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王の剣士 六【紺碧の守護者】

終章 「変転」


 西の水平線に太陽が落ち、最後に放つ朱色の輝きと濃灰の雲の影、既に世界の大半を覆いつくしている藍色とが、海と空とに入り交じる。
 夕闇が濃くなるにつれ、フィオリ・アル・レガージュの街は賑やかさを増していた。
 ファルシオンとマリ王国提督メネゼスとの会談の結果が街に流れると、それまで不安を残していた住民達の間に今度こそ心からの喜びが広がった。報せはたちまち街中を駆け抜け、住民達は店だけではなく路上に机や椅子を持ち出すとあちこちで祝杯を上げた。さかずきが掲げられる度、ファルシオンの名やザインの名を讃える声が交わされる。
 レオアリスは港を見渡す位置に建つ、レガージュ交易組合会館の三階の窓から街を眺めていた。
 その光景はつい先日過ぎたばかりの、ファルシオンの祝祭日の賑やかさにも似ていた。たった十日ほど、正確には八日しか経っていないのに、あれはまるで何年も前の、ずっと過去の事のように感じられる。
 そしてまた、今喜びに沸いている街の人々が、ザインが剣を失った事を知ったらどう感じるのか――、そんな事を思いながら、レオアリスは長い間賑やかな街の灯りにじっと瞳を向けていた。
 路地に点る街灯や窓の灯りが視界の奥で瞬く。
 時間を巻き戻す。
 あの海――右腕の剣を失い、血を流して倒れているザインと、父親に縋りつくユージュ。ユージュの燃えるような憎しみと怒りを宿した瞳。
 その先にあるヴェパールの姿。
 そして、笑い声。 彼女・・の姿は、一切見えなかった。
 たが、あの時あの場の全てを操っていたのは、紛れもなくあの存在だ。事態を振り返った今、それは改めて良く見える。
(――)
 扉が叩かれ、かちりと金具の回転する音を立てて開く。
「失礼します――」
 ロットバルトはまだ街へ視線を落としているレオアリスの近くまで来ると、その傍らの寝台に眼を向けた。
「殿下は良くお休みですね」
 寝台にはファルシオンがぐっすりと眠っている。一日の疲れが出たのだろう、会談が終わってこの部屋に入るくらいにはもう眠そうで、うとうととしていた。レオアリスもファルシオンの姿を見て笑い、それから寝台の傍を離れた。
「ああ。お疲れなんだろう。こうして眠っておいでだとやっぱり歳相応だな。さっきまでマリ海軍の提督と向かい合ってたなんて思えない」
 窓側に置かれていた椅子を引いて腰かける。ロットバルトはその場に立ったまま向きを変え、レオアリスと向かい合った。
「海上でも、だいぶ力をお使いになったようだし」
 その時ですら、レオアリスはファルシオンの傍にいなかった。
 苦々しい想いを抑えるように卓に肘をついて、額に手をあてる。湧き上がった感情を飲み込み、視線をロットバルトの上に置いた。
「――どんな感じだ」
「街はここから眺める以上に賑やかです。何人かにざっと歩かせて声を拾った中では、今回の結末に安堵している声が強いと思われます。とは言えそもそもの原因や、マリ海軍が寄せた段階で充分な説明が無かった事など、途中の混乱に不満や不安を抱く者も当然ながらいるようですが」
「そうか――ならここを発つ際に、殿下にお言葉をかけて頂くか」
「そうして頂くのが良いかと。後は交易組合の仕事でしょう。まあそれほど心配は無いと思います」
 レオアリスは頷き、それからロットバルトが表情を改めたのに気付き、椅子の上で身体を起した。
「取り敢えず、今の段階で一番話題に上っているのはザインについてです。……剣を失った事は、やはり」
 その言葉につられるように、レオアリスは視線を窓の外に投げた。座った姿勢だと陽が落ちて濃い藍に変わった空しか見えないが、街の賑わいは硝子を通して聞こえてくる。
 藍色の空はずっと奥まで澄んでいるように思えた。
「――もう知ってるのか……」
 ザインが、剣を失った事を、この賑やかな街は。
