TOP Novels


王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」


 視界の左隅に閃光がはしった。
 白刃。ザインの右腕に現れたそれが、足元から掬い上げるようにレオアリスの上半身へと振り抜かれる。
「――ッ!」
 ギィン! と鋭く硬い金属音が耳をろうし、一瞬レオアリスの身体が床から浮いた。
 胴を切り裂こうとしたザインの右腕の剣が、レオアリスの右手に握られた剣に阻まれ止まっている。
 青白い光が明滅し、暗い部屋を微かに染めた。
 刃が打ち合った音の余韻が消えていく僅かな間、レオアリスはザインの視線と真っ向から向き合った。
 漆黒の、強い光を宿した瞳。
 互いの力を削ぎ合い、刃同士が軋む。
 すぐ傍に、ユージュ達の姿が見えた。
「――父さん……?!」
「ザ、ザイン、何を」
 一呼吸の後、我に返ったユージュとファルカンが驚いた声を上げた。ロットバルトは剣の柄に手を掛け室内に一歩踏み込んでいたものの、その場から動けずにいる。
 二つの剣の顕現に、室内の空気が電流を帯びたように震え、肌を打ち小刻みに伝わる。
 レオアリスは剣に意識を集中し、奥歯を噛み締めた。
(重、い……)
 抑えた剣から伝わる、腹の底に響くような圧迫感。
 バインドの剣と打ち合った時と同じ――いや、それ以上の力で、レオアリスの剣を振り切ろうとしてくる。
 剛剣だ。
 咄嗟に引き抜いた右手の剣一本では、僅かでも気を抜けば押し切られそうだった。
「く」
 そしてその緊張とは別に、剣から伝わる力に触発され、胃の腑の奥にじわりと沸き上がる、魂を掻き立てる感覚がある。
 それは紛れもない、剣を交える事への昂揚感だ。これほどの相手と――。
 レオアリスは唇の端に笑みを浮かべかけ――、ぐっと引き結んだ。
「……ザインさん。剣を引いてください」
 ザインは打ち込んだ姿勢のまま、黙ってレオアリスの瞳を見つめている。レオアリスは真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
 視界の端で、ユージュが父の腕に触れようとし、触れられずに狼狽えた顔をしているのが見えた。
「――ザインさん」
 ザインの剣が尚も押し切ろうと力を加え――、僅かな呼吸の後、ザインはすっと剣を下ろした。
 一歩退き、改めてレオアリスと向かい合う。
 剣がゆっくりと右腕に沈んで行き、同化して見えなくなった。同時にレオアリスの手からも剣が掻き消え、室内を満たしていた震えるような圧迫感が消える。
 ファルカンは安堵にへたり込みそうになる自分の足を、ぐっと力を込め奮い立たせた。
「――見事な剣だ、レオアリス」
 つい今まで表情を消していたザインの精悍な頬に、親しみの籠もった笑みが浮かぶ。
「そして良く、剣を抑えているようだな」
「それで、今の……」
 ザインはまだ驚いた顔をしているユージュの頭を左手で引き寄せ、安心させるように笑いかけながら頷いた。
「まだ制御しきれていないのなら教える必要があったが、どうやら俺の助言は不要のようだ。安心した」
 レオアリスの中に沸き起こった戦いへの歓喜と、それを抑えた事をザインは見抜いてそう言った。レオアリスが、刃を交えている最中にも、ユージュを気にした事も。
 近付いて右手を伸ばし、一度ぐっと肩を掴んだ。
「ジンに良く似ている。その剣も、姿も――、性格もかな。君に会えて嬉しいよ」
 レオアリスはザインを見上げた。
 三百年前の大戦――それ以前から、ジンと一緒にいてジンを良く知る人物。
 ジン――父の友人。
 想像の中にしかいなかった人物が思考の幕の向こうから歩み出てきたようで、今更ながらにじわりと実感が沸き上がった。
「――俺もです」
 ザインの瞳に落ち着いた穏やかな色が浮かんでいるのを見つけ、ほっと息を吐く。
 つい先ほど、バインドを連想させたあの気配は、今はすっかり消えていた。
「でも驚きました、今のは。本気で振り抜かれていたら止められたかどうか」
「はは、悪かった――。だが一番最初に確かめておきたかったんだ。断りを入れてからじゃ実際のところは測れないからな」
