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王の剣士 六【紺碧の守護者】

終章 「変転」


 ざわざわと揺れる場を見回し、ベールが散会を告げる。
 王が玉座を立ちファルシオンを伴って謁見の間を去った後も、参列者達はまだざわめきながらその場に留まっていた。集中する視線の渦のただ中にルシファーが立っている。
(――とにかく、終わりだ。考えなきゃいけない事が多いな……)
 レオアリスは息を吐き、グランスレイ達のいる方へ歩いてルシファーの斜め前を横切ろうとした。
 視線はやはりルシファーに向く。
 ルシファーは半ば瞳を閉じていたが、レオアリスが通り過ぎる直前に、それを上げた。
「――」
 思わず足が止まる。
 深い、暁の色がレオアリスの瞳の奥に広がった。
 ルシファーの唇が柔らかく動き、笑ったのだと気付いた。
「何故、ザインに私を告発させなかったの?」
「っ」
 ルシファーはレオアリスが息を飲み瞳を見開くのを見つめ、風が草花を揺らすようにその笑みが空気を震わせた。
「選ぶべき時に選ばなきゃ、いつだって簡単に無くなるのに。後悔しても遅いのよ」
「――」
「あなたも、同じ。後悔する前に選ぶべきよ」
 苛立ちや憤りなどとは無縁の、ただ吹き過ぎる風と同じ音。
 貴方は、何を望む――、と。喉の奥にその問いが込み上げる。
 あの青い海の中で、笑っていた。
『永遠など無いのに』
 何故か、哀惜の響きがあった。
 失った者が密やかな悔恨と共に振り返るような。
(何を――)
 望んで。
「私は――」
 微かに風が囁く。

 もう一度選ぶ・・・・・・

「上将?」
 ぐっと肩を引かれ、レオアリスは瞳を瞬かせた。目の前にいるのはロットバルトだ。
 いつの間にかルシファーは謁見の間を後にするところで、見ている間にほっそりとした背中は扉の向こうに消えた。
「――」
 扉が閉まりルシファーの姿が見えなくなると、最後まで参列者達を縛っていた緊張が緩んだ。安堵が広間をゆっくり浸して行く。足元に口を広げていた深く冥い穴を覗き込み、身を引いてから初めて、頭から落ち込みそうになっていた事に気付いたような、そんな安堵に近かった。
「――」
 レオアリスはしばらく扉を見据えていたが、スランザールもまた謁見の間の扉を出ていこうとしているのに気付いて後を追った。
「上将」
「スランザールと話したい」
 疑問だらけだ。何もかも。
『乗るでない』
 スランザールは確実に、核心に近い部分で、何かを知っている。今回のルシファーの意図すら知っているのではないか。
 スランザールは何を避けようとしていたのか。
(避ける――そうだ)
 引っかかっているのはそれだ。
『もう一度、選ぶ』
 レオアリスは廊下へ出て左右を見回し、既に廊下の右奥の階段を昇ろうとしていたスランザールを追いかけた。
「スランザール! 待ってください」
 階段を二、三段上がったところで追い付き、スランザールが振り返る前に老公の正面に回った。壁や天井に施された装飾の重厚さに加え、廊下の窓を差す陽光がここまで届かないせいで、薄暗くスランザールの表情も読み取り難い。
「スランザール」
「何じゃ、騒々しい」
 スランザールが煙に巻く前にレオアリスはその眼をしっかり捉えた。グランスレイとロットバルトがレオアリスを追って来て、階段の下に立ち止まる。
「先ほどの言葉は、どういう意味ですか」
「――何の話かの」
「さっき、乗るなと俺に言ったでしょう」
「上将?」
 レオアリスは一度グランスレイとロットバルトを見たが、また視線をスランザールに戻した。
「貴方は何を知ってるんです」
「知っている事を全て教えるのが正しい行為とは言えん」
「スランザール」
「わしはわしで、状況を見て必要と考える判断をしておる」
 やんわりと、だが取り付く島のない口調でスランザールはレオアリスの追求を退けた。レオアリスは意識してゆっくり息を吐き出した。
「――いつかも、貴方はそう言ったな……。それで、俺が自分で調べるって言ったら、また止めるんですか」
「止める。かつてお前が知った真実には、伏せるだけの理由があったじゃろう」
「――」
「それと根はそう変わらん」
 レオアリスはしばらく言葉を探してスランザールをじっと見つめていたが、瞳を足元に落とした。スランザールは眉の奥からその姿を眺め、階段を一つ上った。
「老公」
 階下のロットバルトがスランザールを呼び止める。
「私も貴方から以前、伏せた事実に関する貴方の見解をお聞きした事がありました。確かに深い理由があり――しかしいずれにしても結局は、何らかの対処を要するものだったはずです。表に現れた以上、それは既に伏せたままにできなくなったものなのではありませんか。だからこそ噴き出したとも言える」
