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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」


 ザインは楕円形の卓の手前で膝をつき、正面に座る相手に対し深く頭を下げた。
 幾つもの思いが込もった視線が一斉にザインに向けられる。とりわけカリカオテ達の視線は、ザインに思わず苦笑を覚えさせた。
 この場で、王太子の前で昨日のような事を言ってくれるなと、彼等の目はそう強く訴えている。
 窓を背にして座る少年が、ザインに金色の瞳を注ぐ。その姿は窓からの陽光を纏い、少年が放つべき威厳を後押ししているように見えた。
 だが、それでも。
 王太子、ファルシオン。
 幼い、と胸の内で呟く。
 マリ王国海軍に対するのに充分と言えるのか。王太子とは言え、これほど幼い王子を向けるより、公爵なり国務の要職にある者を向ける方がマリ王国には受け入れられるだろうとそう思えた。
 ザインには王がファルシオンをレガージュに向けた理由が見えない。
 いや、そもそも彼は誰であれ、この件の
「剣士ザイン――」
 まず口を開いたのはファルシオンの傍らに座す小柄な老人だ。この老人が王の相談役であるスランザールかと、ザインが瞳を細める。確かな威厳が皺と白い髭に被われた面にあった。
「そなたはこの度の件に、西海の関わりを懸念していると聞いた。それは誠か」
 カリカオテ達が身を固めたのが気配で判る。ザインにあの雄弁な視線を送って来ている。
 街の、レガージュの望みは、一つだ。
 それは痛い程ザインに伝わった。
 否定をしてくれ、と。
「――」
 ザインは口元を引き結び、膝をついたまま真っ直ぐ顔を上げた。
「恐れながら――」
 緊張が一点に向かって収縮する。
「私はそう考えています。この件で西海が裏で糸を引いている事は、ほぼ間違いありません」
「ザイン――」
 ファルカンの呟きには、砂を噛むような苦痛の響きが交じっていた。だがザインは顔色を変えず、スランザールからファルシオンへ、視線を移した。
「王太子殿下、この件は、西海の首謀者をマリ海軍の前に引き立てない限り終わりません」
「――」
「私が、西海のヴェパールを御前に引き出して御覧に入れます。何とぞ、私にその役割をお任せくださいますよう」
 伏せて避けるべきヴェパールの名を、何の遠慮も無く口にする。
 レオアリスはファルカンやカリカオテ達の青ざめて俯いた顔を見つめ、そして膝をつき昂然と上げられたザインの顔を見つめた。
 力強い言葉だ。だがさほど準備もされていない、説得力に欠けるものに思える。この場でファルシオンを――、王都を納得させるには急ぎ過ぎている。
 西海、と名が付くものを相手にする時、いつであれ絶対条件として付されるものに、どう対処するのか、それをまず示さなくては。
 スランザールは当然、それを突いた。
「言葉だけは勇ましいが――そなたの言葉を容れた結果、西海との関係は崩れよう。そなたはそれをどう繕うつもりか。もうひと月後には陛下が西海に赴かれ、条約再締結の儀に臨まれるという時に」
「スランザール公。このような状況を作り出しておきながら尚、西海が条約の維持を望むと本気で考えているのですか」
 ザインの返した刄は、この不安定な関係の最も弱い部分を突いた。
 条約の再締結に絶対不可欠なものは、双方の継続しようという意志に他ならない。
 スランザールは眉を僅かに持ち上げる。
「過ぎた発言じゃな。そもそもまだ西海が関わっていると決まった訳ではない。そなたの言葉に確証は無く、ただの可能性の一つに過ぎん」
「確証がなければ目の前の厳然たる危機に対しても動けないと――それがこの国ですか」
「ザイン、いい加減にしろ! あんたは」
 ファルカンが堪らずザインに詰め寄り、腕を伸ばしてその胸元を掴み上げた。スランザールが皺枯れた声で宥める。
「落ち着くが良い、レガージュ船団長」
「しかし――我々レガージュは」
 レオアリスはスランザールがファルカンを宥めた時、ザインが一瞬、ごく僅かだが何かの感情を口元に閃かせたのを認めた。
 何だろう――
 ザインがファルカンの手を払う。
「ザイン!」
「国の立場は私にも判るつもりです。その上で――」ファルカンには一顧だにせず、ザインはファルシオンとスランザールの顔をそれぞれじっと見つめた。
