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王の剣士 六【紺碧の守護者】

第四章 「剣士ザイン」

十一

 ユージュは床の上にしゃがみ込み、全く知らない場所に一人置いて行かれた子供のように膝を抱えていた。
 普段なら手を握ってくれるはずの父が、視線も向けずに出て行って、ユージュはどうしていいか判らず混乱していた。
 自分を、斬れと言った――。
(そんなの、嘘だよね――)
 ずっと床を睨んだまま、ユージュは爪を立てて唇をぎゅっと引き結んでいたが、レオアリスが戻るとはっと顔を上げた。
「――」
 黒い大きな瞳が激しい戸惑いと共にレオアリスに向けられる。レオアリスは無言のまま、ユージュの前に立った。
 ユージュの手が伸びて、レオアリスの軍服を掴む。立ち上がり、レオアリスを強く睨み付けた。
「――父さんを……、父さんを斬ったら、許さないからな……ッ!」
 声そのものが全身にぶつかってくるようで、レオアリスは口元を引き結んでユージュを見下ろした。
「……大丈夫だ。そんな事はしない」
 そう言った後、レオアリスは思い直し、もう一度はっきりと口にした。半ば自分に言い聞かせる為にだ。
「俺は君の父さんを斬ったりしない」
「――っ」
 ユージュは軍服を掴んでいた手を離し、その手を強く握り締めて床を見つめていたが、くるりと身を翻して部屋を駆け出した。
「ユージュ――」
 ファルカンが手を上げて呼び止めかけ、溜息と共にその手を下ろす。その溜息が室内に重苦しく広がった。
「――どんな人間でも急かされ安易な考えに陥る事があるものじゃ。ザインは三百年来の――仇敵を前にして焦燥を覚えておる。剣士として駆り立てられる想いは、我々には想像し難いものじゃろう」
 スランザールは束の間レオアリスを見、ただそこに答えを見つけようとした訳ではなく、すぐに反らした。
「今すぐ考えを捨てよと言っても無理があろう。残念じゃがザインはこのまま一室に留め置き、会談が終わるまで監視を強化せよ。外にいる近衛師団を監視として待機させる」
「――異存は、ございません」
 カリカオテが頭を下げる。詫びる言葉か弁護か、しばらく言葉を探そうとしていたが、上手い言葉が見つからなかったのかそれきり黙り込んだ。
 十を数えるか数えないかの僅かな間、無言の状態が続いた。
 ロットバルトがその沈黙を確認するように眺め、それからファルシオンとスランザールへ向き直った。
「殿下。畏れながら、これで状況把握に必要な要素はあらかた確認できたかと思われます。もう会談まで余り猶予もありません。マリ王国海軍に対しどう臨むか、それを纏(まと)める段階に進むべきでしょう」
 既にマリ王国海軍が指定した時刻まで、既に二刻弱の時間しか残されていない。時間どおりマリ王国海軍船に赴くには、少なくとも刻限の半刻前には船を出す必要があった。
 ファルシオンがスランザールを確認し、頷く。ロットバルトはカリカオテへ視線を向けた。
「カリカオテ殿、お手数ですが別室をご用意頂けますか。この後は我々だけで話をさせていただきたい」
 カリカオテは首を振った。
「いえ、私どもが別室に引きましょう。御用の折はお呼びください。その間に王太子殿下をお送りする船を整えて参ります」
 カリカオテ達が退席したものの、まず発言すると思われていたロットバルトはしばらく考え込んでいた。だからだろう、スランザールも口火を切らず、ロットバルトへその眼を向けている。
「――ロットバルト、どうかしたか?」
 レオアリスが問いかけるとロットバルトは思考から瞳を上げた。
 そう言えば先ほど、マリの船員の病室から戻った時にも、同じように考え込んでいた気がする。
 その様子はレオアリスの中に胸騒ぎを覚えさせた。
「――マリの船員に、何かあったのか」
 もしかして、先ほどは言えなかった事態が起きているのかと、まず思い当たる事はそれだったが、ロットバルトの答えは少し違った。
「いえ、船員自身は先ほどご報告した通り、変わりはありません。――ですが、彼と密接に関係すると考えられる事があります」
「マリの船員に関わる問題――? どういう事だ」
 ロットバルトはまだ、掴みにくい色を宿した瞳を、誰にも向けていない。
「……これはあくまでも推論――、それもごく薄い不確かな根拠しかない話だと、その前提でお聞き頂きたい」
 ここまで曖昧な物言いをロットバルトがするのは珍しい。推論であっても大抵、口にする段階では既にある程度の根拠を持っている。逆に言えば、その段階まで口にしないのがこの参謀官の常だ。
 レオアリスはグランスレイやフレイザーと顔を見交わした。ファルシオンが聡い瞳を向け、促す。
「かまわない――、気になることがあるなら聞きたい。どんなことでも」
 ロットバルトはファルシオンに一礼し、だがまずは窓際に寄り、その一つを押し開けた。
