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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」


 アスタロト公爵家長老会の筆頭であるソーントン侯爵は、骨張った顔に厳しい表情を浮かべ、広い部屋の中央に立っていた。
 彼の前には優美な造作の寝台が置かれている。天蓋から流れる白い薄羽のような布が、そこに眠る少女の姿を柔らかく隠している。
「――もう一度申せ」
 ソーントンは噛み締めた歯の奥から声を押し出した。視線は彼等の年若い当主の姿に据えられたままだ。
 ずしりと重い空気が、窓の向こうの白く輝く陽射しを遮っているように感じられる。
 アーシアはあの時からずっと走り続けている呼吸に、苦しさを押さえながら口を開いた。頬からは血の気がすっかり失せ、紙のように白かった。
「ルシファー様が、訪ねておいででした。私が部屋に戻った時には、あの方が――アスタロト様を覗き込むように立っていらして」
「――」
「私をご覧になり、笑って、――どうやって主を助けるつもりか、と、そうお尋ねに」
「アーシア」
 ソーントンの鞭のように鋭い声が遮り、アーシアはびくりと身を縮めた。傍らに立つ執事のシュセールがそっとアーシアの肩に手を置く。
「その事はもう口にするな」
「――」
「確証なく口にしてよい言葉ではない」
 アーシアは息を呑み、だがありったけの勇気を振り絞るようにして声を出した。
「でも――、いえ、ですが! こうしてアスタロト様は」
 もう二刻、眠ったまま、目覚める気配が無い。
 ルシファーの前で倒れてから。
 アスタロトを見下ろし、ルシファーは微笑んでいた。
 背筋を冷たいものが駆け上がる。
「何か、お二人の間であったと、そう思うのが」
「西方公に責任を問えと言うか」
「それは」 アーシアが口籠もる。ソーントンは容赦なく続けた。
「お前が目にしたと、それだけの理由で、西方公の責任を問う事ができると思うのか」
「――そんな」
 アーシアは一層血の気を無くして青ざめ、それでもぐっと拳を握り込み、食い下がった。
「ではせめて、ルシファー様に事情をお伺いできませんか。そうすれば、原因が判るかもしれないです。それだけでも――」
 ソーントンは振り返り、アーシアの頬を力一杯打った。鋭い音と共にアーシアが床に倒れ込み、シュセールが膝を付く。
「ソーントン侯爵、お静まりを」
 シュセールを押し退け、ソーントンはアーシアの前に立った。
「お前は、当主を最も身近で支える役を負いながらそれも果たせず、口にする言葉は他者の責任を問う事だけか! 選りにも選って、西方公だと?!」
「侯爵」
「アスタロト公爵家の当主が倒れた責を他の公爵家に問う事が、どのような意味を持つか、お前ごときでも判るはず」
「――、」
 アーシアは何とかソーントンを説得しようと言葉を探したが、相応しいものが思い付かずに唇を噛んだ。血の味がする。
「侯爵、アーシアは決して嘘偽りや適当を申す者ではありません」
「シュセール。西方公を当主の部屋へお通ししたのか」
「――いえ」
「では問えまい。西方公が無断で、当主の部屋へ押し入り、当主を害したと申し立てるのか」
「そんなつもりは」
 冷たい大理石の床に手をついたままアーシアが首を振る。
「お前の言ったのはそう言う事だ」
 ソーントンは忌々しそうにそう吐き出した。
 アーシアにもソーントンの言う事は判る。
 けれどルシファーが倒れたアスタロトと何か話をしていたのは確かなのだ。何を話していたのか、何故眠り、目覚めないのか、アーシアには全く判らない。
「――アスタロト様を、どうしたら」
 ソーントンは一旦寝台のアスタロトを振り返り、苦いものを噛み潰したようにかさついた声を出した。
「公爵家付きの法術士に極秘で治癒に当たらせよ。すぐに問題なくお目覚めになるかもしれないが、念の為だ」
「正規軍にはどのようにご報告なさいますか。本日は総司令部で、フィオリ・アル・レガージュでの王太子殿下の会談結果を待つご予定でございました」
 シュセールが確認した内容に、ソーントンは重い息を吐いた。
「――正規軍にもまだ明るみに出してはならん。急遽体調を崩されたと、そう伝えよ」
 まだ、とソーントンは言ったが、いつまでという想定がある訳では無い。
 まずは法術士によって目覚めれば、それが最善の結果だ。
「アーシア、お前には当面謹慎を命ずる。当主のお前への温情に免じて時間をやろう。その間に愚かな考えを棄てるのだ。当主の身の回りはシュセールに一切を任す」
「――」
 ソーントンは薄い色の瞳でアーシアとシュセールをおびやかすように一瞥し、硬い靴音を立て部屋を出て行った。
 シュセールが見送りの為にソーントンについて部屋を出ると、室内にしんと沈黙が落ちる。
 息苦しさを覚え、アーシアは壁に寄りかかって身体を支えた。両手を目の前に持ち上げ、その開いた指先を見つめる。
 アーシアに注がれるアスタロトの気は、普段と全く変わらない。だからアスタロトの身体には何も問題は無いのだと、そう思えた。
(でも、目が覚めないんだ――)
 身体に異常など何も無いと思えるのに――名を呼んでも、身体を揺すっても、全く目を開ける気配が無かった。
 まるで人形のようだ。
(――)
 どんな話をしていたのだろう。アスタロトとルシファーは。
 あの時、まるで、アスタロトの意思や命を吸い取るように見えた。
 ルシファーに感じた、普段とは全く違う、魂が凍るような恐怖――。アーシアにはあれが、根本的なところにあるルシファー本来の姿なのだと、そう思えた。
 人よりも鋭い、飛竜としての本能で。
(――誰か)
 ルシファーはまた来ると、そう言った。
 何の為だろう。
 今は行くところがある、と――。
(どこに――、何故、アスタロト様を)
 再び訪れて、どうするつもりなのか。
 誰かに相談したかった。
 アーシアの言葉を信じて、アスタロトを守ってくれるのは。
 アーシアは背中を壁に預けたまま、両手を額の前で固く組み、体を縮込めるようにして目を瞑った。
 一人――今、その相手はずっと遠い。
「レオアリスさん――」





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