「一つ、私に考えがあります。ヴェパールを討ち取り西海の動きを制した上で、西海との関係を繕うならば、それが最も適切な方法だろうと」
「ザイン、これ以上は……!」
 ファルカンが怒りを爆発させかけたちょうどその時、乾いた音を立てて扉が開き、マリの船員の病室へ行っていたロットバルトが戻った。それがきっかけで、収縮していた部屋の空気が一旦すうっと解ける。
 フレイザーが先ほどの空気が戻らない内にというように、ロットバルトに問いかけた。
「マリの船員は? どう?」
 ロットバルトの答えによっては、今のこの場に重く横たわる問題が解決できる。それはフレイザーだけの期待ではなく、ザインを除く全員が同じ答えを待った。
 一方ロットバルトは珍しく、この場ではないどこか別のものに意識を置いていたようで、答えには間があった。
 レオアリスが気付いて訝しむ瞳を投げる。ロットバルトの蒼い瞳には微かな、だが確かな懸念の色があったが、彼はそれを誰にも向けなかった。
 敢えてそうしたようにも見える。
「――順調に回復しているようです。しかし、今日の刻限までに目覚めるかとなると、かなり厳しい状況だと思えます」
 返答が期待したかんばしいものではなく、フレイザーは思わず溜息をついた。
「そう」
「まだ起きられないのか――。じゃあ、マリの国使には、言えないな」
 ファルシオンが困ったように眉を寄せる。ザインはすっと立ちあがり、再びファルシオンとスランザールを見つめた。
「王太子殿下――最早僅かな可能性を待っている段階ではありません」
 ザインはまだ同じ話を続けようとしている。そしてその事への緊張とは別にもう一つ、場をひやりと冷やす何かがあった。
 ザインは何を言おうとしているのか、その事への漠然とした不安――。
「先ほど申し上げたように、西海を制した上で尚、西海との関係を繕う方法はあります。おそらくこれが一番確かな手立てでしょう」
「――」
 ザインがちらりとレオアリスを見、そして、ユージュを見た。
(何だ――)
 どくり、とレオアリスは自分の鼓動が高く鳴るのを感じた。
 自分を見た時のザインの瞳の色――それ以上に、ユージュを見つめた時の色には。
 ユージュも何かを感じたのか、咄嗟に口を開こうと立ち上がる。「父さ――」
 だがザインはもうスランザールに視線を向けていて、そしてはっきりと告げた。
「私がヴェパールを斬り、マリに証拠として差し出した後」
 一歩、ザインが前に出る。頬にゆっくり、穏やかとさえ言える笑みが浮かんだ。
「近衛師団第一大隊大将――、彼に、私を討たせる事です」
 レオアリスは瞬間何を言われたのか判らず、ザインを見つめた。
 ファルカンやカリカオテ達もまた、レオアリスと同じように、ザインをまじまじと見つめている。ファルシオンや、フレイザー達もだ。
 言葉の意味を飲み込むにつれ、レオアリスは愕然として眉を寄せた。
 海皇が、ビュルゲルの死を以って、王国の追求を躱したように――。
 斬れ、と。
「――そん、な事が、できる訳が」
「するべきだ。西海との調和の為だ」
 先ほど、ザインはレオアリスとの会話を急いでいた。伝えるべき事を、早いうちに伝えてしまいたがっていたように思えた。
 それは。
 鼓動が喉につっかえる。
「調和――、でもそんなのは、始めから違う話じゃないですか」
 息苦しさに喘ぐように漸く口にしたが、ザインには揺らぐ様子がない。
「そうしないのならば、今ここで俺を斬るしかない。でなければ俺は止められない」
「父さん! 止めてよ!」
「お前は口を出すな」
 飛び出そうとしたユージュをぴしゃりと撥ね付ける。ユージュは本当に頬を打たれたように、息を呑んで立ち止まった。
 レオアリスは初めて、怒りにも似た光を瞳に浮かび上がらせた。
「――無理に決まってる! 何を言ってるんだ、貴方は!」
「レオアリス、俺達はそういう存在だ。剣を以って主を護り、剣を以って主に殉じる」
「そんなのは、」
「俺は俺の主に。君は君の主の意志に従え。君の王は、君に俺を斬れと言うだろう」
「――」
 言葉を失って茫然とザインを見つめたレオアリスの傍らで、フレイザーが翡翠の瞳に非難を露わにしてザインを睨んだ。
「自分勝手な事を言わないで」
「フレイザー」グランスレイの制止の手を押し切り、フレイザーはザインに向かい合った。
「そんな荷を負わせるつもり?」
