスの姿を確認し、緊張した面持ちで立ち上がる。
一番初めに口を開いたのはフレイザーだった。
「――おかえりなさい」
柔らかい笑みと単純なその言葉が、僅かに躊躇いを覚えていた気持ちを溶かす。思えば初めて師団に配属された時も、フレイザーはこうして笑って迎えてくれた。
「……ただいま」
レオアリスが照れくさそうな顔をしながらも頷くと、クライフがほっとしたように息を吐いて、それから大股で歩み寄った。
「探しに行こうかと思ってたんすよ。ロットバルトに任してたら、日が暮れたって戻ってこねぇし」
にやりと笑ってレオアリスの前に立つ。扉の前にいたロットバルトはただ肩を竦めた。
「ヴィルトールから大体は聞きました。正直言って驚いたなんてモンじゃないんですが、でもそれよりも先ずは腹立ってンですけどね」
そう言うとクライフは一旦言葉を切り、唇を曲げ眉をしかめてレオアリスを眺めた。
「水くせぇですよ。上将も、副将も。言ってくれりゃ、いくらだって手伝ったのに」
「お前が口を出したら、事をややこしくするだけだ」
ヴィルトールの言葉に、クライフは首を巡らせて後ろを睨み付けた。
「そういう所が十分ややこしいっつーの。大体お前だって黙ってたくせに口出すな」
「全てがお前のように単純じゃないんだよ。残念だけど」
「てめぇ、本っ当」
「悪かった。――一人で何とかしようってのは、考えが甘すぎた」
ヴィルトールに身体を向けかけていたクライフの前で、レオアリスは静かに頭を下げた。クライフが慌てて手を振る。
「やめてくださいよ。頭を下げて欲しいとかそんな事言ってんじゃなくて」
「そうです。大将がそう簡単に部下に頭を下げるものじゃ」
「もう一つ、勝手を言わさせてもらう」
中将達は顔を見合わせ、それから姿勢を正した。
「一隊に、バインド討伐の許可を戴くつもりだ。直接は俺が出る。ただ命が下されれば、動いてもらう事になるだろう」
バインドの力は既にエザムとアス・ウィアン、それよりも十七年前の一件で証明されている。軍を動かす事は、例え最終的にレオアリスがバインドを倒したとしても、犠牲を出す事も考えられる。
「これは俺個人の問題でもある。だから、選んでくれて構わない」
必要なのは王の下命であって、彼等の犠牲ではない。バインドを抑える事が出来るかと問えば、正直に言ってしまえば、その確信はまだレオアリスの中には無かった。
「――それが水くせェって言うんですよ」
「当然、上将がどうお考えだろうと、私達はそのつもりですわ」
「よく、考えて……」
もう一度、促すように彼等を見回した中で、ヴィルトールが灰銀色の瞳を真っ直ぐにレオアリスに向けた。
「結局どの時点であっても、軍とバインドとの衝突は避けられません。現時点で師団が出ず、――貴方が出なくとも、バインドは同じ事を続けるでしょう。結果が同じなら、早期に手を打った方がいいと思いますよ」
ヴィルトールの言葉に全員が頷く。クライフはもう一度、にやりと笑った。
「決まりですね。まあ、ロットバルトにきっちり戦術考えて貰いましょう。人探しは苦手だろうけど、当然本来の役割だ、いい手考え付くよな?」
向けられたからかう視線をロットバルトは事も無く返す。
「剣士相手に策ですか。私なら先ず、退けと言いますがね」
「役立たね……」
扉が開き、グランスレイが戻ってくる。室内を一度見渡してから、レオアリスの前に立ち、一礼した。
「王への面会の許可が下りました。すぐにお会いいただけると仰せです。仕度を整え、王城へ参りましょう」
「今……?」
こんなにも早く面会が叶うとは考えていなかった。瞳を見開いたレオアリスへ、グランスレイが促す表情を向ける。
レオアリスは瞳を伏せ、自分の鼓動を数えた。
一つ、二つ、三つ――
意志は変わらない。
王に目通りする事を考えれば、過去を知った今でさえ、震えるような喜びを覚える。