「港に降りた時、既にかなりの人数が集まっていましたからね。どうしても目に付きますし、隠しようが無い。まあ隠してもいい事はありません。彼が自分で説明する機会は別に設けるでしょうが」
 ロットバルトも窓の外へ瞳を向ける。時折聞こえる騒めきの中の、ザインを讃える声。
「知ってるのか――彼等は」
 レオアリスはもう一度、驚いた声で呟いた。
 自分達の守護者が剣を失った事を知りながら、ああして彼の名を讃えている。
 ゆっくり、指先から温かさが昇って来るように思えた。
 安心、したからだろう。
 ザインが生きてこの街に戻ってくれて、本当に良かったと思った。
 その想いを読んだように、ちょうどロットバルトが言った。
「彼等にとっては守護者がどうという問題よりは、ザインが生きて戻った事の方が重要な事のようですね」
「守護者か――、偶像みたいに崇められてるのかと思ったけど、家族みたいな感じなのかもな」
「家族ですか」 ロットバルトは問いかけるようにそう言って、賑やかな街を眺めた。
「それと、ユージュが剣士として覚醒しその上成長したと聞いて、それはかなり衝撃的だったようです。会館の前は二人の話が聞きたくて人だかりですよ」
「あれは俺も驚いた。覚醒もそうだけど目の前で成長したからな――大体判ってたか、ユージュが女の子だって」
「どちらか気にして眺めはしませんでしたが、女の子だと言われて驚くほどでも無いのでは?」
 ロットバルトが同じように驚かなかった事に、レオアリスは物足りなさを覚えた。
「それはお前が現場を見てないからだろ。普通驚くぜ」
 だいぶ真剣な口調でそう言って、話が逸れかけていると気が付き、改めるように足を組んだ。
「まあいいや。――領事は」
「今はこの建物の一室に入れています」
「どうするか、扱いが難しいな」
 ロットバルトも頷いた。
「本来ならホースエント子爵は王都へ連行し、共謀の供述を取った上で処分を決定すべきですが、そうなると西海の関わりを公的に認める事になる。スランザール公のご判断がどうか」
「難しい事ばかりか」
 どことなく、弱音のように響いたかもしれない。ロットバルトの瞳が伺うようにレオアリスに向けられる。
 最大の問題がどこにあるか、それは先ほどのファルシオンとメネゼスとの会談で、もはや判っている。
 後は口に出すか出さないか――、公的に認めるか、認めないか。
 それだけだ。そしてそれが一番難しい。
「――」
 ファルシオンは眠っている。その横顔は安らかだ。
 ファルシオンは彼女と、普段どれほど親しくしているだろう。レオアリスはそこについては良く知らない。
 ただ、親しくしていたら、ファルシオンは傷付くに違いない。
(親しいというなら、アスタロトの方か)
 アスタロトは彼女を姉のように慕っていたはずだ。それを考えると更に気が重い。
(俺は直接姿を見た訳じゃない。何の証拠もなければ証明しようがない。気のせいだと言われればそれまでだ)
 それで、仕方ないのではないか――。
 一瞬逃げかけた思考を、ザインの声がとどめた。
『俺は会って、直接話もした』
 ザインが見ている。明白な証拠だ。
『放っておけば、必ず身の内から肉を食い荒らす』
 胃に石を詰め込んだように、ずっしりと重く感じられる。
(放っておけば――? 今回何らかの目的があって関わって、この先何かをしようと思ってるって?)
 何の目的で。
(国を――、王を支える四大公爵家の一人だ。そんなはずは)
 そう思う傍から疑問が次々湧いてくる。
 ディノ・メネゼスを助けたのは彼女だと、ロットバルトはそう推測した。
 彼を助けたのは何の為か。結果、彼の存在がメネゼスの疑惑を解いたのは事実だ。
 ヴェパールの策略を暴き、マリの疑惑を解く為に?
 では、ザインを助け、そうしていながらヴェパールに助力する真似をしたのは何の為か――。レオアリスの動きを封じ、ユージュを捉え、ザインを助けるふりをして途中で手のひらを返した。
 ヴェパールを手にかけたのは。
 ヴェパールは彼女を知っていた。それどころか裏切ったと、そう言った。
(じゃあ、西海の目論見を知って、それを崩そうとしたのか――?)