 ようやく状況が飲み込め、ファルカンは肩で大きく息を吐き恨めしそうな目を向けた。
「ザイン、あんまり驚かせてくれるな……肝が冷えたぞ。それに下には王太子殿下がいらっしゃるんだ。もしあんた達の剣で万が一の事があったら」
 ファルカンにさえ、先ほどのあの肌を切るような恐ろしい空気は、はっきりと感じ取れた。
 張り詰めた、近付くだけで切り裂かれそうな空気が二人を中心に渦巻いていた。
 いや、おそらく踏み込めば確実に、身を裂かれていた距離があったのだ。ファルカンはちらりと入り口に立つロットバルトに目を向けた。
 この状況で瞬時に剣に手を掛けたのはさすがだ。だが彼も、踏み込めない境界を知っている。
 怜悧な知性を感じさせる瞳がファルカンの視線に気付いて向けられ、同じ考えを見たのか僅かに苦笑を浮かべた。剣の柄に置いていた左手を離す。
 ザインは改めて呆れた顔をファルカンに向けた。
「しかしお前はつくづく、俺の置かれている状況を忘れる男だな。相手が近衛の大将とは言え同じ剣士だ、こんな簡単に会わせていいのか」
「そういう訳じゃない。いつでも、意見を変えてくれればすぐ解除するつもりではいるが――」
 そう言ってしまってから、ファルカンはレオアリスをちらりと見た。ザインがまだ西海に拘っていると、そうレオアリス達に思われるのは好ましくない。「王太子殿下が、お前の話を聞きたがっておられる」
「俺に――」
「貴方の考えは伺いました。この件に関して、危惧をお持ちだと」
「慎重だな、君は」ザインはレオアリスが西海という言葉を使わなかったのを見て、そう言った。
「近衛師団なのだから当然か」
 それにはすぐに返す言葉が浮かばず、レオアリスは扉を示した。
「どうぞ。殿下がお待ちです。全ての話は、そこで」
 ザインと会えたら話したいと思っていた事が、いくつもあった。だがそれは後回しだ。
 マリ王国との会談が無事に終われば、時間を取ることができる。話したい事は、その後ですればいい。
 そう思っていたレオアリスを、ザインは呼び止めた。
「レオアリス――。ジンの事をどう聞いている?」
 扉へ向かおうとしていたレオアリスは、ザインの問いかけに振り返った。
「育ての親は話してくれたか」
 ザインの瞳にある光に引かれ、レオアリスは頷いた。
「――祖父達との思い出を聞きました」
 語ってくれた過去は、思い出というには祖父達にとって辛いものだっただろうが、ジンの人となりを聞けた。語る辛い響きの中に、温かさが宿っていた。
「出会った頃から――、あの時・・・まで」
「……そうか。――誰からも好かれる男だったよ、ジンは。俺はいつもジンのように強くなりたいと思っていた。十歳ぐらいしか違わなかったかな、俺達は。だがその差は少しも埋まらなかった。昔も、今もだろう」
 ザインは懐かしそうに瞳を細めた。
 親しみの籠もった様子に、レオアリスは聞かないままにしておこうと思っていた言葉を、口にした。ホースエントが王都で会った時に告げた事だ。
「あなたは――、その、父と同じ一族なんですか?」
 ザインはレオアリスがそこに込めた想いを感じ取り、瞳に微かな陰を落とした。ただ、口に出したのは明確な否定でもある。
「いいや。残念ながら違うよ」
「――」
 レオアリスは詰めていた息を、そっと吐いた。
「悪いな」
「いえ、全然、いいんです」
 ザインの声には労りの響きが交じっていて、拘っている自分が子供っぽく思え、レオアリスは急いで首を振った。
 ただやはり、心のどこかに、すうっと空間が空いたような感じがある。
 唐突に、ぽん、と言葉が飛び出し、心の中に転がった。
 独り――
 期待していたつもりは無かったけれど。
(結局、俺は)
 独り、だ。
 どくん、と鼓動が跳ねる。
 それは今までに感じた事の無い、心臓を掴まれるような感覚だった。
「――」
 レオアリスは慌ててそれをしまい込んだ。
 そんな事は考えるべきじゃない。
 けれど心のどこかに期待があった分だけ、生まれた空白はレオアリスの中でその新しい存在を主張した。
