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王の剣士 六【紺碧の守護者】

終章 「変転」


 レオアリスの身体を青白い陽炎が取り巻き、叩き付ける風と互いを削り合い、せめぐ。
 触れれば肌を切り裂きそうな、冷えたその感情がアスタロトにも届いた。
「――レオアリス……」
 熱を帯びた塊が喉を塞ぎ、アスタロトは息を詰めたままレオアリスを見つめた。
「何で」 風さえも拾わないほどの微かな声で呟く。
 何故彼がここにいるのだろう。
 自分は、何を選ぼうとしていたのだろう――
 腕を掴んでいたルシファーの手が解け、アスタロトはつられるようにルシファーを見上げた。アスタロトには読み取れなかったが、その時ルシファーの面を彩った笑みは、彼女の手を離した事を惜しいと思うものとは違った。
「残念ね――あなたも連れて行きたかったけど。残るよりもずっと楽なのに」
「ファー」
「西方公――離れろと、そう言っている」
 聞いた事のないほどの冷えた響きに、アスタロトは再びレオアリスを見つめた。全身を包む青白い陽炎が揺らめく。
 アスタロトの好きな、月の光に浸したような研ぎ澄まされた剣がその手にあり、レオアリスは真っ直ぐルシファーへ視線を据えていた。
(剣――、何で――)
 まるで彼女を斬ろうというようだ。
「レオ」
「珍しい、怒るのね」
 ルシファーは鈴を鳴らすような笑みを含み、ふわりと浮くとアスタロトから離れた。
「何も判っていないのに。成すべき事も――、この子の事も」
「!」
 風がうねり、音を立てる。
 床に倒れていたソーントンは叩き付ける風に恐怖を覚え、起こしかけた身体を再び縮めた。その瞳がわなわなと震え、寝室の戸口に立つレオアリスを見る。レオアリスのすぐ前を。
 アーシアが立ち上がろうとして風に身体を押されながら叫んだ。
「レオアリスさん……!」
 ルシファーがいつの間にか、レオアリスの真ん前に浮かんでいた。
 暁の瞳を見開くようにしてレオアリスの顔を覗き込む。口元だけが笑みを広げる。
「もう遅い。さっき私を斬っておけば良かったのに、のんびりしているからよ。それとも、怖かった――?」
「――ッ」
 奥歯をぎり、と噛み締め、レオアリスはルシファーを睨んだ。
 底知れない夜明け前の闇が、意識を無理矢理引き擦り込もうとするようだ。
 ルシファーが瞳を外す。レオアリスの全身にのしかかっていた圧迫感が軽くなった。
 ルシファーはその瞳を、恐怖と驚愕の表情のソーントンへ向け、笑った。
「私はこの国を去る」
「ファー!」
 それまで茫然と成り行きを見つめていたアスタロトが、咎める声を上げる。ソーントンはルシファーを凝視しながら、唇を震わせてようやく声を押し出した。
「――何を……」
 問わずにはいられない。ルシファーはソーントンに顔を向けていた。語りかけているのは何故かアスタロトでもレオアリスでもなく、ソーントンにだった。
「何を、仰っているのか――」
「去れば私はこの国の滅びを望むだろう」
「滅び――」
 繰り返し、ソーントンの面が更に蒼白になる。
「そんな、まさか」
 スランザールの言葉が脳裏に蘇り、レオアリスはルシファーを見た。
 乗るな、と
「貴方が、国を、この国をう……裏切るなどと」
 ルシファーの笑みが深まる。
「止めたければ方法は一つ。今ならばとても簡単な話だ」
 ルシファーはレオアリスに視線を移し、誘うように告げた。
「私を斬りなさい、これが最後の機会よ」
 アスタロトが息を呑むのが聞こえる。
 レオアリスは走りたがる剣を抑えながら、慎重にルシファーを見つめた。
 斬れと言うその言葉が本心なのか――、ルシファーが何を仕掛けているのか、それを見極めようとしていた。
 ただ、どんな疑念や迷いをも単純に貫く、直感がある。