 けれどヴェパールの策略を暴きマリの誤解を解くのなら、会見の場で話せばそれが一番真っ当な方法だ。何故それをしなかったのか。
(――)
 天秤はどちらに傾いているのだろう。
 付きまとうのは常に奇妙な座りの悪い違和感だ。どこに目的があるのか判らない。判らないから判断が難しく、動きが取りにくい。
(でも、どこかで判断をする必要があるんだ)
 ずぶずぶと知らぬ間に、底なしの沼にはまって身動きが取れなくなる前に。
 曇天に澄んだ鈴の音が響くように、ふと、一つの声が脳裏に甦った。
『王の剣士――』
 ファルシオンの祝賀の夜に、エアリディアルが告げた言葉だ。あの時、妙に、心に引っ掛かった。王女が近衛師団へ掛ける儀礼上の言葉でありながら、どこか別の、何かの意志が感じられた。
『その剣を以って、王の御身を、お護りくださいますよう』
 鼓動が鳴る。剣が鳴ったのだ。
 レオアリスは剣に意識を向けた。
(考え過ぎだ――)
 そう思うのと裏腹に、剣が鳴る。
『わたくしはほんの少しだけ、相手が何を考えていらっしゃるか、想像するのが上手いのです』
(――)
 エアリディアルの意図は。
 何を考えている、とは――、特定の誰かの事を差していたのか。
『王の御身を』
 王――。
 レオアリスは双眸に光を宿し、それを上げた。
 確証は無い。ルシファー・・・・・に何らかの害意があるとも、エアリディアルの言葉に意図があるとも。
 そして、王やその周辺に、問題を引き起こさないという確証もまた、無い。
 ただ一つ判っている事が確実にある。
 自分がここ・・にいるのは何の為か。
 近衛師団の担う役割は。
(それにこんな仮定の話、多分今のこの状況でしかできない)
 王都へ帰ったら、今度は思考すら避けてしまう気がする。それが一番、陥ってはいけないものだと思った。
「上将?」
 長い事黙っていたレオアリスが何かを決意したように瞳を上げたのを見て、ロットバルトは眉を寄せた。レオアリスは立ち上がり、一度ファルシオンの眠っている姿を確認した。
 ファルシオンに届かないほどの抑えた声で、だが素早く口にする。
「西方公に踏み込む」
「――それは」
 ロットバルトは常に冷静な瞳の上に、初めて見せるほどの懸念の色を浮かべた。束の間レオアリスの瞳の奥を覗き込むように見つめた後、ゆっくりとした口調で返した。
「早計です。お考えはあるのでしょうが、簡単に踏み込める相手ではありません」
「判ってる――」
 反対するのが当然だ。
 だがロットバルトは早計と言い、簡単には踏み込めないと、そう言った。否定ではないのは、ロットバルト自身、疑念があるからだろう。
「海中でヴェパールと対峙した時、もう一人あの場に関わった存在があった。さっきの会談で話が出たな」
 ロットバルトは黙って聞いている。
「あの時も言った通り、俺は姿を見た訳じゃない。ただ、幾つか思い当たる事がある」
 あの口調、身を包んでいた空気の膜。
『もう、判っているんじゃないの?』
 笑みを含んだ問い。
 ロットバルトが示したルシファーの関わり。
「踏み込むと言ったって、いきなり尋問するつもりはない。公爵相手に出来る訳も無いしな。ただ、可能な範囲で意図を探っておきたい」
 まだ黙っているロットバルトの瞳を見返す。
「疑問がある以上、それがどんな些細なものでも無視はできない。そうだろう」
 ロットバルトはゆっくり息を吐いた。
「お考えそのものには賛成です。しかし可能な範囲で意図を探るという、その範囲が無いに等しいのが現実でしょう。それはどうお考えですか」
「一度お会いして、話したい。話す中で掴めるかもしれないだろう」
「無茶を言わないでください」
 隠すつもりの一切無い呆れた声が返る。
「尋ね方がどうという問題ではありません。お解りになるはずだ」
 ロットバルトは息を吐いて続けた。
「貴方の推測が当たっているなら尚更、面会を申し入れるだけで警戒されるでしょう。西方公はこれまでの相手とは全く違います。一言知らないと言えばそれが通る。揉み消すのも簡単な話だ。それが例え――、近衛師団大将であり王の剣士と呼ばれる、貴方であってもです」
「それは隠すつもりがあればってのが前提だろう。俺にはその意図は見えなかった。ザインさんに姿を見せている時点で、バレたってどうでもいいんだ。その方が問題じゃないか」
「――」
「何を考えての行動か判らないが、会って話をすれば牽制になる。肝心なのはこれ以上問題を広げない事だ」
 ふいに扉を叩く音が割って入り、レオアリスもロットバルトも口をつぐんだ。
「上将」
 グランスレイが扉を開けるとスランザールを先に通し、自分も室内に入る。最後にフレイザーが入って扉を閉ざした。
 レオアリスはおそらく今、この問題の一番の判断権を持っている老賢者の顔をみつめた。