 ファルカンは察して口を挟まず、ユージュはじっとレオアリスを見上げている。ロットバルトは戸口に立ったまま、先日のホースエントがそこに居るかのように、廊下の壁の向こうに冷えた視線を向けた。
 束の間の沈黙を、ザインの言葉が散らす。
「――聞きたい事は色々あるだろう。俺が答えられる事なら、何でも教えよう。余り時間はないが」
「いえ――」
 今はザインをファルシオンの元に案内するのが先だ。ファルカンもそれを思い出し、ザインに促すように声を掛けた。
「ザイン、廊下にいるぞ」
 そう言って扉に向かい、そこに居たロットバルトと一度眼を見交わして、部屋の外に出た。
「ああ、今行く。――ユージュ、お前もファルカンと廊下にいろ」
「でも」そう言いかけたものの、ユージュは大人しく父の言葉に従い、廊下へ出た。
 しかしザインはその場に立ったまま、部屋を出る気配はない。会話を急いでいるように、言葉を継いだ。
「王太子殿下の前に出た後は、もう話せる時間は無いかもしれない」
「――」
 ザインは戸口に控えているロットバルトが会話を打ち切ろうとしないのを少し意外そうに眺め、それから再びレオアリスへ促すように首を傾ける。
「何でも構わない、聞きたい事があるなら」
 レオアリスは少し躊躇い、それからザインを見た。
「貴方は」
 それを聞くのは怖くさえあったが、それでもやはり聞きたかった。
 ずっと、王都でレガージュの歴史を聞いた時から、疑問に思っていた事だ。
 自分達の存在の、根本にあるもの。
 実際には、レオアリスはもうそれを理解していたかもしれないが。
「剣の主を、失って――、貴方は、どうして、ここに」
 その問いを初めから予期していたのだろう、ザインはあっさりと笑った。
「どうして、か。俺もそれはいつも思う。――ただ、離れられないんだよ、どうしても」
「――」
 レオアリスは瞳を見開いたものの、もうその中にはどこかでザインの答えに納得している様子があった。
「この身もそうだが、何より心がね」
 及ばなかった自分の力に、ただひたすら後悔し、歯噛みしながら過ごして来た。
「三百年――、それでも尚離れる事ができないでいる」
 黙って自分の言葉を聞いているレオアリスに目をやり、ザインは穏やかに笑ってみせた。
「でも君には無縁な苦しみだろう。君の剣はジンの力を受け継いで強いし、何よりも、君の剣が選んだ主はこの国の王だ。俺はその事に、実はほっとしてるんだ」
「――」
 ザインの瞳もレオアリスと同じ漆黒だ。だがその瞳には三百年の歳月が横たわり、深く、悲哀を湛え、そして底までは覗かせない。
「俺は自分の力不足で、フィオリを失った。――しかし王は、君の前から消える事はないだろう」
 永きに渡って安定した国家体制を維持してきたのは、王個人に寄るところが大きい。
 この国を統べ、繁栄させ、保ち。
 誰にも、この王が玉座を離れる事など、現実のものとして想像がつかない。
 例え後継者として、王太子ファルシオンの成長を喜んだとしてもだ。
「君の主は、この先も君の前にある」
「――」
 ザインの言葉を聞きながら、レオアリスは無意識に鳩尾に手を置いていた。剣の鼓動が、少し騒めきながら伝わる。ザインの言葉を喜んでいるのか、それともまだ不安なのか。
 ザインはふと笑った。
「こんな事を君に言っておいて、ずるいと思われるかもしれないが」
 レオアリスの問い返す顔に、ザインは一旦廊下に眼を向け、口元の苦い笑みで答えた。
「ユージュには、主を選ばないで欲しい。そう思っている」
 剣を捧げる主を得る事は剣士にとっての喜びであり、一つの存在意義だ。
 そしてある意味では、剣に身を滅ぼす事と同じなのかもしれない。
 表裏一体、ぎりぎりの薄氷うすらいの上に立つ。
 フィオリと出会った事でユージュを授かった。フィオリとの出逢いはザインにとって得難く大切なものだ。
 彼女を心から愛し、守りたいと思った。ザイン自身も、その身の剣も。
 もう一度選択の機会が与えられたとしても、間違いなく同じ道を選ぶ。
 間違いなく。
 ザインの中にある矛盾。
 それをずっと、身のうちに抱えてきた。
 剣と共に。