「――考えがまだ若いの」
「スランザール。私には先ほどの西方公の言動は、何かを導こうとしていたように思えました。そして貴方は、それを良しとしなかった。大公やアヴァロン閣下もです」
 レオアリスはロットバルトを見た。ロットバルトがいだいているのも、レオアリスが感じた疑問とさほど変わらない。
(閣下も――。いや、閣下は確かにご存知かもしれない)
 アヴァロンは王に近い。
 レオアリスは瞳を窓の外へ向けた。
(――陛下は、もう既に何かお考えなのか)
 南側の壁にある窓からは眩しい白い光が差し込み、廊下が少し暗いせいか空の色は見えない。
 スランザールはロットバルトとレオアリスを見渡し、口調を改めた。
「良いか。この件に関しては決して、わしの許可無く動くでない」
「――」
 二人が返答を躊躇ったのを見て、スランザールは呆れた様子を隠さない。
「何とも強情な事じゃ」眉をしかめ、グランスレイを見た。
「グランスレイ、そなたなら近衛師団の役割というものを理解していたな。ルシファーに関し、王の下命はあったか」
「――」グランスレイの緑の眼が慎重にレオアリスを捉え、一呼吸置いて首を振った。
「ございません」
「その通り、それが全てじゃ」
 スランザールがどうだと言わんばかりにレオアリスを見下ろす。王の意思を問われては、レオアリスにそれ以上追及のしようもない。
 ただ、もう一つだけ、スランザールに投げかけたかった。
「もう選ぶと」
「? 何じゃ」
「西方公は、もう一度選ぶと、俺に言いました。先ほど」
 スランザールの表情に、確かな変化があった。
「――選ぶ」
 そう言ったのか、と。一言呟き、じっとレオアリスを見つめた後、無言できびすを返した。
「――」
 レオアリスはスランザールの背を見つめたまま、足音が遠ざかるのを意識の端で聞いた。
「上将」
 グランスレイの呼びかけに、レオアリスは瞳を上げた。
「判ってる。陛下のご下命がない限り、俺達が勝手に動く訳には行かない。けど俺は、この件に関しては放っておくべきじゃないと、やっぱりそう思ってる」
「――」
「スランザールは乗るなと言った。西方公の言葉に、という意味だ。ロットバルトがさっき言ったのもそうだ。『何かを導こうとしていた』。それが正解なのかもしれない。じゃあ何だ、それは」
 グランスレイを説得しようというよりは、自分自身の考えを纏めるようにレオアリスは一つ一つ言葉を紡いでいる。
「スランザールはきっと、どこまでも伏せる。だが伏せればいい話なのか? 西方公の考えに、スランザールは気付いている。それを見ているだけでいいのか」
『もう一度選ぶ』
 何をか――、その意図は判らないながら、ルシファーはもう動こうとしている。
「私も、同じ疑問があります」
 そう言ったのはロットバルトではなくグランスレイだ。こうした状況では珍しく踏み込んだ発言に、レオアリスは驚きを覚えてグランスレイを見た。
「放っておいても良いものか――どうしても疑念があります。疑念がある以上、それを解決する為に動くべきです。ただし我々が勝手に動くのではなく、上将から一度、直接王へお尋ねいただくのが良いかと思います」
 普段とは異なるグランスレイの言葉は、この件がただ言われたとおり看過するには問題を孕みすぎている事を端的に示しているとも言える。
 王がその問いに対して答えを示すのかどうかは判らない。ただレオアリスは頷くと、もう一度、スランザールが立ち去った階段の上を見上げてから踵を返した。
 謁見の間の前の長い廊下を戻りながらふと前方を見ると、謁見の間の扉から出てきた東方公がレオアリス達とは反対側へ歩み去るところだ。東方公の姿でアスタロトの事を思い出し、レオアリスは少し足を速めて扉に近付くと、広間を見渡した。既にタウゼン達の姿はない。
「上将?」
 グランスレイが傍に寄り、眉根を寄せたレオアリスの顔を見つめる。
「グランスレイ。殿下がお入りになる前、アスタロトの不在について何か説明はあったか?」
 グランスレイも表情を引き締めた。
「いえ――。この場を欠席されるとだけ、大公からお聞きしました。どのようなご事情かは」
「そうか――」
 後で確かめないと、と思い、この後いつ時間が取れるかと考えながら、最近アスタロトがいつも、元気が無かった事を改めて思い出した。レオアリスに話したい事が何かあったようにも見えた。
 いつも目にする度、後で話をしようと思っていた。
 『後で』――その機会がなかなか無いまま日だけが過ぎている。
 ふ、と視線が過ぎたものを追うように流れた。
(俺は最近、何度も同じ事をやってないか――?)