何故と問いかけても、答えのない感情だ。
瞳を上げる。
「――行こう」
そう言うと踵を返し、レオアリスは扉へと足を向けた。
冷えきった王城の廊下を歩きながら、グランスレイは数歩先を行く年若い上官の背を見つめる。壁の所々に設けられた灯火が、レオアリスの姿を夜の闇に浮かび上がらせ、また闇に溶かしていく。
闇に溶けた先に、今よりももう少し背の低い彼の姿が浮かぶ。
レオアリスは兵法などを始めとする様々な知識を、驚くほどの速度で吸収した。グランスレイや他の中将達と戦術を論じ、その切り口に驚かされる事もしばしばあった。
次第に戦場において功を立て、確実に彼の近衛師団内部での位置は固まって行った。剣士が禁忌となったその理由を知るごく一部の者以外には、曖昧模糊とした剣士への忌避よりも、その剣の強さに対する驚嘆の思いの方が強くなっていった事もある。
レオアリスが近衛師団に配属されてから半年も経たない内に、隊内での剣士に対する否定的な見方は、ほとんど消えていた。レオアリス個人によるものも大きかっただろう。連携を重んじる隊というくびきから少し離れた位置に身を置けば、レオアリスはすぐに誰とでも親しくなった。
レオアリスを中将に、そして大将に推したのはグランスレイだ。
グランスレイはかつてのレオアリスの姿と、今目の前を歩く彼とを比べるように、もう一度その後姿を見つめた。
思えば初めてレオアリスと正面から向きあった時から、こうして彼の下に付き、彼を支えるようになる事を、何の違和感もなく受け入れていたように思う。
今まで上官だった者を飛び越えて、急に命令を下さなければならない立場になり、レオアリスは当初随分戸惑っていた。その事に煩わしさを感じていたと言ってもいい。できればあまりしがらみのない場所に居たかっただろうレオアリスを大将へ推したのは、そこが最も彼の能力が生かされる場所であろうと考えた故だ。
周囲に軽んじられる事のないよう、事ある毎に口調を改めさせ、それも今ではすっかり板についている。尤も、どこか砕けた飾り気のない態度だけは変わる事はなかったが、それは逆にレオアリスの魅力でもあり、表面では嗜めはするものの本気で改める必要はないと思っている。
まだ青年とも呼べない程の若い将だが、今ここを越えれば、おそらく彼はその先に、もっと大きな未来を向かえるだろう。
可能であれば、自分がそれを見届けたい。
謁見の間の前まで来ると扉の前で立ち止まり、レオアリスはグランスレイを振り返った。促すように頷いてみせると、レオアリスは再び扉に向き直る。
巨大な両開きの扉は音も立てず、ゆっくりと開いた。
広大な広間には、扉から深緑の絨毯が最奥の玉座へと真直ぐに敷かれ、その左右には一抱えもある柱が等間隔に並び高い天井を支えている。定例の謁見の際などには、その奥にずらりと諸侯が控えるが、今はそこには誰の姿もない。レオアリスは足音を吸収する絨毯の上を玉座へと進んだ。
一段高く造られた玉座へと昇る階段の前に、左右に分かれて立つ四つの影がある。それを認め、グランスレイは小さく息を呑んだ。
四大公――ベール、ベルゼバブ、ルシファー、アスタロト。
(定例の謁見ではないのに、彼等が顔を揃えるとは……)
「王に対して僅かなりと翻意が見えれば、いつでも討てるように」
グランスレイの思考を読んだかのように、ベルゼバブが低く忍び笑う。
「そう見えるか?」
向けられた身を凍らす冷たい瞳に、グランスレイは心臓を掴まれるような感覚に陥った。ベルゼバブは四大公の中で、最も冷酷な男だ。冗談めかしてはいるが、もしレオアリスの上にそれを見たと思えば、躊躇いも無く手を下すだろう。傍らのレオアリスをちらりと見たが、レオアリスは彼等へ真っ直ぐに顔を向けたままだ。
「「東方公、それ言うだけ無駄って判ると思うけど」
