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王の剣士4 「かりそめの宴」
【第三章 「癒えぬ思い」】


「お久しぶりです、ファルシオン殿下」
 ハンプトンの呼び掛けに続いて掛けられた声に、ファルシオンはぱっと明るい笑顔を浮かべて駆け寄ろうとし、それから思い出して立ち止まった。
 この青年は時にハンプトン以上に礼儀作法に厳しい。ファルシオンに対して臣下の礼を捧げ、それをファルシオンがきちんと作法通りに受けるまで、普段の彼のように駆け寄る事を良しとしなかった。
「ご健勝そうなご様子を拝見し、喜ばしく存じます」
「うむ。面を上げよ、ヴェルナー中将」
 ロットバルトは伏せていた顔を上げ、にこりと笑みを浮かべて立ち上がった。
「良くお出来になられました」
「うん!」
 及第点をもらった嬉しさに勢い良く頷いてしまってから、さっと口元を押さえる。また注意されるかとそろりと視線を上げたファルシオンに対し、ロットバルトは笑みを返した。
「結構ですよ。――では、始めましょうか」
 ファルシオンがきちんと卓の前に座るのを待ってから、ロットバルトも向かい合うように置かれた席に腰を掛ける。
 月に二回、ロットバルトはファルシオンの教育官として彼のもとに上がっていた。それはファルシオンに、専門の教育官だけではなく、より幅広い分野に目を向けさせ見識を深めさせるという、王の考えを受けてのものだ。実際に各分野で職を得ている者を教育官として招く。
 例えば学術院や法術院であれば院長のスランザールやアルジマールはもちろん、その中でも優秀な若手を時折呼ぶ事もある。教える、と言うよりは自らの経験を語って聞かせる、という場合も多い。
 好奇心旺盛なファルシオンは、色々な話が聞けるこれらの時間をとても楽しみにしていた。一時はそれまで考え込んでいた憂慮の色も消え、生き生きとした普段の表情を取り戻している。ハンプトンはほっと一息ついて、邪魔をしないようにとその場から退出した。
「前回お出しした宿題は解けましたか」
「たぶん」
 ファルシオンがロットバルトから学んでいるのは、戦術だ。前回、ほぼ二十日前の授業の折に、一つの問題が出されていた。
 ごく簡単な、遊戯のような問いかけだが、それでも四歳には難しいだろう。しかしファルシオンには、たったの四歳とは思えないほどの聡明さを備えていた。
「では、まずは問題の復唱を」
 軽い緊張に、ファルシオンがぴんと背筋を伸ばす。
「ええと……、あいての軍は自分の軍よりも倍の人数で、でも二里はなれたところに味方の軍がいる。勝つにはどうするか」
 ファルシオンは出された問題を丁寧に繰り返し、黄金の瞳をロットバルトに向けた。
「逃げるふりをしながらとちゅうまで引き返して、味方といっしょにたたかう」
 色々と考えて導き出しただろう答えを、少しだけ不安も交じった声で告げて、首を傾げる。
「あってるか?」
「偽計ですね」
 ロットバルトがにこりと微笑んだのを見て、ファルシオンは瞳を輝かせた。ただすぐに、質問が投げ掛けられる。
「では、味方と合流する前に敵が追い付いた場合は」
「え、えーと」
 ファルシオンはぱちぱちと瞳を瞬かせた。考え込んだ傍から、別の問いが重なる。
「または、味方の軍との中間地点に伏兵――他の部隊が隠れていた場合では?」
「そんなにいっぺんに聞かれても」
 抗議の声を上げたファルシオンに、あくまで穏やかな声が返る。
「この問いにこれという決まった解はありません」
 ファルシオンはもう一度、ぱちりと瞳を瞬いた。
「問題はこの先、貴方のお考えになった戦術を布いた場合、どのような事態が想定されるか、それを様々な角度から考える事です。当然状況というのはたった一つの想定通りでは無く、その時々で変化するものに臨機応変に対応する事が求められます」
 ロットバルトの言葉を理解しようとファルシオンが椅子の上で身を乗り出し、ロットバルトはもう少し話す速度を緩めた。
「これは何も戦場でなくとも、王政の場でも変わりはありません。現場は常に流動する。想定通りに状況が運んだとしても、思いがけない結果を生む場合もあります。それをお心に留めて置かれると良いでしょう」
 ちょうど茶器を持ってきたハンプトンがそっと苦笑を零す。