 斬るべきだ。
 今

 ここで

「――貴方は何故、何の為に、こんな事をするんだ」
 問いかけはレオアリス自身にすら、虚しく感じられた。それを証明するようにルシファーが微笑む。
「理由はあるわ。でもそれはもう、長い時の間に、私を止めるだけの力を持たなくなった」
「――」
「あなたが斬ってでも今止めない限り、私はこの国に仇をなす」
 右手に握る剣が、微かに光を増す。
「ダメ――!」
 レオアリスが踏み出そうとした瞬間、アスタロトは駆け寄り、レオアリスの腕にしがみついた。剣を持った腕だ。
「バ……カかッ、危ねぇっ!」
 レオアリスは慌てて剣を引いた。「何考えてんだ、怪我するだろう!」
「斬らないで――ファーなんだ」
「――」
 向けられた深紅の瞳には、切実な願いが浮かんでいる。
 アスタロトにとってルシファーは大切な友人で、それ以上に、姉のようにも慕っている相手だ。
「私が、話をするから」
「無理よ」
 あっさりと無慈悲に断ち切る。
「ファー」アスタロトが縋るように首を振る。
 ルシファーはしばらくじっとレオアリスと彼の上にある葛藤を見つめていたが、やがて息を吐いた。
「――謁見の間と今と、二度の機会があったのに」
「――」
 淡々と――感情の籠もらない声だった。
「おかげで私も心を決めたわ。――今度会う時はあなたの――、王の敵よ」
 アスタロトはレオアリスの顔を見つめ、微かに唇を震わせた。王の名が、それまで彼の中で揺れていた天秤を一方に傾けたのが判る。
「私は滅ぼすわ。この街も、国も、王にまつわるものは全て――。王も――、あの王子も」
 レオアリスが一歩踏み出す。
「レ……」
 止めようとしてアスタロトは咄嗟に手を伸ばした。
 右腕の軍服に確かに掛かった指先が、振り切られて空を掴む。
「――」
 アスタロトはただ瞳を見開き、自分の手を見つめ、ぺたんとその場に座り込んだ。
 踏み込みざま剣を走らせようとして――、剣を下げ、レオアリスは深い息を吐いた。
 たった今そこにあったルシファーの姿は、宙に溶けるように消えていた。
 室内を流れる風が、アスタロトの傍らでルシファーの声を散らす。
「アスタロト――考えが変わったらいつでも呼んで。どんな時でも」
 床を蹴るようにしてレオアリスは硝子戸に歩み寄り、扉を開けて露台に出ると素早く周囲を見回した。
 館、庭園、空――
 意識を研ぎ澄ましても、ルシファーの気配は掴めない。
「――」
 風はしばらくの間小さな渦のまま残っていたが、それもやがて消えた。
 張り詰めた沈黙を一番最初に破ったのはアーシアだった。
「アスタロト様、お怪我は」
 アーシアは駆け寄って手を取り、アスタロトを覗き込んだ。アーシアの瞳に心配の色を見つけ、アスタロトが慌てて首を振る。
「平気……怪我とか、何も、ないから」
「本当に大丈夫なのか?」
 掛けられた声に振り返ると、部屋に戻ったレオアリスが閉ざした硝子戸の前に立ち、床に座ったままのアスタロトへ視線を向けている。
「レオアリス――」
 久しぶりに近くにいる。向かい合って。
 こんな状況なのに、鼓動が高く鳴り、熱が胸の奥から喉を掴むように思えた。
「……大丈夫だよ」
 レオアリスは暫くアスタロトを見つめ、息を吐いた。
「ならいい。報告の謁見にいなくて、しかも戻る途中でアーシアが来たからな。何があったのかと思ったぜ」
 安心するほど軽い話でもないが、と呟き、レオアリスは手にしていた剣を消した。アスタロトはレオアリスを見上げ、その瞳がゆるゆると見開かれた。
「謁見――私、出なかったの?」
 懸命に記憶を辿る。ファルシオンやレオアリスがレガージュへ発つ、その朝の事はは覚えている。確かにレガージュへ行ったはずで――、だから今レオアリスがここにいるなら、謁見というのはレガージュの報告の場の事だ。
 そうだ。今レオアリスがそう言った。
 レガージュはどんなふうに決着したのか、そもそも自分が今どんな状況にあるのか、アスタロトは全く判らない事に気が付いた。
 ルシファーが来て、それで。
 それで――。
「私」
「アスタロト様は眠っていらしたんです」
「眠って……?」
「昨日……ルシファー様がいらしてから、ずっと」
