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王の剣士 六【紺碧の守護者】

終章 「変転」


 ずっと自分を包み込んでくれていた温かい気配が、離れていく。
 それが誰かはっきりと判らないまま、遠ざかる気配をユージュは懸命に追った。


 (どこへ行くの……)


 どうして、行ってしまうのだろう。
(行かないで)
 心に突き刺すような恐怖を感じた。
 ユージュを、置いて行く。
 行ってしまう。
(いやだ、いかないで!)


 霞のかかった意識の中に面影が浮かぶ。
 (――父さん!)
 それはすぐにはっきりとした輪郭を纏った。




 白い泡が次々と、止まる事を知らないように、身体の周りを上がっていた。
 その向こうに、父の姿が揺れる。
(父さん!)
 ユージュは身を包む泡の膜を必死で叩いた。
(止めて――嫌だよ、止めてよ)
 どれほど叫んでも、まるで何も聞こえていないかのようだ。
 戟が容赦なく父の身を傷付ける。
 血が流れる。
(ボクの事なんていいから――)
 鋭い牙が並んだ顎が父の腕に喰らいつき、腕を――剣を、食い千切る。
 耳がわんと鳴った。耐え難い騒音が周囲に満ちていて、意識が霞みそうだった。
 騒音が自分の悲鳴だと気付く。
 泡の檻に反響し、幾重にも重なって取り巻いた。
(父さん―― !)
 ユージュのせいで、傷を負って。


 剣を失って。


 血が流れ、次第に冷たくなっていく父の身体が、縋り付いた手のひらや腕に感じられた。
 恐怖が湧き上がる。


 行ってしまう――。
 いつもそう望んでいたように――。ユージュを置いて。


 いつもいつも、ユージュではない別の所を見ていた。


 遠ざかる。
 手を伸ばそうとしても、掴めなかった。



(父さん―― ! 置いて行かないで――)




