第五章「カトゥシュ封鎖」 (六)
月が変わり、ここ数日のうちに、雪はゆっくりと溶け始めた。林や道の脇を流れる小川の水量が増して静かな景色に音の彩りを添え、樹々の枝には蕾が雫を纏って光を弾き、緑の芽も雪の下から遠慮がちな顔を覗かせている。
だが、この北の辺境に暖かい春が完全に訪れるには、まだ少し日数が必要だ。王都が初夏に移る頃になってようやく、短い春の盛りとなる。
「…今年は例年より、雪解けは遅いようですな」
濃い灰色の長衣に身を包んだ男は、小さい窓から見える雪景色に向けていた眼を、囲炉裏の反対側に座るカイルとエンキにの上に戻した。屋外は雪に太陽光が反射し眩しく輝いていて、その窓は薄暗い室内に唯一、白く四角い光源を切り取ったように見える。
裏腹の室内の陰り。
「……王都ではすっかり春です。飛竜でこの辺りを眺めて驚きました。雪が急に深くなるようです」
「北の果てですからな。……その辺鄙な土地まで毎年ご下賜をいただける事を、ありがたいと思っております」
そう言ってカイルは丁寧に頭を下げた。王都からの使者を迎えたのはカイルとエンキの二人だけだ。
予定より二日早く、今日の午後遅くにやってきた使者は三人。濃い灰色の長衣を纏った年配の男と薄灰の長衣の若い女性、それから長衣ではない、剣を持った護衛官が一人。護衛官は服装から、軍属ではない事が判る。
使者の纏う長衣の肩から胸、背中にかけては、光沢のある白い糸で、一本の樹木が光に浮き上がるように刺繍されている。豊かに枝葉を茂らせた樹木は王立学術院の紋章であり、また王立文書宮の象徴でもあった。
彼等は、王立文書宮に属する文書官達だ。
年配のジェリドという男だけは、毎年この村を訪れていた。だが毎年顔を合わせていても、礼儀を失わない代わりに、一定の線を引いたように親しくもならなかった。
「一年は早いものです」
ジェリドは一度言葉を切ると、カイルとエンキを見渡した。手前に置かれた茶を持ち上げ、一口含む。漂った芳香に、少しだけ厳しい口元を緩めた。
「ピールの葉ですね。香りが高い」
「今年の葉です。ようやく雪の下に見かけるようになりましてな」
「それはいい。北の地に春を告げる草だ」
場繋ぎのような短い会話は、すぐに沈黙に変わる。
エンキは居心地悪く、尻を動かした。使者が運んできた書物の木箱は既に受領し、囲炉裏の左側、ちょうど使者とエンキ達の中間ほどに置かれている。
用は済んだのだから、早く王都へ帰ってくれと、エンキは心の中で呟く。
だが彼等は待っている。毎年の事だ。
彼等はレオアリスが姿を見せるのを待っていて、中々ここにやって来ない事を訝しんでいた。
訪れてから既に半刻、穏やさを崩さないジェリドの後ろで、若い女性の文書官が苛立っているのが判る。王都からの使者を待たせるとは何事かと、そんな顔つきだ。
カイル達が一向にレオアリスを呼ぼうとも話題に出そうともしないので、彼女は苛立ちを募らせていた。途切れた会話に続く沈黙に焦れたように、ジェリドへ少し膝を寄せた。
「ジェリド師官、彼は」
「まあ待ちなさい」
声に尖った響きを滲ませた部下をあくまで穏やかに宥め、ジェリドはカイル達に身体を戻した。
「失礼。彼女は彼に会うのを楽しみにしていましてね」
さすがに白々しいと思ったのか、ジェリドは口元に刻まれた皺を上げるように笑った。
「いや――それで、今日は彼は」