「ずっと? 嘘……え、」
「眠ってたのには西方公が関係してるんだろう。何をしたのか判らないけどな」
 レオアリスの口調がいつもより少しきつく感じられて、アスタロトはレオアリスを見上げた。
「西方公と、何を話したんだ? 何かお前に言ったのか」
「ファー、は」
 アスタロトは唇を閉ざした。
 言える訳がない。
 ルシファーが何故自分の所に来たのか――
 言ったら、レオアリスはきっと呆れる。
 きっと――、きっと絶対に軽蔑されて、嫌われる。
「何、も」
「――」
 レオアリスの瞳にあるのは懸念の色だ。決して責められている訳ではなく、普段と変わらないはずなのに、向けられる視線に絶え切れずアスタロトは俯いた。
「何も言ってない――良く、覚えてないんだ」
「アスタロト様」
 真っ青なアスタロトを見つめ、アーシアが眉を寄せる。
「お身体の具合が、良くないんじゃ」
「平気」
「公」
 ふいに掛けられた厳しい声に振り返り、アスタロトはようやくソーントンがそこにいた事に気が付いた。痩せた面は蒼白で、普段見る以上の厳しく張り詰めた色がある。
「西方公が、この国を裏切ったと、これはそういう事ですな」
「――ち」
 違う、と言おうとして、言葉にはならなかった。
 ルシファーは。
『私はこの国を滅ぼす』
 ソーントンはアスタロトとレオアリスの顔を見比べ、立ち上がると服を払い居住まいを正した。
「早急に、陛下にこの事を申し上げねばならないと思っております。由々しき事態だ――非常に」
 アスタロトは茫然としたままソーントンの言葉を聞いていた。
 ソーントンの言うとおり、国政を支えるべき四大公爵家の一人が、国を裏切るなどと、あってはならない事態だ。
 ただ、実際には、それが起こった。
 アスタロトもレオアリスもアーシアも、ソーントンも、一部始終を見て、聞いている。
 王へ。
 報告して、そうしたら――、王は確実に、捕縛の為に兵を出すだろう。万が一には――
 討伐の兵を。
 それを兵へ命じるのは、他ならぬアスタロト自身だ。
「――」
 床についた手が震えているのが判る。
 ソーントンもまだ半信半疑といった様子で、しきりに腕を組んだり解いたりを繰り返している。
「大将――貴侯はどうするつもりだ」
「……まずはアヴァロン閣下へ報告します。おそらく、西方公の行方を捜索し」 レオアリスは一旦口を閉ざした。捕らえる、という言葉を口に出す事を躊躇ったのだと、アスタロトにも判る。「もう一度西方公に真意を尋ねる事になるでしょう」
 ただ、レオアリスはこの中で誰よりも、落ち着いているように見えた。
「――」
 レオアリスはルシファーを斬ろうとした。
 あの時の、二人のやり取り――、レオアリスはアスタロトの知らない事を、他の何かを知っているのだと、そう思った。
「――ファーを……、斬るの?」
 ぽつりと投げられた問いに、レオアリスはどこか、自分でも思いがけない事を聞いたというようにアスタロトを見つめ――、それを逸らした。
「……状況による」 一度口を閉ざし、息を吐いて、続けた。「まだお前がそこまで考えなくたっていい」
「――私、は、アスタロトだよ――」
 レオアリスはアスタロトから顔を逸らしたまま、くしゃりと短い髪を混ぜた。
「――そうか……そうだったな」
 束の間の沈黙の後、レオアリスは扉へ向かうと、廊下へと出た。
「一度師団に戻って、それから王城へ上がる。アヴァロン閣下に報告して――、ただ、その足ですぐ陛下へ上げる事になるだろうな」
 振り返り、アスタロトを見る。「半刻後に」
 王城で、と言って踵を返した。
「――」
 半刻後と言ったのは、アスタロトに落ち着く時間をくれたからだろう。
 多分その間にレオアリスはアヴァロンへの報告を済ませて――、そうしたらもう、王へ上げる番だ。
 王、に。
 王はレオアリスに、ルシファーを斬れと、命じるだろうか。
 アスタロトは自分の中で幾つもの色彩が渦巻いているように感じながら、しばらくの間立つ事もせずに、レオアリスの去った後の廊下を見つめていた。





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