「父さん―― !」
 懸命に伸ばした手が何も掴まず、心臓がたちまち凍り付いた。
(いなくなっちゃった――ああ)
 恐怖が全身を覆いかけた時、傍らから伸びた手が、空だった手をしっかりと掴んだ。
「ユージュ」
 父の声ではなく、ただ、ユージュはその声を良く知っていた。
 恐怖がゆっくりと引いていく。
 何故だろうと思う前に、もう一度声がかかった。
「目が覚めたな、良かった。すぐザインさんも戻るから」
 ユージュはとたんに飛び起きた。
「父さん?!」
 この場がどこだか意識する暇もなく首を巡らせ、そうしながら転がるように寝台から降りた。足がもつれて木の床に膝を打ち、誰かの腕に引き起こされたが、寝台を降りた事も自分では判っていなかった。意識を占めているのはたった一つだ。
「ユージュ、まだ動くのは」
 彷徨わせた視界に父の姿が無い。
(父さん――)
 いない。
 いない――どこにも。
 行ってしまった。
「――っ」
 絶望が膨れ上がった時、かちりと音を立て扉が開いた。同時にふわりと温かな気配が身体を包む。
 それまで凍り付いていた血が、全身を巡るような気がした。
「ユージュ?」
 父の声だ。
 ザインは扉の前に立ち、驚いた顔でユージュを見つめ――その面に深い喜びを広げた。
「気が付いたのか」
「――父さん!」
 ユージュは父が傍に寄るのももどかしく駆け寄って飛び付き、背中にぎゅっと腕を回した。腕にちゃんと感触がある。夢でも幻でもない。
「……良かった――、生きてるよね、生きてるでしょ?」
「ああ、生きてるよ。――ここにいる」 ザインはユージュの身体を包み込むように抱き締めた。その温もりがゆっくりと伝わる。
 現実だ、とユージュは噛み締めるように呟いた。
「心配をかけて、悪かった」
 その一言で、安堵が心いっぱいに広がっていく。怖い思いをさせて、悪かったな、ともう一度ザインはそう言ってユージュの頭を撫でた。
「父さん――」
 父を呼び、肺に溜まっていた息を全部、吐き出した。
「良かった……死んじゃったかと、思――」
 そう口にした途端、それまで隠れていた恐怖や不安も全部どっと湧き上がってきて、次の瞬間には堰を切ったように嗚咽が溢れた。
 嗚咽は押さえようとしても全く言う事を聞かず、どんどんと溢れてユージュは泣きじゃくった。子供みたいで恥ずかしいのに、どうしても止まらない。
 ユージュが泣いている間ザインはずっと、ユージュの背中をあやすように叩いていた。
 左手だけで――。
 それに気付いて、ユージュは息を止めた。
 どうして失われたか、ユージュは全部覚えている。
 左手だけで慈しむように背に触れる、その事が悲しい。
(父さん――)
 ユージュは父の右腕にそっと触れた。背中をあやす手は止まったが、その分抱き締める力が強くなる。大した問題ではないのだと、そう言うようだ。
 再び嗚咽が込み上げる。
「ユージュ」
 再び、ザインはユージュの背を叩いた。
 問題がない訳が無い。
 剣士にとって、剣は存在そのものだ。それを失って――
「ユージュ。お前が無事で良かった。生きていてくれて」
 それだけでいいと、そう言う。
(ボクは)
 強い思いが、ぽつりと心の中に浮かんだ。今のユージュにとってそれは、何より強い意志だった。
(ボクが――、ボクが父さんの腕になるんだ)
 母の分も傍にいて、もう眠ったりしない。
 しばらくは誰も何も言わず、ユージュの泣きじゃくる声だけが部屋の中に聞こえていたが、やがてそれも小さくなり、最後はそっと零した溜息の中に紛れた。
 手の甲で濡れた目元を拭い、泣いた事への気恥ずかしさに少し顔を反らせ、唇を尖らせる。
「――ホントに、心配したよ。子供に心配かけないでって、いっつも言ってるじゃないか。いつもすぐ忘れちゃうんだから」
 そう言いながらユージュは父の顔を見上げた。何だろう。ちょっと違和感があった。いつもより何だか少し、父との距離が近い。
「悪かった」
 ただザインからは本当に反省している様子が伝わって、ユージュはそれで満足そうに頷いた。
「――いいよ、許してあげる。大体ボクの方が父さんより大人だからね」
 澄ました口調でそう言って、ユージュはザインから離れた。その拍子に長い黒髪が腕に落ちかかる。くすぐったい。
「?」
 見慣れない腕だと思い、何故見慣れないのかとしばらくあちこち眺めていて、思い当たった。少し、長いんじゃないか。手のひらも。
(えっと、これって、大きい――?)
 顔を巡らせるとまた髪の毛が揺れる。そう言えば何だか、頭が重い。
「ヘンだなぁ、何だろ」
 手を上げて髪に触れ、ユージュは首を傾げた。
「父さん、ボク髪の毛長かったっけ。眠ってる間に伸びたのかしら」
「――」 戸惑いに満ちた沈黙の後、ザインは曖昧な事を言った。
「いや、長くなったかもしれないが――まあそれほど変わらないと」
「ザインさん……」
 ちゃんと言わないと駄目ですよ、と呆れた声がかかる。ユージュは振り返り、そう言ったレオアリスを見た。
「あなたは――」
 そういえばさっき、声を掛けてくれた。
 レオアリスの姿を目にしたら、何故か、やはり何も判らない内に、すごく安心した。
 それから、どこかで鼓動が鳴る。
 温かくて、少し呼吸が苦しいような。
 思わず視線を反らせるとその先の右側の壁に鏡が掛かっていて、そこに映った人の姿に眼を瞠り、ユージュは部屋を見回した。十六、七くらいの娘がいる。
 黒い波打つ髪が腰の辺りまでかかり、手足はほっそりして長い。
 けれど振り返るとどこにもいない。
 いないのにまだ鏡に映っている。ユージュが見つめると相手も見つめてくる。
 何となく、見た事があるような気もする。
「ユージュ?」 ザインが何故か少し困った口調でユージュを呼ぶ。ユージュは鏡を指差した。
「あの人誰?」
「いや――ええと」