 相変わらず四歳の子供相手にも容赦が無い。控えている侍従は後でもう一度噛み砕いて、ファルシオンに説明するという難題が待っている。それでもこの場に付きたがる娘は多いが。
 ただファルシオンは幼い頬に真剣な色を浮かべてじっと耳を傾けていて、何とか自分自身でその意味を拾おうとしている。
 それを誇らしく思いながら、ハンプトン茶器を傍らの卓に置くと、またそっと部屋を出た。
「みんなまちがってたら?」
「間違いを認めて即時に対応する事。間違いと判っていながら迷って時間を置けば、更に損害は広がります。貴方のお立場は時にそれを非常に難しいものにするでしょう。ただそれは常に意識に持ち続ける事です」
「まちがってたらごめんなさいってするってこと?」
 ファルシオンの口振りに、ロットバルトも思わず口元を緩めた。
「そうですね。度合いにも寄りますが」
「どあい?」
「先程とは逆の意味で、貴方には王位継承者としてのお立場がある」一度、ロットバルトは言葉を切った。「――これはまだ少し、使い分けは難しい。今はここまでにしましょう」
 威厳、権威、それ等を保ちながら誤った選択による損失を避け、かつ権力に寄り添おうとする者に付け込まれる事のないよう使い分ける。
 それは王者の備えるべき能力だが、今の幼いファルシオンにそこまでの理解を求めるのは酷というものだ。
 そんな事を話しながらふと、レオアリスに対して少し説明も無く言い過ぎたかと思い返した。ヴィルトールの言うように急ぎ過ぎていたのは確かだ。
 イリヤとの接触を避けるべき理由を、無難な所まで説明すべきだっただろう。
「あの、冷めないうちにお茶をお召し上がりください」
 遠慮がちに掛けられた声に、ロットバルトはハンプトンが置いていったままの茶器に瞳を向けた。
「丁度いい、少し休憩にしましょう」
「うん!」
 ちょっとほっとした顔でファルシオンが頷く。
 この時間になると課題とは関係なく、自由に聞きたい事を聞ける。ファルシオンにはいつも特に待ち遠しい時間だ。侍従が紅茶を注いだ茶器を二人の前に置いた。まだ充分暖かそうな湯気を立てている。
「レオアリスは今日は何をしてるんだ?」
 真っ先に出た質問に、ロットバルトは口元を綻ばせた。
「本日は第一大隊の合同演習日ですので、丁度今頃は指揮監督をしております」
「えんしゅう……」
 紅茶を飲もうとして杯を口元に持っていきかけたまま、ファルシオンが瞳を輝かせる。
「剣をみせるのか?」
「いえ。今回は予定しておりません」
 残念がるのかと思ったら、ファルシオンはほっとしたような、満足そうな顔をした。
「よかったぁ」
 なんとも無邪気な笑顔だが、ロットバルトは首を傾げた。
「良かった? 何故ですか?」
「だって私はまだ見てないもん」
「――ああ」
 ファルシオンの言葉の意味するところに気が付いて、苦笑を浮かべる。
「ほかによていはないな?」
「そうですね……」
 予め剣を抜くと予定しているものはそうそう無い。それこそ王の御前演習くらいなものだ。
 ただ、日常の訓練の合間に剣を抜く事はある。が、「私には見せないんだから」と頬を膨らませているファルシオンには教えない方がいいだろう。
「私が見るまで、ずっとよていなんてないといいんだ」
 随分とファルシオンはあの剣を見る事に拘っているようだと、ロットバルトは笑ってファルシオンを見つめた。
「それは厳しいでしょう。彼は剣士ですから」
 今度はファルシオンが首を傾げた。
「剣をもって戦う事そのものが、剣士の存在意義です」
「そんざいいぎ?」
「簡単に申し上げれば、生きる価値というものですね」
 ロットバルトの言葉を噛み締めるように考え、ファルシオンは鋭い事を言った。
「――じゃあ、剣を抜いちゃだめなら、レオアリスはここはきらいなのかな」
 心配そうなその声の響きに、ロットバルトは僅かに瞳を見開き――、安心させるように首を振った。
「それはありません」
 本来剣士には、こうした規則に縛られた組織の中に組み込まれる事は向かない。
 十七年前の北の事件を起したバインドではないが、ある一点ではバインドの感覚は剣士という種族の一端を代弁している。
 ともすれば「殺戮者」と揶揄されもする剣士という種は、そう揶揄される前に、生まれながらにして他を切り裂く剣そのものなのだ。
 剣士が戦う事を、剣を、封じる事など、その存在を否定する事に等しい。
