十二
船はゆっくりした動きで桟橋を離れた。
フィオリ・アル・レガージュの旗を降ろし、一隻の護衛船すら付けずに、片側八本の櫂が波を掻いて進む。
旗を降ろし護衛船を付けず、と、それがマリ王国の指定だ。
自らの誇りとも言うべき旗を降ろす事によって、恭順の意を示せと言っている。
だが一つ異なるのは、レガージュの旗の代わりと言わんばかりに、漆黒の旗が翻っている事だった。
遠見筒の中に翻る近衛師団旗を眺め、メネゼスは片頬に凄味のある笑みを刷いた。
「さて、こいつはどう捉えるべきだ?」
筒を降ろして傍らの副官を眺める。ヒュウ、と強い風が一度二人の間を抜けた。
「確かにレガージュの旗を降ろしちゃいるが、果たして我々の要求通りと言えるかね」
「自らの置かれた立場を良く判っていないのでしょう。火球砲を一撃してやれば目が覚めます」
「当然こっちはそう捉える――そいつを理解してない訳は無いと思うがな」メネゼスは隻眼で船を睨み、慎重に呟いた。近衛師団が前方の丘に現われた時、敢えて隊列を示して到着を知らせたのは、交渉に向けた一手だ。
駆け引きというものを熟知しているとメネゼスは受け取った。
「つまりそれだけ、掲げてる玉が派手って事か……」
「提督?」
「――まあ、火球砲は止めとけ。今さら威したって面倒だ」
メネゼスは近付いてくる船を睥睨しながら唇を歪めた。
ぐぐ、と船体が波に押されて揺れる。
今日は大陸から時折強い風が吹き、波も幾分荒かった。
風の具合からすれば、船が船団に接舷する頃にはちょうど二刻、指定の刻限だ。
「予定通り話し合いが始められそうだな。ローデンの客人を呼んでやれ」
「ローデンの使者殿――セルメット殿」
マリの水兵が扉を叩いて呼ぶのがくぐもって聞こえる。
「もう少しでレガージュから国使が到着します。メネゼス提督が、共に面会の場にお立ち合い頂くようにと」
セルメット――ヴェパールは扉を睨み、そして室内を見回した。
「使者殿」
「――少々待たれよ」
「お急ぎください」
扉の向こうで水兵が姿勢を直したのが気配で判る。
さほど広くはない船室は、首を半分巡らさなくても隅々まで見て取れた。
そこにはヴェパール以外、誰の影もない。
苛々とヴェパールは裂け目のような薄い唇を噛み締めた。
「何故来ない――」
マリとレガージュの会談の前に、ここを訪ねて来るはずだったのだ。この船室、と指定した訳ではないが、会談の時刻は告げた。
よもやヴェパールの居所が判らなかったなどとは言うまい。
「まさか、裏切るおつもりか」
「使者殿――会談が始まります。始まった後ではお入りいただけないがよろしいか」
再びマリの水兵の声が急かす。
船室の空気はそよとも揺らがない。
来ないつもりか。
「使者殿」
「――今、行く」
ぶるり、と身を揺すり、ヴェパールはセルメットの姿を取って扉を開けた。
廊下へ出て水兵が扉を閉じる間、もう一度だけ室内に視線を投げた。
部屋の赤茶けた木板の腰壁が、誰もいない事を主張しているようだ。
「――」
来ない事は彼等にとって、どの程度の問題か。
「セルメット殿、ご案内致します」
水兵が先に立って細い廊下を歩いて行く。
セルメットは踵を返した。
――来なければ来ない、別にそれだけの事だ。
もともと員数外――彼が駒に組み込んでいた訳でもない。
この先も、あの気紛れな存在を要素に組み込んで考えるつもりはない。
ただ混乱を一つ、与え損ねた。
それが残念だった。
甲板への扉を開けると、高い帆柱の先端に、青く抜けるような空を背景にして翻る漆黒の旗が見える。
風は大陸から吹いている。
「ロットバルト」
レオアリスは揺れる船体を足に感じながら、飛竜とどちらが揺れるだろうと、そう考えた。取り敢えず、王都の穏やかな運河を行く船とは全く違う。