 漠然としていながら、後悔に近い感情がよぎる。アスタロトとはいつでも会う機会があると思って、甘く考えていたのかもしれない。今までがそうだったからだ。
 アスタロトがいつもふらっと顔を出して、他愛ない話をする。それが当たり前になっていて、今回もその延長のように思っていた。
 けれど改めて考えれば、アスタロトには正規軍将軍としての責務や公爵家の立場がある。そうそう自由にできないのが本来で、今までが少し特殊だったのかもしれない。
「後で――」
 そう言いかけて口を噤む。後で、では駄目だ。「いや、昼にでも館を訪ねてみるか。アーシアがいれば詳しい話を聞けるだろう」



 ハヤテの銀鱗の翼が空を切る。
 王城の厩舎を出たハヤテは、解き放たれた喜びを現わすように翼を震わせた。
 ハヤテの手綱を取りながら、レガージュの空をもっと駆けたかったのかもしれないな、とレオアリスは笑った。
 街の時計塔を見下ろすと、朝の九刻を回った頃だった。もう既に街には活気が溢れている。大通りには露店が左右に並び、道を行き交う人々も途切れる事が無い。レガージュの街とはまた違う、だが引けを取らない賑やかさだ。
 途切れない活気に耳を傾け、遠い西の果てのレガージュを思い起こすように真っ直ぐ西を見つめていたレオアリスの周囲が、さっと陰った。
「上将」
 振り仰いだ視界に、上空の太陽を遮るように飛ぶ青い飛竜が映る。
「アーシア?」
 アーシアだ。碧玉を連ねた鱗の飛竜は王都にアーシアしかいない。
(アスタロト――?)
 謁見を欠席したアスタロトが何故ここにいるのかと、驚いてハヤテの速度を緩めた。アーシアが翼を撓ませ、急降下してハヤテに近付く。
 隣に並んだその背に目を向け、レオアリスはもう一度驚いた。
 アーシアの背は空だ。
 どうしたのかと問う前に、ハヤテに並んだアーシアの青い瞳がレオアリスを捉えた。並行して飛びながら、何かを訴えるように瞳が瞬く。
「……何かあったのか?」
 人の姿を取っている時のように会話はできず、アーシアは訴えかける色を瞳に宿したままハヤテの前へと出た。
 ロットバルトはグランスレイと視線を交わし、グランスレイの上にも強い懸念が浮かんでいるのを認めた。
 通常飛竜を駆る時、下位の者が上位の相手に対し、上空から寄せる事はない。アスタロトを乗せている時とは違い、アーシアの性格でアスタロトが乗っていない時にそうした行動を取るとは思えなかった。
 ずっと上空でレオアリスを待っていて、その姿を見つけて懸命に近寄ってきたように見える。何か、アーシアがそうした事すら意識できないほどの何かがあるのか――謁見を欠席した事に関係があるのかと、レオアリスも、ロットバルトやグランスレイもやはりそう思った。
 近衛師団の士官棟に戻る道行きだがアーシアはレオアリス達を導くように飛び、第一大隊の士官棟が見えてくると先に速度を上げた。
 地面に追突しそうなほどの勢いで士官棟の前庭に降りる。飛竜の姿が揺らいで消え、緑の芝の上に立った少年がレオアリスを見上げる。
「――」
 レオアリスも厩舎ではなく士官棟の前庭の芝にハヤテを降ろした。ハヤテの背から降りるのも待ちきれないように、アーシアの声が飛んだ。
「レオアリスさん!」
 予想していたよりもずっと、切羽詰まった響きだった。レオアリスへ駆け寄ろうとして、どうしてか、数歩前へ出てたたらを踏んだ。心の内に葛藤があり、それが外に現れたようだった。
「――」