 王都の中、そして近衛師団という組織の中では、レオアリスはそれに等しい状況に身を置いているとも言えた。
 ただ、それすら上回るものが、レオアリスにはある。
 剣士にとっての、主だ。
 剣を捧げる唯一の存在。
 抜き身の剣を収める鞘。
「王の剣士である事――」
 それは多くの者が彼の地位を指して呼ぶ単なる呼称ではなく、レオアリスという存在そのものを指す言葉だ。
 何者にも縛られず、心行くまで剣を振るいたいという渇望がレオアリスの中に全く存在しない訳では無いだろう。
 ただその本能を抑えて尚、レオアリスには自らをこの規制の中に置く理由がある。
 だからロットバルトに限らず第一大隊の者達は等しく、あの若い剣士が王都の中で少しでも自由に呼吸できるように、常に心を配っていた。
 今回のこの件がレオアリスの立場にどう影響を及ぼすのか、ロットバルトはそこを見極めたかった。
 ファルシオンはロットバルトの言葉を口の中で繰り返した。
「父上の――」
 誇らしそうな輝きを瞳に宿す一方で、先程よりももう少し、寂しそうな顔で俯く。さすがにその理由はロットバルトには判らず、頬を膨らませたファルシオンを黙って見つめている。
「そうかぁ」
 レオアリスは遊んで欲しい時には遊んでくれると言った。だから兄ではなくてもいい。
 けれどやっぱり少し、自分の望み通りではないみたいだ、と、幼いならではの心でファルシオンは小さく息を落とした。
『貴方様には、お兄様が』
「殿下?」
 ロットバルトはファルシオンの様子が普段と違う事に、訝しそうに呼び掛けた。
「なんでもない」
 ファルシオンが顔を上げて首を振る。ロットバルトは束の間ファルシオンの顔を見つめたが、それ以上は問わなかった。
「――そろそろ講義に戻りましょうか」
 ファルシオンは椅子の上に座りなおした。その瞳が一度、自分の左側に向けられる。ロットバルトは何気なくその視線を追って、そこにある卓に置かれたままの分厚い辞書に眼を留めた。
 丁度ここに来た時、ファルシオンはこの上に身を乗り出していた。
「何か調べておいでだったのですか?」
 その問いにファルシオンはさっと表情を曇らせた。金の瞳が戸惑った光を含んで、辞書の上とロットバルトの上とを行き来する。
「――」
 ロットバルトは片手を軽く上げた。心得た侍従が立ち上がり、お辞儀をして部屋を出る。
 扉が閉まった途端、待っていたようにファルシオンは顔を跳ね上げた。
「ハンプトンには言わない?」
「調べ物をしていた事を?」
 問い返す言葉にファルシオンがこくりと頷く。
「――何故です?」
「だって……ラナエがおうちに帰されちゃう」
「――」
 予期もせず、ラナエの名前がファルシオンの方から出された事に、ロットバルトは密かに息を飲んだ。内心の驚きを面に出さず、一呼吸置いてからファルシオンの瞳を見つめる。
 ラナエ・キーファーがファルシオンの傍にいるのは既に判っていた事だ。その口から名前が出ても、普段であれば取り立てて可笑しな話ではない。
 だがこの場面で、ファルシオンが何らかの理由で、ラナエの名前を口にする。
 それは単なる偶然では有り得ない。
『ただ回避せよ。それこそがそなたの役割であろう』
 スランザールは一切関わるべきではないと、そう言った。
 スランザールの言葉は警告という生易しいものではなく、絶対の命令だ。そして今立っているのが引くべきぎりぎりの位置なのだろうと、ロットバルト自身もそう理解している。
 けれど、現実には故意にか偶然か、事態はゆっくりと、忍ぶように動いている。
 それどころか、思った以上にその速度は速いのかもしれない。
 ロットバルトは僅かに細めた瞳をファルシオンへ向けた。
「――お約束いたしましょう」
 そう口にした瞬間に、あの視線が現れる。ロットバルトの背後、ファルシオンからは死角の位置だ。
 踏み込んだ、と思いながら、ロットバルトは自分が心のどこかで、視線はこの場にだけは現れないだろうと考えていた事に気付いた。
 ここは王の居城の内、第一王位継承者の館だ。どんな法術も通さない、王都で最も深く守られた場所だ。
 手元に剣は無い。ロットバルトは感覚を鋭く研ぎ澄ませたが、ファルシオンに対する害意を心配する必要は無いと、そう思える。
 この場所にまで視線が現れた事が示すものが何か――その奥に隠された姿は既に明確に想定できた。
 視線が揺れる。
 それは朝方よりも、質量を増したようだった。
