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王の剣士 六【紺碧の守護者】

終章 「変転」


 レオアリスは自分の前を飛ぶアーシアの青い翼を見つめ、つい先ほど彼が告げた言葉を思い起こしていた。
『アスタロト様を、助けてください』
 助ける、という言葉に驚いて顔を見合わせたレオアリス達に、アーシアは時折つっかえながらも早口で、まるでそうしなければ口に出す事すらできなくなるというように懸命に言葉を継いだ。
 ルシファーが。
 その名が出された事に、腹の底が冷たくなる。
 昨日ルシファーが訪れてから、アスタロトはずっと眠ったままなのだとアーシアは言った。
 昨日。状況を考えればおそらく、ルシファーがフィオリ・アル・レガージュのあの海に現れる前に、アスタロトのもとを訪れたのだろう。
 何故――、何の為に。
 ルシファーは何をしたいのか。
『もう一度来ると、そう仰ったんです。今は行くところがあるからと』
『どうして――、ルシファー様は』
 どうして、とレオアリスも思う。
 どうして・・・・、アーシアに姿を見せたのか。
 アーシア自身がそう話したように、ルシファーが関わっているなどという話をアスタロト公爵家の長老会が認めるはずもなく、最終的にアーシアが頼るのはレオアリスしかいない。
 ルシファーはそれを判っているはずだ。
 レガージュの事件の直後、アーシアからそれを聞けば、レオアリスが疑いを抱くだろうと言う事も。
(判っていて――)
 レオアリスは呟き、口元を引き結んだ。
 ルシファーは、敢えて何かを見せようとしている。この件で一貫して、それだけは明確だ。
 これも、スランザールが乗るなと言った事の延長線上にあるのではないかと、そう思った。
(――)
 瞳を上げれば、アーシアの翼の向こうに、もうアスタロト公爵家の敷地と館が見える。緑なす庭に建つ白亜の館。その左右に広がる両翼棟が優雅な白い羽根を広げて憩う白鳥のように見えることから、白鳥宮と名付けられた。
 公爵邸の正門から出てきただろう馬車が、大通りへ続く道に止まっている。御者台の御者が自分達を見上げていた。
 馬車は中の人物の身分の高さが窺える四頭立ての立派な仕立てで、車体の屋根には上空からでも見えるように紋章が描かれていた。
 ソーントン侯爵家の馬車だ。
(ソーントン侯爵――さっきアーシアが言ってた長老会の筆頭か)
 馬車の小窓から白髪の男が顔を覗かせ、すぐに引っ込める。ソーントン侯爵だろう。
 アスタロトの様子を見てきたのだろうか。
 まずはソーントンの話を聞くべきかもしれない。
「――アーシア」
 レオアリスの呼び止める声は翼が切り唸る風に遮られ、アーシアには届かなかった。アーシアは馬車を振り返る事も無く、ただ真っ直ぐに、白鳥宮の前庭に降りた。



 アスタロト公爵家の私道を、王城へ向かう大通りへと馬車を進めていたソーントンの御者が、ふと空に眼を向けた後、驚いた声で主を呼んだ。
「侯爵――、あの飛竜はアーシアではありませんか」
「何だと――? 止めろ」
 馬車の轍が石畳を噛んで止まる。ソーントンは馬車の小窓を開けてそれを認め、険しい表情になって空を睨んだ。
 彼等の前方から、アーシアの青い飛竜姿と、もう一つ、銀翼の飛竜が上空を駆けてくる。今ソーントンが出て来たばかりのアスタロト公爵家へと向っていた。
「何を馬鹿な――」
 銀翼の飛竜――それが近衛師団第一大隊大将騎だろうとソーントンにも判る。
 二騎の飛竜はソーントンの馬車を通り過ぎ、長い並木道の先にある広い門の向こう、アスタロト公爵家主邸である白鳥宮の前に降りた。
「一体何のつもりだ、あの馬鹿者め。余計な事をするなとあれほど言ったと言うのに」
 けしからん、と吐き出し、強い憤りを示すように窓をぴしゃりと閉めた。アーシアを捕まえて懲らしめなくてはならない。
「引き返せ、館に戻るんだ」
 御者へと鋭く指示し、ソーントンを乗せた馬車は先ほどよりも速度を上げ、通りを引き返し始めた。