甲板に立っていたロットバルトがレオアリスの所へ来る前に、その隣に立った。自分が出てきた船室への扉に目をやり、戻す。
「スランザールから何か返りはあったか」
近くに隊士や船員はいなかったが、それでも内容を考えて声を抑えた。ロットバルトの返答も低い。
「特には、まだ」
「――正直俺は、気になった。お前があの時気付いたスランザールの表情を、俺も見たからな」
互いにちらりと視線を交わす。
「グランスレイやフレイザーも多分違和感を感じてる。――できるなら、マリとの交渉の前にある程度結論が欲しかったが――それも仕方ないか……」
事が事だ。スランザールはすぐにでも確認すると言っていたが、そう簡単な話では無いのは充分に判る。
だが、決して無視できない重要な事だと、そう思う。
僅かでも状況が掴めれば。
ふと、アスタロトにそれとなく尋ねてみたら、という考えが浮かんだ。
ルシファーとは親しい。最近の様子で、何か気付いている事があるかもしれない。
カイを送って――
(いや――)
そこまで考えて、レオアリスは心の中で首を振った。
それは少し、拙速だろう。様子を尋ねるだけのつもりでも、アスタロトの性格ではルシファーに直接問いかねない。
今回、それは避けるべき事のように思えた。
何故という訳ではないが――ただ、あの時のスランザールの表情が、レオアリスの意識に引っ掛かっている。
(最近――そういえばあいつ、元気が無かったんだったな)
様子がいつもと違うと、そう思うようになったのは、つい最近だ。
それは僅かに意識に爪を立て、だが何とも繋がらずに漂った。
あの時――ファルシオンの祝賀の宴で、アスタロトがルシファーといた、あの時の変化をレオアリスが見ていたら、もっと違った考えになったかもしれない。
王都にカイを送り、今のアスタロトが置かれている状況は、少なくともこの時点でレオアリスに伝わった。
アーシアの抱える不安も。
ただそれを知ったところで、今すぐ王都に取って返す事などできないが。
レオアリスは傍らのロットバルトを見上げた。
「お前は初めから、単純に『助けた』と思ってる訳じゃ無いだろう」
慎重にそう口にしたが、ロットバルトはあっさり頷いた。
「そうですね。ですがこの件は、簡単にその議論に進んでも困ると、そうも思っています」
「……その率直さが逆に厄介だな」
レオアリスは溜息をついた。そんな事は微塵も考えていなかったと、そう返して欲しかったのも事実だった。
危険とさえ言える考えを隠さないという事は、隠す段階を過ぎたのだ。
一つ、その段階は確実に、先ほどのスランザールの反応だろう。
「――」
「伏せられ隠されているものは、我々が想像する以上に多い」
「何だ?」
「以前老公が口にされた言葉です」イリヤの過去を探っていた時に、スランザールはそう忠告した。「国を立ち行かせるには、情報の秘匿なども当然の手段でもあるでしょう」
「――この件は、そこに近いものだと思うのか?」
「どこまでか――、それが判りませんが」
「陛下も」
ご存知だろうか、と口にしかけ、レオアリスはそれを飲み込んだ。
何故だか、先ほどのザインの顔が思い浮かぶ。
そこにある関連に気付く前に、レオアリスは半ば無意識にその連想を打ち消した。
思考を切り替え視線を転じれば、行く手を遮るように並ぶ、マリ王国海軍の陽炎のような船影が見える。
レガージュの港を睥睨する火球砲の砲門は、まだ静まったままだ。
「師団旗に気付いていない訳はないと思いますが――メネゼスという指揮官、さすがに場慣れしているようですね」
「話はしやすそうだが、その分俺達がはっきりした証拠を示さないと納得も得られないだろうな」
風が強く吹き抜ける。帆が風を孕んで激しい音を立てた。
帆から流れ落ちた風がレオアリスの黒髪を煽り、肩から流れる長布を巻き上げる。