「ヴェルナー」
 口を閉ざしていたロットバルトの前で、ファルシオンは躊躇うように伏せていた顔を上げた。その瞳には戸惑いと、それを上回る真実への希求の色が浮かんでいる。
「そなたは」
 一度言葉を飲み込みかけ、ファルシオンは意を決したように口を開いた。
「そなたは『あんさつ』ってなにか、知っているか?」
「暗殺――?」
 思いも寄らない、ファルシオンの口から出るには余りに相応しくない言葉に、ロットバルトが瞳を見開く。何故、と口にしかけて、だがすぐにその理由は思い当たった。
 ファルシオンの言っているのは、第一王子の暗殺の事だろう。
 それは、公然と伏された事実だ。
 ロットバルトは注意深くファルシオンを見つめた。
「――ラナエという侍従が、貴方にそれを告げたのですか?」
「ちがう」
 はっと気が付いて、ファルシオンは一生懸命首を振った。
「ラナエはそんなこと言わなかった。父上が、前におっしゃっていたから」
 気になったからとファルシオンは続けたが、おそらくその切っ掛けがラナエなのだろうとはロットバルトにも判る。
 昨日レオアリスがファルシオンの元から戻った時、確かにファルシオンは兄の事で悩んでいたと、そう聞いた。ただ、「暗殺」という言葉はレオアリスの口からは出ていない。レオアリスが居た時点でその事を考えていれば、ファルシオンはレオアリスに尋ねるだろう。
 だとすれば、ファルシオンは昨晩の内にそれを聞いたか、深く考える何かのきっかけがあったのだ。
 ロットバルトは暫くファルシオンを見つめていたが、まずは誰から聞いたのかという疑問よりも、彼の不安そうな瞳に答える為に口を開いた。
 だが実際は、この件に関してはロットバルトも、彼の父ヴェルナー侯爵も――大公ベールですら伝えられる言葉は無い。こう言うだけだ。
「――それは、私の口からお聞かせする内容ではありません」
「でも」
「もう一度、陛下にお尋ねになるべきでしょう。陛下以外の誰一人として、貴方に軽々しくそれをお答えする事はできません。そういった類いの事です。お判りになりますね?」
「父上だけ――」
 王以外語る事を許されない。その言葉をどう受け止めたのか、ファルシオンは口の中でそっと繰り返した。
 一方で、自らそう語りながら、ロットバルトは指の先がじわりと冷えていくのを感じていた。
 スランザールの言葉。そして今ロットバルトが口にしている言葉は、恐ろしいほど良く似ている。
「――貴方はいずれ、全てをお知りになるべきお立場にあられる。貴方に今、その事実が必要だとお考えになれば、陛下は貴方のご質問を退けられる事は無いはずです」
「――」
 ファルシオンはじっと、卓に置かれたままの分厚い辞書を見つめている。
 王は今のファルシオンにあの出来事を告げるだろうか、とロットバルトもまた辞書に視線を落としながら考えた。
 あの出来事、と言いながら、ロットバルトも明確に知っている訳では無い。学術院で学ぶ中で必ず語られる王家の歴史の一部として、そして文書宮に収められたごく薄い判決文を読んだ程度だ。
 事件に比して、あっさりし過ぎる程の、事実のみを淡々と綴った判決文。
 だが確かに、経緯を考えればその薄さも当然と言えた。
 僅かに二日。その短期間の内に事件は起こり、収束した。
 生後間もない第一王子の暗殺。
 そして――暗殺を首謀した、ウィネス男爵家の廃絶。
 当時第二王妃として迎えられていたウィネス男爵家の娘、シーリィアもまた、咎を負い処刑された。
 第二王妃はその時、身籠っていたという。
 余りに重く、余りに早い結末だ。
 第二王妃が身籠っていたのは男児だったと言われている。それが全ての切っ掛けとなり、ウィネス男爵家は自らの血筋を王位に付けるという野心に駆られ、正妃の王子を暗殺した。
 誰もが知っている事実でありながら、誰もが口にする事を避けるのは、そうした理由からだ。軽々しく口にできる内容ではない。
 ロットバルトは辞書から視線を離し、ファルシオンと向かい合った。慎重な、薄氷うすらいむような感覚が纏い付いている。
「殿下、ラナエという侍従は、貴方に何か申し上げたのですか? 貴方がそうしたお考えを持つような事を?」
「――」
 背後の視線が、刺すように強くなる。同時に自らの意識も、強く警鐘を鳴らしている。
 触れるな、と。