 アーシアは緑の芝の上に降りた瞬間、雷に打たれたように身体を震わせ、長い首を館に向けた。ほんの束の間アーシアは館を凝視し、青い飛竜の姿を少年の姿に変え、そのままレオアリスを待たずに館へ掛けていく。
「アーシア」
 レオアリスは驚いてまだ降下中のハヤテの背から飛び降り、追いかけてアーシアの腕を掴んだ。
「アーシア、少し待て」
 アーシアが振り返る。立ち止まる時間も惜しいと、その面に書いてある。
「急がないと――何か、変なんです」
「変?」
 館を見れば玄関から執事のシュセールが出てきて、馬車寄せからの階段の手前に立っている。玄関の広いひさしが作る日陰に表情を覆われながらも、アーシアとレオアリスを見て驚いている様が見て取れたが、邸内に何か問題がある様子ではなかった。
 シュセールは先代アスタロト公爵の頃からこの館を取り仕切っている。状況を詳しく尋ねるにはちょうどいい。
「アーシア、もう少し状況を知りたい。先にシュセールに話を」
 いくら何でもずかずかと踏み込む訳には、と思ったからでもあるが、弾くような声が返った。
「そんな場合じゃありません!」アーシアは自分の声の鋭さに驚いて、一瞬彼らしい羞恥を浮かべた。だがすぐに首を振る。
「――レオアリスさん、お願いですから。本当に何かおかしいんです」
「――」
 アーシアはレオアリスの返答を待たずに逆にレオアリスの腕を取り、半ば引っ張りながら、何かに追い立てられるように玄関への階段を上がっていく。
 先ほどよりもアーシアの焦りが強くなっている事に、レオアリスは不安を覚えた。
 まさかアスタロトに、何か――アーシアだからこそ感じるものがあるのか。
 レオアリスはもう一度館を見上げたが、陽光の中で白い壁が輝き陰影を帯びて穏やかに佇んでいるだけだ。
 そう見える。
 ぐい、とアーシアの手がレオアリスの腕を引いた。
「……アーシア、とにかく落ち着けよ、どうしたんだ」
 シュセールが静かに、ただ厳しい表情で玄関扉とアーシアの間に立ちはだかる。
「アーシア、お前は何をしているのです」
「シュセールさん、通してください」
 馬車の車輪が石畳を噛む音が聞こえる。先ほど通り越したソーントン侯爵の馬車だろう。シュセールもちらりと門に続く道を見た。
「大将殿までお連れして、それがどういう行為かお前に判らないはずがないでしょう。ソーントン様のご命令はお前にとって厳しいものとは思いましたが、それがこの行為に繋がるのは別の話です」
「――どいてください」
 アーシアの厳しく断固とした声が、決然と立ちはだかっていたシュセールの足を一歩引かせた。アーシアは彼女の横を擦り抜け、玄関扉を開けた。
「アーシア……」
 たった今まではアーシアを落ち着かせようと思っていたレオアリスは、開いた玄関から流れ出た気配を感じた瞬間に、その考えを掻き消した。
 空気が違う。
 立ち入った瞬間にそれと判るほどに――判るように施されているとしか思えないほどに、それは違っていた。
 身のうちの剣が騒めく。
 鼓動が緊張を表して、僅かに早くなった。
 レオアリスは玄関を潜った所で立ち止まり、アーシアを追いかけようと横を通り過ぎかけたシュセールに聞いた。
「いつから、こんな状態だったんです」
「え?」
 レオアリスの声が普段とは違う鋭さを帯びている事に、シュセールもアーシアさえも訝しそうに問い返した。
「今、何と……」
「館の中に――結界が組まれてる」
 法術の気配はない。屋敷を護るための防御陣とは違うものだ。
 アスタロトが張ったものでもない。
 だが、覚えがある。レオアリスはその気配に、この二日の内に何度も触れていた。
 あの海と、つい半刻ほど前までいた謁見の間。
(アスタロト――)
 レオアリスの瞳が、這い上がる感覚を抑えて細められる。
「結界……レオアリスさん、それは」
「お前の言うとおりだ。急ごう」
 アーシアは身を翻し、階段へ向かった。
 馬車の音が近付き、館の車寄せに走り込む。ソーントンだろうと思ったが、レオアリスは待たずにアーシアを追って階段を上がった。
 広い玄関広間の吹き抜けに、空中へ張り出すように架かる階段を三階まで上がる。一段上がるごとに、身を包む気配はどんどんと濃く強くなった。
「ここです」
 アーシアが示した部屋は、玄関広間を内にいだいて作られた回廊の南側にあった。ちょうど正面玄関の真上だ。
 アーシアが二枚の扉を押し開けると、白い壁と床の、窓際に花が生けられた大きな花瓶が二つ置かれているだけの前室がある。左右にまた両開きの扉があり、左側が居間になり、右側に寝室になっていた。
「アスタロト様」
 アーシアが右の扉を叩く。何度か呼びかけたが返事は無い。
「――アスタロト」
 扉の前に立った瞬間、レオアリスは足元から全身を、一つの感覚が這い上がるのを感じた。
 強烈な、圧迫すら覚える存在感。
 扉の向こうに、それが居た。
(――まさか)
 アーシアが把手に手を掛ける。
 その手を止め、何で、と呟き、今度は把手に両手を掛けた。
 レオアリスが視線を落とした先のアーシアの面から血の気が引いていく。