アスタロトの呆れた声がその場の緊張を溶かし、グランスレイは漸く息を吐いた。アスタロトの横に立っていたルシファーが穏やかな笑みを二人に向ける。波打つ漆黒の髪を首の辺りで短く揃え、暁の空のような紫の瞳を持った、アスタロトとはまた違う透明な美しさを持つ女性だ。
「そう構える事はないわ。レオアリスが王都に来た時こうして迎えたように、今この場を見届ける為にいるだけ。そして我々が、この場の証人となる」
レオアリスは彼等の前まで行くと、その前に片膝を付き、深く頭を下げた。壇上の玉座は、今はまだ空のままだ。
鼓動の音が響くように感じられる程の静寂の中、ベールが低く告げた。
「御前だ」
一斉に四大公が片膝を付く。
微かな衣擦れと共に玉座の背後の長布が左右に開き、その奥の扉から、アヴァロンを伴って王が姿を現した。
一度その場を睥睨し、玉座へゆったりと身を預ける。
広間が、王の力に満たされ張り詰めていく。四大公すら、その空気に僅かに身を震わせた。
王が玉座へと着いたのを確認し、ベールは顔を上げ、レオアリスへと視線を向けた。
「直接の口上を認める」
跪いたまま、レオアリスは頭を下げた。
「近衛師団第一大隊大将レオアリス、御前での拝謁を賜り、恐悦に存じます」
「バインド、か」
伏せていた瞳を上げると、王はレオアリスの上に金色の瞳を投げた。低く流れる声に、レオアリスは一層深く頭を垂れる。
「畏れながら申し上げます。バインドが向かったと思われるのは、北の辺境です。本来管轄でない事は十分承知の上です。――第一大隊に、バインド討伐のご命令を」
四大公がそれぞれ、僅かに視線を交わす。
「面を上げよ」
王の言葉に、レオアリスは伏せていた上半身を起こし、壇上の玉座に座す王に視線を向けた。
身を覆い尽くす、強大な力の波動。それはこの広間の隅々にまで余すところ無く満ちている。
心地良さと畏怖とが、跪いたレオアリスを覆う。
「……そなたはバインドについて、どこまでを聞いた」
「――私自身に、関わる事を」
グランスレイには、自分の鼓動の音が、広間に割れ鐘の如く響き渡るように思える。長い間、誰も何も言おうとせず、その時間は永遠のようにも感じられた。
王は玉座の肘置きについた右腕に頭を預け、暫らくその瞳をレオアリスの上に注いでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「近衛師団を動かす許可は与えられん」
その場の全員が、呪縛を解かれたかのように、身じろぎをして王に顔を向ける。
視線を落とし言葉を失ったレオアリスを見て、グランスレイは思わず伏せていた顔を上げた。
だがグランスレイが口を開こうとする前に、アスタロトが壇上をきっと見上げる。
「何故です!? レオアリスが離反すると、そう思ってるなら」
王の元に詰め寄らんばかりのアスタロトの肩を、ルシファーがやんわりと押さえる。
王は彼等の驚きや戸惑いを前に、低く笑った。
「勘違いをするな。バインドを相手に軍を動かす事は、無意味だと言っておるのだ。それはそなた達も良く判っていよう」
玉座の背に預けていた体を起こす。ゆらりと、広間全体の空気が揺らいだ。
「剣士レオアリス」
弾かれるようにレオアリスは顔を上げた。
「バインド討伐はそなた自身に命じよう。見事打ち倒し、我が前に戻れ」
一度だけ、大きく瞳を見開き、レオアリスは深く頭を下げた。
暗紅色の長布を翻して王が玉座を立つ。全員が首を垂れ見送る中、玉座の背後の扉の前で、王はふと足を止めた。
「――まだ、そなたは全てを聞いてはおるまい」
訝しげに王を見上げるレオアリスに、深い金色の瞳を注ぐ。その瞳の中に読み取れる感情は無い。
「そなたの養い親に会うといい」
問いかける間もなく、王の姿は扉の奥へ消えた。
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