エンキはひやりと息を詰めたが、カイルは表情を変えないまま、胸の辺りまで頭を下げた。
「申し訳ない。どうしても火急の用がございましてな。隣街へ使いに行っております。明日の夜か明後日の朝には戻るでしょう」
カイルはレオアリスが村を出た事を正直に告げる気はなく、使者が予定より早く訪れた事を利用するつもりだった。エンキはじっとそれを聞いている。
「おや…それは」
「あなた方にご挨拶できない事を残念がっておりました。あれはいつも、もっと王都や外のお話を聞きたいようで。あの年ならではの好奇心でしょうな」
「――それは、残念です。早めに訪れたのが悪かった」
「後日文にてお礼を述べさせるつもりです。来年また、改めてご挨拶させていただきます」
女性の文書官は納得が行かないのか眉を寄せて、カイル達を威嚇するような瞳を向けた。
「失礼ながら、わざわざ王都からこうして文書管理官長が訪ねてきたというのに、いささか心構えが足りないのではありませんか。彼との対面も」
「イレーヌ」
ジェリドは穏やかな口調のまま、視線だけを彼女へ向け、イレーヌと呼ばれた文書官はさっと口を引き締めた。
「出過ぎた真似をいたしました。しかしジェリド師官」
ジェリドは彼女に構わずカイルに頷いた。
「文ですか、楽しみにしています。……しかし当然、我々だけの意志でこちらに参っている訳ではございません。我々にも報告義務というものがあります故、少々急いた事も申し上げた。ご容赦いただきたい」
「――」
ジェリドの顔は穏やかだ。それでも彼の背後に存在する意志に、カイルとエンキは息苦しささえ覚えた。
『いずれ、王都に』
過去の記憶、遠い、明け方の薄い光の中で聞いた、深く威厳に満ちた声が甦る。
カイルはそれを消してしまいたかった。
ただ、王都から送られる書物、それを望んだのも自分だ。
囲炉裏の傍らに置かれた木箱を眺める。
(……もう、必要ないものだ)
レオアリスの為に望んだものだった。彼がこの閉ざされた辺境の地で僅かなりとも知識を身に付け、世界を知る事ができるように。
それが、レオアリスを王都への想いに向けさせ、一方でこの地に縛ったのかもしれない。これまであやうい均衡を保っていたその二つのせめぎ合いが、今回の御前試合をきっかけに崩れた。
レオアリスの中で急速に、王都への憧れが深くなり、色を濃くしていった。
『王に仕える事だってできるかもしれないだろ』
(何を馬鹿な)
王都は――王は彼にとってそんなものではないと、そう言えば良かっただろうか。
彼に、真実を。
だが、そうなれば、彼は違う道を選んでいたかもしれない。全く違う、想いで。
それもカイル達の望みとは違う。
ふと戸口の向こうで、猫の鳴き声がした。
二回、間を置いて更に二回。何かを呼ぶようだ。
ジェリドは顔を上げ、一度戸口へと視線を向けた。後ろに控えていたイレーヌへ合図すると、イレーヌは頷いて立ち上がる。
「失礼。外に使いが来ているようです」
まだ自分の思いに沈んだままイレーヌが扉を出るのを目で追っていたカイルは、ジェリドの言葉に視線を戻した。
「使い? ……王都からですか」
「そのようです」
沈黙が室内に落ちる。
じっと何かを待つように、カイルとエンキは息を詰めた。
ほどなくしてイレーヌは戻ってくると、上官の傍らに膝をつき、何事か耳打ちした。ジェリドの顔に驚きが満ち、すぐに厳しく引き締められる。