 訝しみながらレオアリスが近寄る間、アーシアは士官棟を背にして立ち、身体の脇で両手を固く握り締めてレオアリスへ視線を向けていた。その様子がレオアリスの心に強い不安を差し込む。
「どうしたんだ」
 傍に来ると、アーシアの顔は青ざめ、焦燥が浮かんでいるのが判った。いつも穏やかな彼がそんな状態になる、たった一つの理由をレオアリスは知っていた。
 アスタロトが関わる時だ。
 やはり、と思うと同時に、鼓動が音を立てるのを感じた。
 目の前に来たレオアリスへと、アーシアは不安と焦燥に満ちた瞳を向け、頭を下げた。
「すみません、本当に、失礼な事をして――」
「どうしたんだ。何かあったのか」
 もう一度問うと、持ち上げたアーシアの面にようやく、そして強い安堵が宿った。
「アスタロト様が――」
 勢い込んでそう口にする。
「アスタロトが、どうしたんだ」
 唐突に、アーシアは瞳を瞬かせ、ぐっと息を詰めた。
 今気付いたと言うように、うろたえた目でレオアリスと、後ろに立つグランスレイとロットバルトを見回す。二人もレオアリスと同様に、アーシアへ問いかけるような瞳を向けている。
「アーシア?」
「――」
 強い後悔がアーシアの中に生まれていた。アスタロト公爵家長老会の筆頭であるソーントン侯爵はアーシアの言葉に聞く耳をもたず、発言そのものを不届きなものと断じた。
 ソーントンがそう言う理由はアーシアにも判っている。
 この国を支える四大公爵家の一人を疑うなど――。ましてやルシファーはアスタロトが姉とも慕う相手だ。
 けれどアスタロトはまだ眠ったままだ。もう丸一日になろうとしているのに、目を覚ます気配は依然として無かった。
 不安で、レオアリスが帰還したと聞いて矢も盾もたまらず飛び出して来てしまったが、アーシアでさえ確信が持てないものをレオアリスに言うべきなのか――、何を言うべきなのかと、そうした思いが急速にアーシアの中に膨れ上がっていた。
 レオアリスなら信じてくれる。少なくとも頭から否定したりしない。
 でもじゃあ、信じてくれたレオアリスに、自分は何をしてくれと言うつもりだっのだろうと、アーシアは今更ながらに逡巡した。
 公爵であり、財務院の長であるこの国の実力者に対して――?
 駄目だ、とアーシアは呟いた。胃の奧が冷えるような恐ろしさを感じた。
 レオアリスに迷惑が掛かる。
 そんな事をできる訳が無い、と
「アーシア」
 レオアリスははっきりと彼の名を呼び、引き寄せられるようにアーシアはレオアリスを見た。レオアリスはアーシアを真っ直ぐ見据えている。
「何かあったんだろう。それで俺を頼ってくれたんじゃないのか」
「――」
 まだ迷うアーシアを見て、レオアリスは笑った。いつか、二人で暗く深い洞窟を降りて行った時のように。
「お前も知ってんだろ、今更――」
 立っている場所は変わっても、あの時にあったものは変わらない。そしてこの四年間でそれ以上に培ってきた。
「俺がアスタロトやお前の為に、何もしない訳が無い」
「――ア、」
 レオアリスが見つめる前で、アーシアの瞳に涙が湧き上がり、頬を零れた。それまで一人不安に耐えていたものが、一気に堰を切って流れたようだった。
 アーシアは自分が涙を零している事も気付いていない様子で、懸命に声を振り絞った。
「アスタロト様を、助けてください――!」





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