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王の剣士 六【紺碧の守護者】

終章 「変転」


 ルシファーは屋根の先端に立ち、自身の館から辺りを見渡した。王都の八方に広がるなだらかな斜形は、彼女の屋敷が建つ位置から、王都西側の全景を眺める事を可能にしてくれている。
 家々の屋根が緩やかな坂を下って街の裾までひしめいている。建物を縫うように入り組み見え隠れする、通りの縦糸と横糸。どこまでも広がっていきそうな建物を堰止める街壁の向こうには、緑豊かな牧草地と畑が連なり、ちょうど大河シメノスが西に向けて流れるその水面みなもの光が見えた。
 この眺めこそ、大戦が終結してから三百年、如何にこの国が順調に発展してきたかを物語っていた。
 辺境部には未だ厳しい暮らしがあるが、辺境部が整えばこの国は益々豊かになる。
「――やっぱり失うとなると惜しくなるものね」
 広がる屋根を見ながらそう呟いた。王都の庭園や公園もこのゆるやかな斜形を生かして造られ、それが遠目には緑の絨毯が敷かれているように見せ、美しい。
 暁の光を湛えた瞳が、空の深さと同様に、遠くまで澄んで街を見渡す。
 まるでこの光景を、瞳の奥に焼き付けておこうと言うような視線だった。
 微かな笑みが唇をほころばせる。
「でも、この都が燃えたら、遠くからでも松明のように見えるでしょう――」
 これから訪れる、暗い世界に燃え盛る松明。
 その時には決して希望ではなく、始まりの狼煙だが。
 ふわりと足が屋根から離れる。
 宙に浮いたまま一度振り返り、そこに聳える王城をじっと見つめ、消えた。



「公はまだお目覚めになられんのか」
 アスタロト公爵家長老会の筆頭ソーントン侯爵は、外套も脱がないまま白く薄い眉を潜めて階上を見上げた。白鳥宮と呼ばれるアスタロト公爵家の本邸三階に、主であるアスタロトの居室がある。
 ソーントンは昨日の夕刻と夜の二回公爵家を訪ねて来て、アスタロトの様子を伺いに三階の居室まで上がっていたが、今は急ぎの用件があり一階の居間で執事のシュセールから話を聞くにとどめた。
「左様でございます」とシュセールが面を伏せる。彼女の冷静な瞳にも、気掛かりな色が隠せず浮かんでいる。
 法術士や医師の見解も昨日から変わりは無く、ただ原因が判らないとそう言うだけだった。
 ソーントンはこの後タウゼンに会い、つい先ほどまで行われていた謁見の結果の報告を受け、その足で法術院院長のアルジマールを訪ねるつもりでいた。事をおおっぴらにするのは避けたいが、アルジマールならばこの状態を解決できるはずだと、そう思えば気持ちも落ち着く。
 浅く腰かけていた絹張りの椅子から立ち上がり、ソーントンはもう一度天井を見上げた。
「――アーシアはどうしている」
 シュセールが瞳を伏せる。
「侯爵のご命令はしっかりと……お傍へは近付いておりませんが、昨日よりずっとアスタロト様の部屋の前に離れずおります」
 シュセールの口調に少し責める響きを聞き取り、ソーントンは眉をしかめたが、何も言わなかった。
 ルシファーの関わりを口にしたアーシアをソーントンが激しく叱責し、アスタロトの傍に近付く事を禁じたのは昨日の事だ。
 アーシアの忠誠は判っているが、さすがにそれはソーントンに飲み込める言葉ではなかった。
「――公が目覚めたら即刻知らせを寄越せ」
「かしこまりました」
 シュセールはソーントンを見送る為、白鳥宮の正面玄関に寄せた馬車へとソーントンを案内すると、馬車寄せの階段下に立ち深く頭を下げた。
 今、ソーントンがアスタロトの部屋の窓を見上げれば或いは、広い露台に降り立つ白い布の閃きを目にしたかもしれない。
 だがソーントンは見上げる事無く、馬車は動き出した。わだちの音が遠ざかり、シュセールや女官達が伏せていた面を上げる。
 シュセールは顎を持ち上げアスタロトの部屋の露台を見つめた。
 彼女の目に映ったのは既に、何の変哲もない大理石の手摺りだけだった。