ジェリドは微かに眉をひそめ、束の間思案するように口元に手を当てた。
「黒竜……。それでこことは、いささか安易過ぎるのではないか」
口の中で呟かれた言葉は、カイル達には聞き取れなかった。だが、嫌な感覚を覚え、カイルはジェリドを見つめた。
「何か」
「いえ――」
ジェリドはまだ思案顔で、視線を自分の膝辺りに落としている。何度か指先で膝を叩いたあと、ジェリドは顔を上げた。その上には先ほどまでとは違う、測るような色がある。
「……あなた方は、黒竜がヴィジャから飛んだのをご存知ですか」
ジェリドの言葉は唐突で、カイル達は顔を見合わせた。
「何と……?」
「黒竜です。ヴィジャの奥で眠っていたものが、目覚めたらしいのです」
「――それは」
エンキは思わずといったように、語尾に笑いを含んだ。ジェリドは不快な顔もせずに頷く。
「単なる伝聞伝承の類いとお思いになるのも無理はありません。私も街中で耳にする程度ならそう思います」
「今の使者が?」
「そうです。今しがた王都から伝令使が緊急の報を持って来ました。黒竜がヴィジャを飛び立ち、西方のカトゥシュ森林に降りたと」
伝令使とは伝令を運ぶ使い魔の事で、彼等は数百里、それこそ王都とこの辺境部を瞬きの間に移動することが可能だ。言葉を覚えこみ、言葉を伝える。
ただ多量の情報は運べないため、有事の際の第一報など、緊急時に使用される事が多い。カイルが以前肩に乗せていた雛鳥も、伝令使の類だ。
「正規軍はカトゥシュ森林一帯を封鎖する決定をしたようです」
「――」
カイルの羽毛に覆われた顔が次第に厳しくなる。
「カトゥシュ……」
傍らのエンキはその名前に、瞳の光をさっと変えた。
「王の、御前の」
「良くご存知ですな。そこの飛竜の宝玉を得るのが、今回の御前試合の出場資格です」
エンキは今にも立ち上がりそうに、囲炉裏ばたで身体を動かした。
「……森に入っている者は、どうなるのじゃ。軍の救助があるのか?」
ジェリドはエンキの上擦った声に、訝しそうに目を開いた。
「いえ、軍は」
ジェリドの言葉を、カイルが尖った声で遮る。
「それをわしらに言って、どうするつもりじゃ」
束の間、沈黙が落ちた。
三人の使者達の視線が、囲炉裏の反対側に座るカイルとエンキを探るように見つめる。逆にカイル達も、使者を睨み返した。
薄い膜で覆い取り繕っていたものが、次第に破れ、隠されていたものを曝け出していくようだ。もともと有って無いような膜だ。
ジェリドがゆっくりと息を吐く。思慮深い灰色の瞳が、注意深くカイル達に向けられた。
「――可能性があるかと思ったのです」
低い、ざらついた声だ。カイルはその声に神経を逆撫でされるような気がした。
「可能性じゃと……?」
「風竜を幣したのと同様に、黒竜を幣す事ができるのか」
「――王のご指示か」
カイルは詰問のようにジェリドを睨み付けたが、彼は驚いた様子で首を振った。
「それは違います。正規軍が、可能性を知りたがっていて、私に。今の使者は、南方将軍閣下からです。ですから正規軍の正式な考えとも違うでしょう」
カイルは落ち窪んだ瞳をじっと使者に向けている。その会話の中心に誰がいるのか、双方とも口には出さない。
ややあって、カイルは込み上げる苛立ちを抑えるために静かに息を吐いた。
可能性があれば?