 ザインの視線がレオアリスの上に彷徨う。
「俺に振られても困るよ」
 レオアリスが苦笑しつつ手を振ると援助を求めるザインの視線はロットバルトにまで向いたが、さすがに意を決したのか、再びユージュと向き合った。
「それは、」
 父はどうして困っているのだろうと、ユージュは不思議に思いながら鏡に近寄った。鏡の向こうで少女も、不思議そうな顔をして近寄ってくる。
「――これ」
 ユージュが鏡に手を伸ばすと鏡の少女も手を伸ばし、冷たい硝子の表面で指先がぴたりと合った。
 何で合うんだろう、と先ず思った。
 束の間の沈黙の後、ユージュの瞳と口がみるみる丸く開いた。ザインが息を詰める。
「……わ……、わー! わー! わぁああ!! だ、だ、誰っ、だ、誰これ!! 誰?!」
 両手で頭や顔や身体をばちばちと叩きながら、ぐるりと振り返った。「と、父さん―― !」
「ユージュ」
「どうしよう、父さん、ボクがいない?!」
 ザインがユージュの肩に手を置く。
「ユージュ、落ち着いて――。お前は成長したんだ」
「成長? せ――」
 繰り返して、それからユージュはぺたりと床に座り込んだ。
「成長……」
「そうだ。――お前の剣が覚醒して、そのせいで成長したんだ。俺にも正確な事は言ってやれないが、おそらく剣の負荷が少ない年齢まで、取り敢えず身体を合わせたんだろう」
 剣の発現を抑える為に、幼い姿を保ち続けていたように。
 その全てが自分に原因があるのだと、ザインは厳しい面持ちで左の拳を握り締めた。
 身体の半分に流れる剣士の血――そんなものがユージュの人生に、一体どれほどの影響をもたらしたのだろう。
 この先も剣に縛られる。
 それは剣士としての喜びなどではなく単にユージュを苦しめるだけではないのかと、苦い後悔が浮かぶ。
「剣――」
 ユージュが茫然と呟き、ザインが視線を床に落として俯いた時、レオアリスがユージュの傍らに膝をついた。
「ここに、剣がある」 ユージュの右腕に、レオアリスは手を置いた。つられるようにユージュの視線も自分の右腕に落ちる。
「ユージュの父さんと、同じ剣だ」
「――父さん、と」
 置かれた手の温もりがユージュの中に広がる。それに覚えがあった。
 頭の奥に、朧気な記憶が甦る。
 痛くて、苦しくて、怖い。色々なものが一緒くたになって身体の中と外を渦巻いている感じだった。
 あれが覚醒だろうか。
 自分の剣なのに、ユージュの腕を引き千切って、相手を切り裂こうとしていた。その怒りと、上手く言えないけれど、引き千切られても全然構わないという思いがユージュ自身にあった。
 でも、誰かが語りかける声が聞こえた。
 冷えた刃に温もりが伝わる。ユージュの剣が傷つけて血を流していたのに、その温もりが、腕が壊れそうなほどの痛みと、胸の奥で暴れて苦しくて堪らなかった塊を、解(ほど)いていった。
 ユージュは右腕に置かれた手に視線を落とした。
(そうなんだ――)
 だから、ユージュは覚醒できたのだ。
「――ありがとう」
 小さな呟きだったが、手は一度ぽんと腕を叩いて離れた。
 視線を上げ、レオアリスの顔を見つめる。何だか胸の奥が暖かくなった。
「ボクの剣、父さんに似てる?」
「似てると思うぜ」
 ユージュはぱっと頬を明るく輝かせた。その輝きを父へ向ける。
「父さん――似てる?」
 ザインは思いがけない表情に驚きと戸惑いを覚えながら、じっとユージュを見つめた後、頷いた。
「当然だ。親子だからな」
 そう言うと、ユージュはますます嬉しそうな顔をした。
 レオアリスが立ち上がり、ザインと視線を合わせる。驚いているザインを見て、何を驚く必要があるのかと笑った。
「俺も、父さんと似てると言われると嬉しいですよ」
「――そうだ。お前は、ジンに本当に良く似てるよ」
 レオアリスは言葉どおり、瞳に喜びと誇りを浮かべた。ユージュの面に浮かぶ色と同じものだ。
 ユージュも同じように誇りに思ってくれるのかと、ザインはまだどこか不思議な心地で二人を見比べた。
「父さんに剣を教えてもらいたかった。貴方はユージュに教えてあげられる」
「――そうだな」
 ユージュは驚きを消し切れないながらも好奇心が湧き上がったのか、ひっくり返したりしながらしげしげと自分の手足を眺めていたが、ひょいと首を傾げた。
「ねぇ、成長したんなら、ボクは今幾つになったの?」
 そうだな、と言ってレオアリスがユージュと鏡の中の自分を見比べる。
「うーん……まあ俺と年齢は変わらないかもな」
「――ボク、あなたと同じ……?」
「ああ。十七か、十六ぐらいに見える」
「同じ――」
 ユージュの頬がさっと映える。
「そうなんだ」
「どうかしたか?」
「あっ、う、ううん。いきなり三百歳のおばあちゃんにならなくて、良かったなって」
「そりゃ悲惨だな……。まあ基本的にそれは無いだろう。それじゃ剣が使えない。剣に身体を合わせるって言うからな」
「そっかー。ヘンだね、剣士って」
「俺もそう思う」
 レオアリスが笑うとユージュは立ち上がり、鏡の傍に寄ってじっと覗き込んだ。
 しばらくためつすがめつ鏡の少女と睨めっこをした後、ユージュはザインを振り返った。
「ボク、母さんに似てる?」
 期待と、憧れに満ちた問いだ。
 ザインは自分にまっすぐ向かい合ったユージュを見つめた。
 黒髪と、意志の強さを感じさせる瞳。
 街から幾筋も棚引く戦火の煙の向うに、青い空を見ていた。
 フィオリと良く似た瞳。
 おそらくこれから先、同じようにレガージュの空と海と、その先にあるものを見つめていくのだろう。
「――ああ、似てるよ。フィォリに……お前の母さんにそっくりだ」
 俺に似なくて良かったな、とザインが笑うと、ユージュは得意そうな、輝くような喜びを浮かべた。





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