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王の剣士3 「剣士」
【第四章】


 骨を断つ鈍い音が、ロットバルトの許まで届いた。
 断ち切られた首が雪の上に転がる。
 ロットバルトの位置からは、佇んでいるレオアリス後ろ姿が見えるだけで、その表情は判らない。
 ひきつっていたバインドの身体が、やがて静かに動きを止めた。
「つまらないな。もう終わりか」
 その声はぞっとするほど無機質な響きを持っていた。
 先程までのバインドとの戦いは、互いの力がほぼ拮抗していた。
 二本目の剣の出現、全能力の解放がここまでの差をもたらす事になるとは、おそらくバインド自身想定していなかっただろう。
 それとも、それがバインドの望みだったのか。
(どうなった……?)
 あの感情を欠いた声の響き。
 レオアリスが頭をもたげ、ゆっくりと視線を巡らせる。
 ロットバルトは知らず、剣の鞘を左手で掴んだ。冷えたその感触に気付いて笑う。
 普段のレオアリスからは感じる事のない、心臓を撫ぜるような恐怖がその場を満たしている。
 このまま放っておけば、切り裂くものを求めて、眼にするもの全てを滅ぼすだろう。バインドのように。
 だが今この場には、ロットバルト一人しかいない。
(……俺が、止めるか?)
 止められる可能性があるのか。
(――全く、自信が無いな)
 自分一人で止める自信どころか、大隊一つ手にしていた所で何の勝算もない事は、バインドが証明している。
 だが、すぐにでもレオアリスはロットバルトを見つけるだろう。今のレオアリスにどれほど彼の意識があるのか、この場からは想定が付かない。
 どうすれば戻る?
(剣を手放させるしかない)
 最も単純で、最も効果的だ。
 どうやって?
「知るか」
 価値の無い自問に、自嘲気味に笑う。
 レオアリスの視線がロットバルトを捉えた。
 ふ、とレオアリスの姿が消えたと見えた瞬間、目の前にその姿があった。
 上げられた漆黒の瞳と一瞬視線が重なる。
 何も考える間もなく、身体だけが動いた。
 地面を蹴ったその後を追って横薙の閃光が走る。
 咄嗟に立てた剣が、砕けた。
(しまっ)
 剣風に弾かれ、後方の森へ弾き飛ばされる。
「っ」
 雪の上に全身を叩きつけられ、ロットバルトは激しく噎せ返った。
 先程の位置から再びレオアリスは一息に間合いを詰めた。
 呼吸を失ってその場に沈み込んだのが幸いした。
 横薙の剣がロットバルトの頭上を抜け、背後の木々が衝撃と共に断ち切られる。
 息をつく間もなく振り下ろされた剣が、ロットバルトの首の横で止まった。
 剣のひやりとした感覚が皮膚に伝わる。
 自分の首と胴が未だに繋がっている事に、どこか他人事のように不思議さを覚えた。
 だが剣は止まったまま動く気配が無い。
 首筋で剣が小刻みに震えるのを感じ、ロットバルトは視線を上げ、レオアリスを見た。
 レオアリスの瞳が軋む。見慣れた感情の色が、僅かにその瞳に揺らいだ。
 噛みしめられた唇から、擦れた声が途切れ途切れに押し出される。
「……離、れろ……っ」
 鬩ぎ合う意識を表わすように、剣を握った右手を、左手が押さえ込む。レオアリスはよろめくように、数歩後退った。
(……まだ――)
 先程の初太刀を避けられたのも、この為だ。
 まだ完全にレオアリスの意識が消えた訳ではないのだ。
 止めるなら、今を置いて他にはない。
 だが幾度思考を巡らせても、自分の今の能力を考えれば答えは全て、否だ。比較にならない。
 それでも、ただ殺させる訳にはいかない。一旦身近な者を斬れば辛うじてかけられている枷は外れ、もはやレオアリスは自分を押し止める事はできないだろう。
 一つだけ、賭けのような方法がある。
(気休めに近いな)
 それでレオアリスの意識が戻る確率など、握った砂の一粒もあるかどうかだ。
 だが、きっかけにさえなればいい。自らの意志で剣を抑えない限り、レオアリスの意識を戻す他の方法はない。
 それを捜して視線を巡らせ、ロットバルトは息を呑んだ。
 雪を踏んで、ゆっくりとこの場に近づいてくる者がある。
 カイル――レオアリスの祖父だ。
 右手に丸い香炉を提げている。
 来るなと、喉元まで込み上げた声を飲み込んだ。刺激を与えるのは避けたかった。レオアリスはまだ背後に気付いてはいない。
(何をするつもりだ……?)
 カイルは足を止めると低く何かを呟いた。その詞に合わせ、提げていた香炉から薄紫の煙が溢れ出し、雪の上に落ちると這うようにレオアリスの足元に漂っていく。
 それは足元からゆっくりと、レオアリスの身体を絡めとろうとするかのように立ち昇った。
 ロットバルトの許にも煙がじわりと這い寄る。足先に僅かに触れたそれは、ひどく重量感を伴う。咄嗟に足を引いたものの、触れた瞬間頭の奥が鉛のように重くなった。おそらくは捕縛用の術なのだろう。
 煙を嫌い、レオアリスは身体を捩る。だが絡み付いた煙に繋ぎ留められたかのように、脚は動かない。
 脚に、腕に絡み付いた煙が厚みを増す毎に、剣がじり、と下がった。
 上体が揺れ、雪の上に膝が落ちた。
 (……成功したのか?)
 煙は途切れる事なく、屈み込み動きを止めたレオアリスの背に纏いついていく。