 ルシファーはふわりと爪先を床に降ろし、硝子戸を後ろ手に閉ざした。ゆるくたわめられて流れる日除け布が微かに揺れた。
 室内を見渡す。
 右の壁際には白い光沢のある優美な化粧台や低い棚が置かれている。その前にやはり白い籐製の長椅子が、気持ちの良い庭園を望む硝子戸に向けて二台、直角に組んで置いてあり、窓からは今、正門へとゆるい弧を描きながら長く延びる道を進んでいくソーントンの馬車が見えた。
 長椅子の前には低い硝子の卓も用意されていた。とはいえ完全に私室であるこの寝室に来客が通る訳ではないだろう。
 ただルシファーだけは何度もここに来て、その都度色々な話をしていた。アスタロトと――、その母である前公爵とも。
 右の壁にある両開きの扉は前室へ続いている。その向こうに人の気配は無かった。
 左側の壁の中央に優雅な天蓋の寝台が置かれ、今は薄く透ける布の覆いが降ろされていた。
 その奥に、眠っているアスタロトの姿が見える。
 ルシファーは瞳を細め、寝台を眺めた。
 アーシアの姿は見当たらない。
 アーシアはルシファーの行為を誰かに告げただろうか。
 きっとそうだろう。だから今、ここにいない。
「あの子を遠ざけるなんて愚かなこと」
 何よりアスタロトに忠実で、命に代えても彼女を守ろうとし、そして彼女を諫めようとする存在をだ。
 ただアーシアは館の中にもいないようだった。
 くすりと笑い、ルシファーは右手を差し伸べるように胸の前に上げると、身体を巡らせながら宙に指先で緩やかに円を描いた。
 室内に風の流れが生まれ、露台への硝子戸や窓、前室への二枚の扉がかたんと微かな音を立てる。
「しばらく邪魔はされたくないものね」
 アスタロトには、選んでもらわなくてはいけない。その為に来たのだ。
 ルシファーは薄い布を手でからげ、弾力のある寝台に腰を降ろした。
 それだけで、アスタロトはあれほど周囲を困惑させた眠りから覚め、閉ざしていた瞳を上げた。
 まだ半分眠りの中にあるのか、霞む深紅の瞳がルシファーを認めて幾度か瞬いた。
「――ファー? どうしたの?」
 ルシファーは微笑みを浮かべた。
「遠くに行くから、それを言いに来たのよ。王都を離れるの。もう帰らないわ」
 アスタロトは瞳を大きく見開き、跳ね起きた。
「どこに――、どうして?! 帰らないって」
 寝台に置かれたルシファーの手を両手でぎゅっと握る。
「嫌だ。嘘でしょ?」
 目覚めたばかりの少女の言葉は、その分偽りのない真っ直ぐな気持ちを伝えてくる。ルシファーは微笑んだ。
 向けられる柔らかい微笑みを見つめ、アスタロトにもそれが冗談ではないのだと悟り、首を振った。
「駄目――ダメだよ、だってファーは西方公じゃない。帰らないなんて。財務院だってあるし、そんなの」
「構いやしないわ。代わりはいるもの」
「代われるわけない、絶対」
「代われるわ」
 それは何かを断ち切ろうとするきっぱりとした響きで、アスタロトは思わず口を閉ざした。
 ルシファーはふっと笑うと、たった今の口調は嘘だったかのように、囁きを柔らかく空気に溶かした。
「変わらないものなんてない――絶対なんてないのよ。想いでさえ簡単に流れていくのだもの」
 唇に笑みを宿したまま、唄うように綴る。「だから行く事にしたの。全て変わる前に」
「――」
 ルシファーの言葉の意味が判らない。
 ただ、まだ眠りの続きにあるように、周囲はふわふわと覚束なかった。
「どうして、行っちゃうの」
 行かないで欲しい。
 今のアスタロトの立場を一番理解してくれるのはルシファーだ。この女性(ひと)がいなくなったら、アスタロトは何を支えにすればいいのか、判らない。
 ルシファーはそんなアスタロトに瞳を落とした。
「あなたはどうする?」
 どうする、の意味が分からずアスタロトはきょとんとしてルシファーを見つめた。
「私と来る――?」
「え……?」
 思いがけない問いに、アスタロトはその言葉を繰り返した。
 ルシファーと……。
 どこへ?
「失いたくないでしょう」
「何のこと……」
 けれどドクリと鼓動が鳴った。
 失う。
 何でこんなに鼓動が早いのだろう。
 何でその言葉がこんなに怖いのか。
「言ったでしょう。王はあなたの想いを認めない。国にとって、あなたの想いは厄介なものでしかないから」
 そこには嘲笑の響きと、一瞬の、ほとばしるような憎しみがあった。
 アスタロトはゆるゆると顔を上げてルシファーを見つめた。もう何がそれを感じさせたのか、一切の影はない。
 彼女の言葉を聞いてはいけないと、心のどこかがごく、微かに、叫んだ。
 それはゆるく柔らかな風に包まれる。
「どうせあなたの想いは引き裂かれる。遠くない日に。だったら、今、私と来た方がいいわ」
「――」
 アスタロトはルシファーへ向けていた瞳を、自分の手元に落とした。
「叶わ、ないんだ……」
 呟いただけなのに、まるで大声で宣言されたように頭の中に響いた。
 判っている。初めから、判っていた。
 王は認めない。
 王は。
 心の奥底に、微かな陰が蠢く。
 ルシファーは柔らかく、ただ一切の可能性など無いというように笑みながら、アスタロトをそっと抱き締めた。
「可哀想にね――でも今のままじゃあどうにもならないわ。想いも、立場も。王がいる限りは。だったらここにいても、ただ辛いだけよ」
 耳の傍で囁く声に眩暈を覚え、アスタロトは瞼をぎゅっと閉じた。風がふわりと寝台の薄布を揺らす。
「ここにいても、王がいる限り、あなたはただ失っていくのを眺めて、傍に居るだけしかできない」
「傍、に」
「でもきっとあなたは、どんなに苦しくても、そこに有り続けようとする。そうでしょう?」
「――」
 ――そうだ。
 居たい。
 ずっと、同じ場所にいられると思っていた。
 そう思っていたのに――それを壊したのは自分だ。
 変わらずにいられたら良かったのに。こうなると判っていたから、変わりたくなかったのに。
 想うだけでこんなにも苦しいのに――
 こんな想いを抱かなければ、ずっといられたのだと、そう思う。