「アーシア?」
「開かないんです――把手が動かない……いつも鍵は掛けてないのに」
 レオアリスは扉の把手を掴んで、手を止めた。ひやりと指先が冷える。
「――」
 力を込めても把手は単なる飾り物のように、ぴくりとも動こうとしない。
「こんなの、絶対におかしい――アスタロト様! アスタロト様?!」
 アーシアの手が激しく扉を叩く、その音さえまるで柔らかい綿に吸い込まれたようだ。
「アスタロト様!」
 レオアリスは一度瞳を伏せて剣の騒めきを聞き、静かに息を吐くと瞳を開けた。
「――アーシア、退ってろ。扉――、結果を斬る」
「――」
 驚いた顔をしたものの、アーシアは何も言わず、廊下の扉の方へと数歩退った。その表に浮かんだ表情は、そこにあるものはレオアリスの剣でなければ断ち切れないと、そう理解していた。
 レオアリスが右手を鳩尾に当てる。青白い光が零れ、室内に落ちる陽光と混ざった。
「何をしている!」
 ふいに廊下から年配の男の怒りに満ちた声が飛び、アーシアははっとして後ろを振り返った。駆け付けたソーントンが開いたままの戸口に立ち止まり、眦を震わせてすぐそこにいたアーシアを睨み付けた。
「アーシア、貴様という奴は、公の覚えをいい事に、恥知らずな……っ」
 打ち据えようと振り下ろされたソーントンの腕を、アーシアの前に割り込んだレオアリスが捉えた。怒りに満ちた眼を正面から見据える。
「ソーントン侯爵。失礼ながら、今はそんな状況ではありません」
「近衛師団大将――、自分が何をしているのか判っているのか?! 幾らアスタロト公のご友人と言えど、無礼が過ぎる」
「ソーントン様、違うんです、これは僕がお願いして」
「貴様は黙っていろ! そもそも貴様にそんな権利は無い!」
 レオアリスはソーントンの腕をぐっと握り、ソーントンの眼が自分に向くのを見てから手を離した。
「ソーントン侯爵。今は状況が違うと申し上げております」
 レオアリスの纏う空気に触れ、ソーントンは一度息を飲み込んだ。レオアリスと正面から向かい合い睨んだが、返す言葉からは先ほどの勢いは失せていた。
「何を戯言を」
「冗談を言ってる暇は全くありません。その扉が開かない」
「――扉? 馬鹿を言うな、この」
 この通り、と把手に手を掛け、ソーントンは狼狽えた。何度か持ち上げようと繰り返し、唖然として口を開ける。
「そんなはずは」
「アスタロト――公爵については、アーシアにしか判らない感覚があります。アーシアが不安を感じているのであれば、何かしら問題があると考えるべきです。今はこの扉を開けた方がいい。絶対に」
 レオアリスが扉へ――扉の向こうへ向けている瞳が刃のような鋭い光を帯びているのに気付き、ソーントンは思わず肩を震わせた。
 剣士としての感覚で、その向こうに何を感じ取っているのか。
「処分については無事を確認した後で、総将アヴァロンへお申し出いただくと――、それでこの場を呑んでいただけませんか」
「――」
 ソーントンの眼がレオアリスと扉の把手を行き来し、やがて重い荷を下ろした時のように息を吐き、頷いた。
「いいだろう――。もしこの向こうに何の問題も無ければ、貴侯には相応の責任を取ってもらう」
 レオアリスは一瞬だけ口元に安堵の色を掠め、扉に向き直った。
 右手が鳩尾に沈み、零れ落ちる青白い光と共に、剣を抜き出す。
「二人は廊下に」
 ソーントンとアーシアは、声に押されたのか剣の纏う空気に押されたのかどちらともつかず、ただ外には出ずに廊下の扉まで後ずさった。
 レオアリスの剣が一閃し、何もない宙を薙ぐ。
 扉を被う何かが断ち切られたのが、ソーントンとアーシアにもはっきりと判った。
 ふいに扉は内側から激しく開き、突風が叩き付けた。
 風はレオアリスの前で、右手に提げた剣に触れて割れるように流れた。
 手前にいたソーントンの身体が突風に押されアーシアにぶつかる。それでも風の勢いを抑えられず、二人の足が床を離れ、それぞれ前室の壁に叩き付けられる。
 アーシアへ手を伸ばしかけて風に押されそうになった足を踏み留め、レオアリスは剣の柄を握り締めたまま、扉の向こうを睨んだ。
 部屋の中央にある寝台の、天蓋から流れる布が音を立ててはためいている。
 寝台の上に、ルシファーの姿があった。
 風が叩き付ける戸口に立つレオアリスを振り返り、ルシファーは唇に柔らかな笑みを浮かべた。
 その右手が、寝台の上に身を起していたアスタロトの手を掴んでいる。
 アスタロトが振り向き、驚きに見開かれた深紅の瞳と視線が合う。
「――レオアリス」
 強い安堵を感じると同時に、憤りが生まれた。
 あの海――、泡の壁を叩きながら父の名を呼ぶユージュの姿と、剣を失ったザイン。
 落ち着け、と自分に言い聞かせ、跳ね上がろうとする剣を抑える。
「西方公――ルシファー」
 低く押し出された声に、ルシファーの笑みが深まった。
 風が渦を巻く。
「アスタロトから手を放せ」





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