 じわり、とレオアリスの中に怒りが生まれる。手足が痺れるように重く、鉛を括られたように動かない。
 苛立ちと怒りが胸の奥に渦巻く。
 自分を抑え込もうとするのは何だ?
 背後に、何かの気配があった。
 邪魔だ。
 雪についた右手が、剣の柄を握り込んだ。



 レオアリスが動かなくなったのを見て、カイルは大きく息を吐いた。掲げた香炉を下ろそうとした瞬間、青白い光が走り、手にした香炉を砕いた。
「!」
 衝撃でカイルが雪の中に倒れ込む。
 身を起こし向けた視線の先で、レオアリスの身体が重い戒めを纏ったまま、ゆっくりと立ち上がる。
 取り巻く煙を断つように、身体の周囲を剣が一閃した。
 煙が掻き消える。
(やはり、抑える事は出来ぬか)
 カイルは予め分かっていたかのように、僅かに笑った。
 恐らくは、抑える事は不可能だろう、と……。
 ふと、瞳を見開く。
 ならば何故、自分はこの方法を選んだのか。
 その場に立ち尽くしたカイルに向かって、レオアリスは足を踏み出した。



 自分の邪魔をしていた相手に向って歩く。
 目の前まで来ても相手は動く気配もない。簡単に斬れる。
 それは少し、つまらなかった。
 ――違う。
 心の奥に浮かんだ声を無視して、剣がゆっくりと持ち上がる。
 凍える冬に自分を暖めた腕。
 目の前にいるのは。
 剣が切り裂く事への喜びに満ちる。
 囲炉裏の傍で、そのしわがれた声が語る言葉に耳を傾けた。
 剣が、動きを止めた腕に苛立つように震えた。
 目の前の相手は逃げる気配すら無い。
 斬れ。
 剣の歓喜が全身に流れ込む。
 ……何で――。
 胸の奥底で、微かな悲鳴が響いた。

 何で、逃げてくれない。



 無造作に、右腕が上がる。
 カイルは少しも身動きする事なく、ゆるやかに持ち上がる剣を見ていた。
 これが自分を斬れば、もはやレオアリスは止まるまい。
 そうさせてはならないという想いの奥底に、小さな硬い石のようにこごった固まりがある。
 それが自分に裁断を下すのを待っている。
 彼らが去って長い間、口に出されないままに、ずっと抱き続けてきた想い。
 幾度重ねても、どうやっても、思考はそこに戻る。

 我々はやはり、忌み族だったのだと。

 関わるものに禍を呼ぶ。
 何故、生を求めてこんな地まで来てしまったのだろう?
 もっと早い段階で諦めるべきだったのだ。
 自分達の足掻きが呼んでしまったもの。
 ずっとどこかで死を望み続けてきた。
 もうすぐ、それが訪れる。
 一番、相応しい者の手によって。



 カイルは剣が振り下ろされるのを待つように動かない。その姿に、ふいにロットバルトの中に憤りにも似た感情が沸き上がった。
『あの子を、頼みます』
 あれは、そういう意味で言ったのか?
 『我が子』を想う親の願いではなく?
(――冗談じゃない。そんな頼まれ方は御免だ)
 雪に覆われた木立の間に視線を走らせる。探しているものはすぐに見つかった。
 いつの間にか晴れ上がった空の光を受けて、鮮やかに輝く。
 走り寄り、雪の上に落ちていたそれを取り上げると、ロットバルトは二人へと向き直った。
 今にも振り下ろされそうな剣。
 微かに震える腕が、レオアリスの中の葛藤を伝えている。
 カイルにはそれが見えていないのか。
「止めろ! あなた方が望んだのは、そんな事では無いはずだ!」
 鋭い声がカイルを思考から引き戻した。レオアリスの後方にロットバルトの姿がある。
 その手が投げた何かが、陽光を弾いてカイルの手の中に落ちた。
 剣の意匠に、青い石の飾り。
 目の前のレオアリスの姿に青年の姿が重なった。
 『忌み族? 迷信なんて大体そんなもんだ』
 『伝えたいのは――』
「あ、あ」
 自分は、何を、しようとしていた?
 この、何よりも大切な、彼等の忘れ形見。
 それを――。
 見上げたレオアリスの瞳の中に激しく鬩ぎ合う色がある事に、カイルは漸く気付いた。
 どうして今まで見えなかったのか。
 そこにあるのは、怒りでも憎しみでもない。
 苦痛にも似た、悲しみの感情だ。
 今にも泣きだしそうな。
 無造作に上げられていると思った剣に込められた、二つの力。
 振り切ろうとするものと、押し止めようとするもの。
 それを目にした瞬間、カイルは腕を延ばして目の前の身体を抱き締めた。
 引き絞られ、限界に達した弓のように、その上に剣が落とされた。



 抑えがたい衝動が、鼓動に合わせて吹き上がる。
 止め処も無く生まれるそれは、解放を求めてレオアリスの意識を揺さ振り続ける。
 千切れそうになる意識を繋ぎ止める為に、精神は急激に疲労していく。
 目の前に祖父がいるのは判っていた。抑えようとする腕を無視し、切り裂く相手を求め、剣が歓喜に震えて持ち上がる。
 抑えようとするこの腕に力は入っているのだろうか。
 そもそも、自分は抑えようとしているのか?
 斬りたがっているのは誰だ。
 ――いやだ。
 剣の歓喜が膨れ上がる。
 目の前にいるのは、自分を育ててくれた親だ。
 ――嫌だ、止めてくれ!
 剣が落ちる。
 意識が、弾けた。





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