 緩やかな風が吹き込み、レオアリス達には馴染みの無い、少し熱を含んだ潮のが室内に流れる。部屋にこごっていた空気がほぐれた。
 ロットバルトはその風を追うように視線を向けた後、口を開いた。
「マリの船員が救出された状況と照らすと、今回の件に、西方公が関わっておられると、そう考えられる節があります」
 根拠の薄い推論と言いながら、それは余りに直截ちょくさいな言葉だった。前置きも何もない。
 唐突に飛び込んで来た名に誰もが面食らい、息を詰めている。
「西方公? 西方公がと言ったのか。ロットバルト、どういう事だ」
 グランスレイの声には咎める響きが確かにあった。
 西方公――もしくは他の四大公爵家の誰であっても、今の状況の中に簡単に名前が挙がっていい存在ではない。
 ロットバルトは一人一人の様子を確認した。
 驚きと疑問。
 今示されたのは、当然出て然るべき反応だ。
 問題はここからどのように、自分の推論を検討の余地のあるものとして捉えられるよう導くか。
 およそロットバルト自身、今のこの考えを導いたものは、ひどく感覚的で胡乱うろんな論拠だと思っていた。
 だが、不確定な状況や立場上の配慮から口を閉ざす――今回のレガージュの混乱と事態の停滞を招いた最大の要因は、その対応にある。
 反面、ファルシオンとスランザールがいるこの場では、近衛師団内部で単なる憶測を口にするのとは全く違う。慎重に、しかし検討の余地無しと遮断される前に、速やかに話を進めなくてはいけない。
「――もう少し相応しい表現で言い換えるならば、西方公がマリの船員を救った可能性が少なくないと……、そう考えられる要素がある、という事になります」
「西方公がマリの船員を救った?」
 救った、というその言葉を聞いて、グランスレイやフレイザーは明らかにほっと表情を緩めた。受け止め易い言葉だったからだ。
「そうです」
 実際はそれ以上の関わりを想定する事さえできたが、この場で口にできるのはあくまでもこの範囲までだ。それ以上踏み込もうとするのなら、あたかも結果としてその結論に行き着いたかのように引き出すしかない。
 そしてロットバルトは、踏み込む必要があると考えていた。
「……要素とは何じゃ」
 スランザールが一歩近付く。
「そなたがそう考えた原因は――、今ここで議論に挙げるからには軽いものではなかろう」
 豊かな眉と皺の奥に隠れた小さな眼に、鋭い光が浮かんでいる。予想以上の厳しい色だった。
 その光が何を表しているのか、それがまだ判らない。一旦、ロットバルトは方向を変えた。
「この潮の香――王都ではほとんど嗅ぐ事の無いものだと思いますが」
 問いかけるような言葉には、一番始めにフレイザーが頷いた。
「そうね、言われてみれば」
「例えば――そうですね、少し手を加えて煮詰めるなどした上で、香水にして、夜会の席にいかがです?」
「煮詰めてって」フレイザーは想像しにくそうに眉間に皺を寄せた。
「……正直言って着飾った席じゃ好まれないと思うわ、それ。この香りのままならまだしもだけど。それに大体、南方の品を扱う雑貨屋とかも、香水は花とか果物の香りよね」
 そう言ってから興味深そうに翡翠の瞳を閃かせた。「でも私より、貴方の方がもっと詳しいんじゃないの? そういうものを贈り慣れていそうじゃない」
「具体的な品はあまり知らないんですよ。香水というのは贈るには少々面倒な代物で」
「ロットバルト、一体何の話をしている」
 グランスレイが戸惑いと呆れの両方を含んで会話を止める。今の状況を思い出してフレイザーは照れ臭そうに軽く咳払いをした。
「それで、香水がどうしたの」
 ロットバルトは口の端に、微かに笑みを浮かべた。
「失礼しました。――つまり考えられる要素とは、この独特の香りです」
「香り――」
 幾つかの視線が開かれた窓に向かう。風が時折窓にかかる日除け布を揺らしている。
「この香――、匂いと言った方が相応しいでしょうが、これよりももっと強くこごった独特の匂いが、マリの船員の病室に籠もっていました。治療に当たっている法術士の話では、太陽と潮に晒されて海を漂っていた時に、身体に染み付いたものだという事です」
 言葉を紡ぎながら、ロットバルトはまだ敢えて、誰とも目線を合わせなかった。
 あくまでも疑問点の提示のみ、まずはルシファーがこの件に関わっている可能性があると想定させ、意識の隅に置かせる事だ。
「船員が救助されたのは五日前の夕刻――ちょうど王都では、西方公の夜会が開かれていた時刻です」
「あの時?」
 思い当たってレオアリスが顔を上げる。
「そう言えばお前は西方公と少し話をしてたな」
 ルシファーが、エアリディアルを居城まで護衛するようにと、レオアリス達に告げた。それが少し慣例から外れた依頼だった為に、ロットバルトはその事を確かめに行ったのだ。
「じゃあもしかして、西方公が、この香りを?」
 フレイザーは香りを確かめるように、自分の髪に触れた。
「これじゃなくて、つまりもっとキツいものだってことね――」