 スランザールがレオアリスの表情へと、じっと皺の奥の小さな眼を向けてくる。レオアリスの考えを見抜いているように思えたが、レオアリスはスランザールの視線を避け、まずは老賢者の隣を抜けて歩み寄るグランスレイを見た。
「法術院へは伝令使を送りました。すぐ返信があるでしょう」
「今晩中に発てそうか?」
 尋ねたレオアリスの上からは、たった今までの剣呑な空気はひとまず拭い去られている。
「今のところはっきりとは申し上げられませんが、要望はしております」
「アルジマール院長がこっちにいる訳じゃないからな。王都から法陣を操るとなると、時間はかかっても仕方ない」
 そう言いながらも軽く息を吐く。一刻も早く王都へ戻りたいのが本音だ。
「取り敢えず待つしかないな……。その間に一度、ザインさんとユージュの様子を見て来るか。確かめたい事もある」
「レオアリス」
 スランザールは低い声でレオアリスを呼んだ。そこには普段とは違う、刃を含んだ鋭さがあった。
「先ほどの会談の折り、ザインが言いかけた事があったはず。それについて話がある」
 しまったと思ったのは、昼にロットバルトがルシファーの関わりを指摘した時のスランザールの判断が曖昧だったからだ。スランザールと話す前にもう少し方針を固めたかったが、それを諦めてレオアリスはスランザールの前に立った。
「関わっていた人物――そなたにはその目星がついているのじゃろう」
 口調はどことなく詰問に近く、スランザールがどういう意図で尋ねているかが見えずに、束の間迷ってロットバルトと視線を交わした。ロットバルトもまだレオアリスの考えに賛成した訳ではなく、瞳には懸念の色がある。
 ただレオアリスはすぐにスランザールを見つめ、頷き返した。
「ついています」
「誰と思う」
「西方公です」
「上将――滅多な事を」
 思わずグランスレイが咎めるように口にした。フレイザーは頬を強張らせ、じっとレオアリスを見ている。
「俺のは推測の域を出ませんが、ザインさんは直接会っています」
「上将、お待ちください」
「俺は事実を確かめる必要があると考えています。危険か、危険ではないのか、それを見極めるべきだと。我々は今回の件を解決する為にこのレガージュに派遣されています。そこで起こった事を見なかった事にはできません。王にご報告申し上げる責務があります」
 グランスレイはレオアリスの表情を見て、まだ強い懸念を残しながらも一歩後ろへ下がった。
 皺の刻まれた額を更に険しい皺で埋め、それを憂うようにスランザールは息を吐いた。
「そなたが言及すれば、必ずそなたに問題が降り掛かろう」
 その言い方に、ロットバルトは眉を顰めてスランザールを見た。レオアリスの疑念を肯定しているのような言い方だ。
(いや……もともと老公は何かを知っていた。知っていたのか、想定していたのか……)
 レオアリスは真っ直ぐスランザールの瞳と向かい合っている。
「それは――覚悟の上です。無傷で踏み込める相手じゃない」
「そなたの地位も無事ではすまんぞ」
 レオアリスは一度ファルシオンを見て、更に声を落とした。
「――元から今回の一件で、処分を受けるつもりです。謹慎か、――降格か」
「上将」
 フレイザーが狼狽えた声を零す。レオアリスは微かな自嘲を浮かべた。
「当然あると思ってる。殿下の傍に立たず、ヴェパールの死も見過ごしたからな」
「それは状況がそうなったというだけで、副将やロットバルトも殿下のお傍にはおりました。我々も殿下をお護りするという任務は変わりません。今回もその役目を果たしていると思っています。それに三の戟については、上将が手を下した訳じゃあないんですから、そんな」
 フレイザーは矢継ぎ早にそう言ったが、王都に戻って報告を上げた時、西海の件は抜きにしても反発や批判が出るのは想像が付いた。
「――」
 スランザールは白く長い髯を撫で、じろりとレオアリスを見た。
「まあ喰らっても謹慎ぐらいじゃわい。だが西方公に嫌疑をかければ、降格でも済むまい」
「それでも、確認する必要はあると思っています。当然何もない可能性も充分ありえますし、何もないと判ればそれが一番です」
「――」
 街の喧騒が硝子窓を通して聞こえてくる。今はそれに楽曲の調べも加わったようだ。
 硝子一枚を隔てただけの温度差に、フレイザーは張り詰めた頬のままレオアリスとスランザールを見比べた。
「スランザール」レオアリスは黙っている老賢者へ、訴えるように続けた。
「預けよと仰るならそれに従います。ですが、無かった事にはしないと、約束してください」
 それでもスランザールはじっと黙っていたが、やがてゆっくりと、肺の中の空気を全て吐き出すように長い溜息をついた。
「――約束はしよう。だがわしが指示をするまでそなたは迂闊に動くでない。いいな」
 レオアリスはスランザールの瞳をじっと見つめて、頷いた。





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