 違う、と誰かが呟いた。

 が、いなければ

「あなたの憂いを取り除いてあげると、私は言ったわ」
 憂い、を
「一つは、忘れること。私にはそれができる」
 風が囁く。アスタロトはびくりと肩を震わせた。
 忘れる――?
「あなたが望むのなら、そうしてあげる。消してあげられるわ、あなたが抱える感情を全て」
 全て。
 アスタロトは無意識のまま首を振った。
(……そんなのイヤだ――)
 どんなに苦しくても、この気持ちを忘れるかと自分に問えば、それはできなかった。
 もし時が戻せたとして、何度あの初めて出会った森から始めて繰り返しても、きっと今ここにいる。
 この想いの中に。
 苦しくて苦しくて――、息が詰まるほど苦しくてもどれほど胸が痛くても、手放すなんてできる訳がない。
 アスタロトの瞳に雄弁に現れた想いを読み取り、ルシファーは笑みを深めた。
「もう一つは」
 実際は、選べるのはただ一つ。差し出す手は。
 既に風は炎を揺らしている。
 その結末も、導くものは一つだ。
 この言葉も。
「私と共に行くこと――」
 ルシファーは瞳を窓の外に投げ、ちらりと笑った。空の向こうを近付いてくる気配。飛竜の。アーシアだ。
 アーシアと。
 唇を細め、ふっと息を吹き付ける。
 瞬間、窓は鏡のように変わり、外の風景を断った。
「ファー?」
 妖しく、見る者を惑わせるような笑みが揺れる。
「さあ――、選びなさい、あなたの欲しい未来を――あなたの望みを」
 窓へ向かいかけたアスタロトの瞳を、囁きが引き戻す。
 アスタロトの手を取り、ルシファーは寝台の上に浮かんだ。
「それは叶うわ――」





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