レオアリスは風の流れを逆に辿り、視線を巡らせた。
レガージュの街の向こう、丘を越えて吹いて来る風。
「――上将?」
じっとレガージュの方向を見つめているレオアリスに気付いて、ロットバルトが問い掛ける。
「どうかしましたか」
「――いや」首を振り、レオアリスは視線を下ろした。「もう四半刻で着く。殿下やスランザールと最終確認をしないとな」
船室への扉を潜る前に、レオアリスはもう一度、風の吹いて来る先を見つめた。
そこは常に、岸壁の下に打ち寄せる波の音が穏やかに鳴っていた。
レガージュの街から少し離れた岸壁の上に、小さな屋敷がある。浅い山型の橙色の瓦屋根に白い漆喰の壁、窓や玄関は木枠に松脂を塗っただけのものだ。
素朴で田舎家然とし、屋敷とは言いながら王都に建ち並ぶそれのような派手さは無い。
古い、今では造られなくなった建築様式は、詳しい者が見れば大戦以前のものだと気付き、そして驚いただろう。
屋根の瓦や漆喰の壁は、少なく見積もっても三百年余の歳月を経ているはずだが、そうは思えないほど美しく保たれている。
ただし鎧戸の開いたどの窓にも、住人の気配は感じられない。
屋敷は花壇や菜園に囲まれて緑豊かだが、しばらく手を入れる者はいないようだった。よく見ればこの季節には早い秋桜が咲いている。
この屋敷の周りだけ時が止まっているような、そんな印象を受けた。
軽い羽音が立ち、緑色の羽をした小さな鳥が花壇の傍に降りる。小鳥は煉瓦に蒸した柔らかな緑の苔をついばもうと嘴を伸ばしたが、何度か小首を傾げて丸い瞳を瞬かせた後、飛び立った。
薄い雲をちりばめた南の空へ飛んで行く。
小鳥を追って視線を向ければ屋敷の左手のずっと遠く、白い小さな丸屋根が見える。
約半里ほど離れた場所にある、フィオリ・アル・レガージュの港を守る灯台の屋根だ。
この場所から街の姿は見えない。
ふわり、と風が吹いた。
風は屋敷全体を撫でるように吹き抜けた。花壇や周囲の草木が揺れる。
風が止んだ後
屋敷の姿が一瞬、歪んだように思えた。
しばらくの間しんと静まり返り――、からりと、どこかで小さな音がした。
二階の屋根の瓦がひと欠けら、一階の張り出した三角屋根の上に落ちていた。たった今欠けた事を証明するような、鮮やかな橙色の断面を覗かせている。
続けてカラカラと、瓦が細かい欠けらを零していく。
見ればそこかしこでカラカラと瓦の欠けらが零れ落ちていた。
いつの間にか瓦には無数の皹が走り、それは音もなくしかし素早く、屋根から壁へ伝わり侵して行く。
漆喰の壁が剥がれる。窓がひび割れ、砂のように崩れた。
まるで止まっていた時が動き出したかのように、屋敷は静かに崩壊していた。
屋根がすっかり崩れ、壁と床と柱が剥き出しになる。
終焉――残滓。
頂点に近い場所にある太陽の光が、朽ちていく屋敷の上に一つの影を落としている。
影に融けるような声が落ちる。それは聞く者の耳を涼やかに捉え、ただ鋭い刃を含んでいた。
「忘れない――」
地上に崩れた屋敷を見つめ、くすりと小さく笑う。
真剣な、必死な瞳でそう言った、あの少女はまだ幼い。
想いの強さと永遠を無条件に信じているほどに。
「全てはいずれ、風化して消えていくのにね」
時が全てを、容赦なく運んで行く。
止めようとすればそれは、歪な抜け殻になるだけだ。
美しく、ただ緩慢に。
それが耐えられない者と慣れる者と尚、求める者と。
視線が先ほど飛び去った小鳥を追うように、空を横切り、白い灯台の向こうに落ちる。
「――もし、この先もずっと、抱え続けるのなら……」
歌うように呟き、遥か遠くに、海面に浮かぶマリ王国海軍の船団の影を見つめた。
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