あったら何だ。
利用しようと言うのか。
「知らん」
断ち切るように吐き出した。本当に断ち切れればいいと、カイルは思う。
過去など。
王都など。
「……判りました。不快な事を申し上げた」
ジェリドは丁寧に頭を下げたが、カイルは口を閉ざしたままだった。その横でエンキが落ち着かない様子でカイルと使者を見つめている。
エンキには、今、彼等が交わしている言葉の指すものなど、どうでもよかった。そんな事よりも、もっと恐ろしい事実がある。
レオアリスは、カトゥシュへ行ったのだ。まだ辿り着いてはいないかもしれない。
だがもし、辿り着いていたら――。
エンキの不安、そして問いかけるような眼に気付いていないはずがないのに、カイルは厳しい顔を真っ直ぐ使者達に向けたままだ。
しばし睨み合う様な沈黙が続いた後、それを和らげるように息をつき、ジェリドは退意を告げて立ち上がった。
「それでは、今回はこれでお暇させていただきます。また来年お会いいたしましょう。その時は彼の姿も見られるでしょうな」
丁寧に礼をして立ち去りかけたジェリド達を目で追いながら、エンキはぐっと膝の上で震える手を握り締めていた。
扉が閉まりかける寸前で、エンキは腰を浮かした。
「待ってくれ」
カイルが咎めるようにエンキの服の裾を掴む。だがエンキはカイルの手を振り払い、振り返ったジェリドの前に立った。
「あれは――おそらくカトゥシュに向かった」
「エンキ!」
鋭い声に、エンキがさっとカイルを睨みつける。
「あの子を見捨てるつもりか? 軍に助けを求めるべきじゃ!」
エンキの言葉と、二人が睨み合う様子に、使者達が顔を見合わせる。
「――どういう事ですか」
「御前試合の資格じゃ。それを取りに行った」
「エンキ! 王都になど」
「わしらに何が出来る! あの時、何か出来たのか!」
室内に痛いほどの沈黙が落ちる。カイルはエンキを睨み付けていた瞳を、床の上に落とした。
「……彼が――あの子供が、王の御前試合に出ると?」
はっとして、エンキは顔を上げた。ジェリドの声には今の不安など覆い隠してしまうほどの、暗い可能性があった。
エンキの胸の中に苦いものが沸き上がる。ジェリドは一歩踏み出した。
「彼はどこまで知っているのですか?」
「何も……何も知らん」
「まさか。では何故御前試合に出ようなどと」
「知らんからこそ、御前試合に出ようとしているんじゃろうが! 知っとったら御前試合に出ようなどとは思わん!」
エンキの叫び交じりの声に、使者達は顔を見合わせた。交わされる視線が含むのは、半信半疑の色だ。
何を、どこまで信じればいいか。もしくは、信じたふりをすればいいか。
ややあって、ジェリドはエンキに顔を戻した。
「事実、彼はカトゥシュへ行ったのですな。王都ではなく」
エンキは自らの失敗を恐れるように視線を逸らせた。
「くどい。竜の宝玉が御前の条件なんじゃろう。あれが目指しているのはそれだけじゃ」
「――判りました。とにかく、王都へ伝えましょう」
ジェリドはもう一度カイル達に頭を下げ、それから戸口を出た。口を閉ざし立ち竦んでいるエンキの代わりに、カイルが戸外へと出る。
村の中央にある広場の片隅に、使者達が王都から乗ってきた飛竜が翼を休めているのが見える。ジェリドはカイルが歩み寄るのを待って、それから飛竜へと歩き出した。
「今後は、カトゥシュに近づく者は軍によって差し止められます。カトゥシュを目指しているのならば、いずれ軍から報せが来るでしょう」
「――」
「ただ、もう森に入っていた場合は、残念ながら判りません。黒森ほどではないにせよ、カトゥシュは広いですからな。その中から探し出すのは――」
ジェリドはカイルの様子に気付き、口を閉ざした。
「失礼。ともかく、彼の情報があれば、あなた方にお知らせするようにしましょう」
飛竜の前で足を止め、ジェリドは俯いたままのカイルに視線を落とした。
「あまりご心配なさることは無い。王は、彼を気にかけておいでです。可能な限り、悪いようにはなさいません」
カイルの肩がピクリと震える。
『いずれ望むのであれば、我がもとへ』
「何故あんたがたは」
ジェリドは振り返ったが、カイルの言葉は口に出されずに終わった。
それは単なる苛立ちの転嫁に過ぎず、根底にあるのは自分達の力不足だ。だが、思わずにはいられなかった。
何故あなた方は、我々の大切なものを何度も奪うのかと――
ジェリド達の飛竜が紺碧の空に消え、エンキや他の村人達が傍らに集まってこれからの事を相談し始めてからも、カイルの頭の中には何度も何度も、繰り返し、その言葉が巡り続けていた。
|