 ロットバルトはレオアリスに眼を向けた。斜め後ろからの表情は汲み取りがたいが、ザインの言葉に耳を傾けている様子は、ザインの考えを理解しているようにも見える。
「――上将、私は病室を見て戻ります」
 想いに沈んでいたレオアリスははっとして、ロットバルトと開かれたままの扉を見た。もうザインをファルシオンのもとに案内しなければいけない。
「ああ……、頼む。目が覚めてくれればいいが」
 ロットバルトは束の間レオアリスの瞳の色を見つめ、そして一度ザインへ視線を向けてから、案内のレガージュ船団員を促し部屋を離れた。
 若い船団員の男はまだ驚きに呑まれた顔のままでいる。それを眺めてロットバルトは軽く息を吐いた。
(判ってはいるつもりだが剣士とは、あっという間に周囲を圏外に置き去りにするものだな)
 剣に手を掛けはしたものの、その先が無い。
 自分達が完全に、埒外らちがいに置かれざるを得ないのが歯痒いところだ。
 今回、ザインが本気では無かったから良かったものの、本気で振り抜いていたら、おそらくレオアリスの対応も違っていただろう。そうなると剣の余波で、あの部屋くらいは軽く弾け飛んでいたかもしれない。
 あれで本気ではないとは、と呆れ、ふと眉を潜める。
(――あの瞬間)
 レオアリスが咄嗟に剣を抜いて受け、足元が一瞬床から離れた。
 剣を受けレオアリスが体勢を崩す事など滅多に無い。それ以前に、例えばグランスレイとの手合わせでさえ、レオアリスは剣で受ける事は少ない。大抵、紙一重掠める位置を見極めて躱す。
 ザインの剣はやはり、不意を突かれたとは言え、レオアリスが咄嗟に剣で止めるほどのものだったのだろう。
 ザインの剣については全く未知故に測り難いが、レオアリスはあの瞬間にも、すぐ傍にいた自分達に余波が及ばないよう、剣の力を集中させていた。
 言い換えれば、意識を研ぎ澄まし一点に集中させながらも、ザインの剣を押し戻す事ができなかったと、そうも言える。
(――剣士同士……同じ、剣士か――)
 先ほど、ザインを眼にして立ち止まったレオアリスの瞳の中に見た色。あの色を、過去にも見た事があった。
 昨年の初冬――、王都に、バインドが現れた時に浮かんでいた色だ。
 ザインは本気ではなかった――おそらく。
 しかし本当に、目的はレオアリスの剣を測る事、それだけだったのだろうか。
(だが、他に?)
 他に想定できる理由を、考えるべきなのか・・・・・・・・
「――」
「こちらです」
 船団員が立ち止まり、軽く叩いてから扉を開ける。ロットバルトは一旦思考を切り替えた。
 開いた扉からまず最初に、濃い灰色の、法術士独特の長衣を纏った男の姿が見えた。彼が座っている椅子の両側に寝台があり、右側は空だ。
 左側の寝台の白い上掛の布が盛り上がり、人が寝ているのが見て取れた。
 室内の明かりを落としていたせいだろう、法術士はかずきの奥で眼を細め、開いた扉を眩しそうに見すかした。
「ヴェルナー中将か」
 特にお互い面識がある訳ではないが、容貌を見て判断したのか法術士はそう言って立ち上がり、頭を下げた。
「王太子殿下をお迎えもせず、申し訳ない」
「いえ、貴方は患者に付いたままでと、元々殿下のご下命でもあります。――容態は」
 法術士は皺の刻まれた顔を起こし、もう深刻な状況は脱したと、まずはそう言った。
「術に対する拒否反応も見られん。快方に向かっていると言えるだろう。後はいつ目を覚ますか、その点だけが我々の懸念だ」
「今日の一刻までに目を覚ます可能性はありますか」
「……難しいと思っていただきたい」
 法術士の返事を聞きながら、ロットバルトは寝台に歩み寄り、半ば辺りでぴたりと足を止めた。
「――」
 法術士が眉を上げ、途中で足を止めたロットバルトを見つめた。
 ロットバルトは突然思いも寄らないものを目にしたように、じっと寝台に視線を落としている。その様子は何かに意識を強く引き付けられ、考え込んでいるように見えた。
「――何か、憂いがおありか、中将殿」
 レオアリスや近衛師団の人間が見ていたら、普段滅多に見せないその驚いた様子に何事かと思っただろう。
 ロットバルトは呼吸を整えるように息を吐き、法術士へ視線を向けた。