「ごく僅かの間です。話をしていた時に漂っていて、珍しい香だったのでそう尋ねた時には、消えるところでしたが」
 尋ねた時に、微笑んだ。
『もう消えるわ――残念ね』
 消える――、いや、消した。
 残念、とは。
 それがいずれ何かしらの意味を持つと、そう思っていたからではないのか。
「レガージュに来て先ほどの丘で、海から吹き上がる風に、ふと思い出しました。しかしそれ以上に、マリの船員の身に染み付いた匂いが同じだと、そう感じました」
「なるほど――お前の言っている事は判る。確かに王都には無いものならば、単なる偶然とも言い切れん。時間帯も一致している」
 グランスレイはそう言って、しかしまだ慎重な口振りのまま、腕を厚い胸の前で組みロットバルトを見た。
「だが偶然にも西方公がお救いになったのなら、まず昨日の軍議の場でそう報告があってしかるべきではないのか――? マリの船員を救った時には気付いておられなかったとしても、あの軍議では関連がある事に気付かれるだろう」
 グランスレイも昨日の軍議の場にいて、やり取りを見ていた。
「軍議の折、西方公は」
 あの時、ルシファーは詰問に近い口調でレオアリスとレガージュの街との関わりを問い質した。
 グランスレイは少なからず焦りを覚え、周囲も訝しく感じるほど、常に無い厳しい様子だった。
 グランスレイの面に、ふっと疑念の色が差す。
「――あの時の西方公は、確かに普段と変わっておられた。しかし」
 その続きは口を閉ざして発されなかった。細めた瞳を研かれた床の上に落としている。
 どくり、と誰かの鼓動が鳴る。
「もし西方公が、マリの船員を」
 フレイザーもそこから先を迷ったが、助けた、と、その言葉に落ち着きたがっているのが、レオアリスにも判る。
 だが何かがそれを妨げているような感覚が、今の室内にあった。
 単純に誰がというのではなく、全体の空気のようなものだ。
「――」
 レオアリスはふと、身体のうちに意識を落とした。
 ごくゆっくりと、剣が脈打つように感じたからだが、それははっきしりた感覚になる前にすぐ収まった。
「――例えば、西方公が船員を助けた事でマリの船が沈んだ事を知って、レガージュ船団の船がマリの交易船を沈めたと、そう考えておいでだったのか――穿ち過ぎかもしれないが」
 そう言いながらレオアリスはロットバルトを見て、彼が瞳に先ほどまでとは違う、厳しい色を浮かべて何かに視線を据えているのに気が付いた。
(何だ――何を見て)
 視線を辿った先には、スランザールがいた。
 僅かに、息を呑む。
 スランザールは苦いものを飲み込んだように、面に深く皺を刻んでいる。
 レオアリスの視線に気付き、束の間じっと、レオアリスの瞳を見返した。
「――スランザール公、何か思い当たる事が?」
 そう尋ねるのは何故か、労力が必要だった。
 スランザールは意識しなければ気付かないくらいの沈黙の後、皺ぶいた顔に漂然とした表情を戻した。
「この件、ひとまずわしが預かる。直接尋ねてみねば真偽は判らん。早急に一度、ルシファーに問おう」
 ロットバルトが卓を回り、スランザールの斜め前に立った。
「老公――、もしお許し頂ければ、私が直接訪ねますが」
「ならん!」
 きっぱりと撥ね付けた後、スランザールはゆっくりとした動作で卓の上に両手を組み、ロットバルトを見上げた。
「わしから、この後すぐにでも確認を入れる。この件はこれまでとせよ。だが」
 皺に埋もれた鋭い瞳が一人一人を見回し、レオアリスの上にも束の間とどまった後、逸らされる。
「――様々なものに、注意を怠るでない」
(――)
 暗示的な表現だ、とレオアリスには思えた。
 それとも考え過ぎ、だろうか。
「ザインの推測は丸きり無視するものでもないじゃろう。先のビュルゲルの動き然り、来月の条約再締結の儀に向けて、不穏な動きに意識を張り巡らせる事も重要じゃ」
 スランザールの言葉通り、今のレガージュには関連が不明確だが、どれも決して小さくはない問題が散りばめられている。
 ザインの示す西海。
 ザイン自身。
 西方公ルシファーの行動。
 マリの船の沈没を取り巻いて、複数の問題が次々とレオアリス達の前に示された。
 王都が考えていた以上に、全体像が深く沈み込み見えにくい。
「しかしあくまでこれは我が国とマリ王国との会談。よしんばザインの推測通り、三の戟が絡んでいたとしても」
 レオアリスは窓の外、輝く海とそこに浮かぶ十隻もの軍船に視線を向けた。
「まるで無関係なものとして、この会談を終わらせるのじゃ」
 スランザールの言葉が室内を巡る。
 その為に、レオアリス達はこのレガージュに来たのだ。
 レオアリスが左腕を胸に当て、グランスレイ達が続く。
 室内の空気がぐっと引き締まった。
「承知致しました」





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