 もう既にスランザールの警告を超えて踏み込んだ。これ以上踏み込むべきではない。
 だが、次にファルシオンが口にした言葉に、その意識すら掻き消えた。
「私に……、兄が、いるって」
 とても小さな声だった。
 それ以上に、ファルシオンの言葉はロットバルトの中では、初めは意味を持つ言葉ではなかった。
「――兄?」
 ロットバルトは繰り返し、それから、全身の血が凍り付いていくのを感じた。
 その前でファルシオンは、口に出した事で漸く落ち着いたのか、小さな身体全身で息を吐く。
「兄上がもう一人いて、今も生きてるって」
 もう一人――。
 ラナエ・キーファーが、ファルシオンにそう告げた。
 ふいに脳裏に閃いたのは、イリヤの姿だ。
 銀に近い、色の抜けた髪。色の違う瞳の、右の金。
 何より、生まれながらに備えていた、――力。
『私の育った狭い街では、気味が悪いと良く言われていました。妙な力を持っていて、こんな髪と眼で、おまけに誰の子だかも判らない――』
 イリヤの言葉。そして、それに対する、レオアリスの言葉。
『その最たるものは――』
「――まさか」
 恐ろしい推測が、ロットバルトの意識を打ち鳴らす。イリヤの姿を間近にしながら、何故今の今まで思い至らなかったのかという疑問には、すぐに別の、それこそ当然の心理だという思いが答えを出した。
 それは万が一にもあってはならない事だからだ。誰もそんな想定などできるはずが無い。
 想定が可能かどうかではなく、想定する類いのものですらない。
 第二王妃とその子供は、死んだ。いや、死ななければならなかった。
 王家に対する重罪から、彼等二人だけを遠ざける事は許されなかった。
 身重の母をその児とともに命を奪う。それがどれほど酷い事であっても――、
 王家とは既に、そうした仕組みの中にある。
(まずい――)
 この視線の意味、スランザールの警告の意味、それをロットバルトは今、はっきりと理解した。
 最早これ以上踏み込んではならない。
 いや、それ以前に、イリヤを探る事。イリヤ・キーファーに関わる事、そのものが。
 失われた地籍。
 辿れない過去。
 何故、彼が生きているのか、それは今の段階では計りようが無い。
 だがファルシオンの――ラナエ・キーファーの言葉が真実だと、いみじくもあの監視者が証明している。
 イリヤ・キーファーは、処刑されたはずの第二王妃の息子だ。
 あのような事件が起こらず、第一王子が何事も無く成長していれば、イリヤは第二王子として――ファルシオンの兄として、この居城に暮らしていたはずだった。
 ロットバルトはどうしてもその方向に走りそうになる思考をぐっと抑えた。
 イリヤの過去に関する推測よりも、今すべき事は別にある。
 レオアリスがイリヤと会ってみようと言ったのを止めはしたが、それでレオアリスが納得していた訳ではない。
 納得させるように説明をするのは、もはや朝の段階よりも困難を増している。だが今は確実に、それをしなければ。
『ただ回避せよ』
 スランザールの言葉通りに。
 もし、万が一にも、王の剣士と呼ばれる存在がイリヤと接触をする事は、その立場を危うくする。それどころか、思わぬ誤解を生みかねない。
 レオアリスの立場は、漸く固まり始めたばかりだ。
 イリヤは自分の過去を、どう使うつもりなのか。もし王に自分を認めさせるつもりなら、どんな手段を使って、王へ近付こうとするか――。
 ゴドフリー侯爵邸でイリヤがレオアリスに助けられたのは、全て偶然の出来事だろうか。
「――せめて、副将とは」
 口の中で呟かれた響きに、もう一つの言葉が重なった。
「そのような事をされては困ります」
 ファルシオンの声でも、傍に控えていた侍従の声でも無い。女の声だ。瞳を上げたロットバルトの視線の先で、ファルシオンの姿がゆっくりと薄れていく。
 ぎょっとして立ち上がり、ファルシオンへ腕を伸ばそうとして――、薄れているのはファルシオンではなく、周囲全体だという事に気が付いた。
 今まで居た室内は、まるで擦り硝子を一面に張ったように朧気になり、ゆらゆらと不確かに揺れていた。
 ロットバルトの方が切り離されたのだ。何らかの法術で。
 背後を振り返る。
「――」
 ロットバルトは鋭く視線を細め、そこに現れた人影を見据えた。



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