「――唐突な事をとお思いになるかもしれませんが、一つ確認を」
「何かね」
「この匂いにはお気付きですか」
「匂い? ああ、少し籠もっているが、気になるかね」
 そんな事かと法術士は微かな笑みを浮かべた。そんな事を気にするとは、という呆れも多少含まれている。
「しかし仕方ない、この男は三日間海を漂い陽射しに晒されてきた。潮と疲労と、幾つもの匂いが染み付いてしまっている。身体を拭いたくらいでは中々取れんのだ、我慢していただかなくては」
 ロットバルトは法術士の言葉を聞きながら寝台に近付き、一旦枕元に手をついた。横たわる男の顔は目が落ち窪み頬がけているが、法術士の言うとおり快方に向かっているように見える。
 マリ王国海軍との会談までに目覚めれば、問題解決に向けて一歩、前進ともなり得る。例え間に合わなくとも、マリ王国の判断を保留させるよう交渉はできるだろう。
 この男はレガージュ交易組合が待ち望んでいる、希望だ。
(――希望、か……? これは)
 心の内でそう呟くとロットバルトは身を起こし、訝しそうに自分を眺めていた法術士へ顔を向けた。
「――彼が救出されたのは、確か五前だったと聞いていますが」
「そのはずだ。レガージュの説明では五日前の夕刻と言っておった」
「夕刻……」
 呟いた面は、法術士が眉を潜めるほど厳しかった。
「その事がどうかされたか」
 それには答えず、ロットバルトは別の事を尋ねた。
「――もう一つ……王都で同じような匂いを嗅ぐとしたら、どのような場所を想定されますか」
「匂い?」
「今漂っている、この匂いです」
 面食らった様子ながら、法術士は改めて籠もった匂いを確認し、考えを巡らせた。
「これは独特な潮の香だ、先ほど言ったように単純に潮の香だけでもない。王都では無いだろう」
「夜会などの席では?」
「夜会? この匂いが? いや、そういうたぐのものとはかけ離れておる」
「この部屋で傍にいた貴方には、多少なりと匂いが移るでしょうね」
「そう思うが……」
 法術士は戸惑いを隠せず、落ち窪んだ目を瞬いた。
「――失礼しました、奇妙な事をお聞きしました」
「ヴェルナー中将、何かおありなのか」
 かずきの奥の瞳は、戸惑いから懸念へ、その色を変えている。ロットバルトは束の間、法術士を見つめた。
「いえ……ただ」
 先ほど岸壁の上で感じた香りよりもずっと強い――いや、近い。
 日が経って少しずつ薄れてはいるものの、この部屋に漂うそれは、すぐにあの時を連想させた。
 微かな笑みを浮かべながら告げたあの時の言葉が、脳裏に再び甦る。
『ああ、これ? すぐに消えるわ――』
 西方公、ルシファー。
 関わりがあるのか。
 あるとしたらどのような関わりが?
 どちらに捉えればいいのか。
 危惧すべきか。
(危惧でなければ、偶然だと? 偶然で片付けていいのか)
「中将」
 ロットバルトは法術士に視線を向けた。
「――私は五日前の夕刻、王都の夜会の席で、同じ匂いを嗅いだ覚えがあるのです」
「王都? この匂いを? だから驚いていたのか。しかし、それはただ近い匂いだったという事では?」
「そうかもしれません」
 当然、まずはそう考えるべきだと、そう思う。
 日が経っていれば、記憶も変わる。
 そして相手は、四大公爵家の一人だ。確証もなく取り沙汰せば、反る影響の方が大きい。
 そもそも、既に消えてしまったものなど確認のしようが無い。
『すぐに消えるわ――、ほら』
 そう言った時にはもう、消えていた。引き替えと言うように漂った、花の香。
『――残念ね・・・
 浮かべられた微笑み。
「――」
 ロットバルトは瞳を細め、その視線を上げた。
 視線の先に、二千里もの距離を隔てた王都を見遥かす。
 確証は無い。
 だが、焦燥に似た落ち着かない感覚がじわりと沸き上がる。
 もう一度眠っている男に視線を落とし、法術士へ礼を述べて、病室を出た。





前のページへ 次のページへ

TOP Novels



renewal:2011.04.09
当サイト内の文章・画像の無断転載・使用を禁止します。
◆FakeStar◆