「荷を負う? それは違うだろう。近衛師団に属する以上、当然の責務の内だ」
「それがどれほど辛い事か――、大体貴方は自分の子供の前で、良くもそんな無神経な事を言えたものね」
 ユージュはどうしていいか判らずに、じっとザインを見つめたままだ。
 しかしザインは全く痛痒を感じていないように、軽く息を吐いた。
「女ならではの感覚か」
 フレイザーはさっと気色ばんだが、先にザインを睨んだのはグランスレイだった。
「女だからと理由を付けて議論を逃げるのは卑怯だろう。レガージュの守護者の言葉とは思えんな」
「感情を害したのなら謝ろう。だが近衛師団が為すべき事は明確なはずだ。国として最善は何か、考えれば簡単な事だ」
「お前は」
「――確かに」
 グランスレイが広い身体をザインに向けかけたのを制し、ロットバルトがゆっくりそう言った。
「王は、そう下命されざるを得ないでしょう。この国の王であり、我々は近衛師団です」
 ザインの顔を見据える。
「しかし貴方の主は、本当にそれを望んでいると? 違うでしょう、貴方はそうは言っていない」
「――」
「互いの主に従うと言いながら、貴方自身は主の意志を明言せず、結局ただ自らの意志で動いている。当然――」
 ザインは今までの中で一番、苦い顔をした。
「それが貴方の主の望みではないと、貴方自身が判っているからではありませんか」
「――」
 レオアリスは瞳を上げ、ザインの横顔を見つめた。
「そもそも我々は近衛師団として、国家間の条約を揺るがすような発言を了承できる立場にありません。ですがファルシオン殿下に貴方の処断をお決め頂くような事態にはしたくない。この場で発言の撤回を明言してはいただけませんか」
 ザインは一切感情を消したように平坦な顔をしていたが、次第に口元に笑みを滲ませた。
「撤回する気は全くない。止めたいのなら俺を斬るんだな」
 ぐっと跳ね上がりかけた空気を、まだロットバルトが抑える。
「重ねて申し上げますが、斬るという選択肢はありません。撤回をされないのであれば、このまま事態の収束まで拘束を続けさせていただくしかない」
 ふ、と、ある想いがレオアリスの胸中に落ちた。
 これと同じような事が、ついこの間あったばかりだ。
『君が、僕を捕えれば』
 そう言ったのはイリヤだった。
 何故、皆同じ事を求めるのか。
 王に仕える剣士としての、責務だと。
 王の剣士とは、そんな存在でなくてはいけないのか――
 王は。
 どう命を下すのだろう。
 もし――
 王が、ザインを斬れと命じたら。
 どくり、と鼓動が鳴る。
(――俺は、それに、従うのか……)
 喉が詰まる。
「近衛師団は弱腰だな――残念だ。レオアリス、お前自身の意志はどうなんだ。いや、お前の主の意志を、尋ねず言われずともお前は汲むべきじゃあないのか」
 ザインの言葉がまるで実体のように喉を掴んで息を詰まらせる。
「お前は」
「ザイン、もう良い。そなたの願いを聞くわけにはいかないのだ」
 ファルシオンの幼いが断固とした声に、レオアリスは視線を向けた。まだとても幼い、ファルシオンの面。
「私はそんな命令はしない。ぜったいに」
 ファルシオンの言葉が逆に、自分がひどく感情に左右されているのだと気付かせる。
 本来軍の大将という立場は、感情面での是非を第一に考えるものでは無い。
(――無いのか、本当に?)
 そう割り切るべきなのか――
 ファルシオンは眉を寄せた。
「もう良い。さがれ。その者も、この街も、悲しませてはいけない」
 ファルシオンの金色の瞳に示され、ユージュは青ざめて唇を噛んだままの顔を父に向けた。
「――」
 ザインはユージュに視線すら向けず、踵を返す。
「――父さんっ」
 追い縋ろうとしたがユージュはその場から動けずに、父がまるで赤の他人のように自分の前を通り過ぎるのを、ただ見送った。
「レオアリス、ザインを部屋まで連れて行け。グランスレイ、そなたもだ」
 スランザールの指示を聞いてザインは皮肉そうな顔をしたものの、何も言わずにレオアリスが先に廊下へ出るのを待った。
 伏せたまま合わせようとしない瞳に懊悩おうのうが刻まれているのを見て取り、口元に複雑な感情を閃かせる。
 誰も読み取らない内にそれは消えた。





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