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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第六章「重なる軌跡」 (二)


 白い月明りがさらさらと降り注ぐ幻想的な森の一角で、アナスタシアとレオアリスは張り詰めた空気のままじっと睨み合っていた。
 アナスタシアはいつでも炎を使えるよう掌に意識を向けていて、レオアリスは緩めてはいるものの、まだ剣の柄に右手をかけたままだ。
 一人は王都から、政略結婚を嫌って家を飛び出してきた公爵家の少女。一人は北の辺境から、王の御前試合に出る為に村を出た少年。
 二人の生れ故郷の間には二千里を越える、気の遠くなるほどの距離が横たわっている。普通であれば、一生縮まる事のないと言っていい距離だ。
 互いに目的も志も違う、同じ十四歳の彼等は、広大な森の中で、それぞれの想いを秘めて巡り合った。
 ――この状況が、巡り合ったという詩的な言葉で語れるのなら。
 二人の間に漂う空気に、友好的な雰囲気は感じられない。
「お前、何なんだ」
 アナスタシアは深紅の瞳をひたと向け、声を尖らせた。先ほど少年を包んでいた青白い光は、今は全く見えない。
 しかし、あのヒヤリとした感覚が、アナスタシアに異質なものを伝えていた。
 この相手は危険だ、と、アナスタシアの本能に訴えかける。
 冷たい、身を切るような、あの感覚。例えるなら、氷、いや、――刃だ。
 アナスタシアは視線を据えたまま、自分の長い髪を指先で探った。
 あの青白い光に触れた髪は、剃刀で切ったように、すっぱりと切れている。
(……こいつ)
 何かある。
「お前こそ一体何なんだよ」
 一方でレオアリスは、最初は訳が判らず睨み付けていたものの、相手は同年代の少女で、しかも後ろの少年からは困っておろおろと二人を見比べている様子が伝わってきて、問い返す声からも刺が失せかけている。
 目の前の少女はまだ自分を睨み付けているが、考えてみれば何でこの状況なのかがよく判らない。
 カイが肩でピイと鳴いて、それでレオアリスは剣から手を離した。ふう、と息を吐いて力を抜く。
「……あのさぁ」
「腹の中に何持ってる」
「――何?」
 唐突な問い掛けに、レオアリスは眉を寄せた。
 腹の中、というのは少しあてずっぽうの言葉だった。手を当てていた時の、勘のようなものだ。けれど口に出してみれば、それは確信に近付いた。
(何かあるんだ。こいつ――)
「あの光は何だ」
「光?」
 アナスタシアはまだ注意深く少年を探っていたが、当の本人はアナスタシアが何を言っているのか、さっぱり判っていないようだった。
 実際、レオアリス自身は、自分の変化に何も気付いていなかった。野盗の襲撃の晩、そして先ほどアナスタシアが彼から生命の欠片を集めようとした時に、身を包んだ青白い光。
 野盗の手を裂き、アナスタシアの髪を断ち切ったもの。
 自分の本来の姿を。
 これまで常に、レオアリスの使う剣は数度、悪くすれば一振りで折れた。レオアリスはそれを剣の造りのせいだと考え深く疑問に思った事は無かったが、実際の原因は違うものだ。
 だがそれを知っているのは、レオアリスではない。
 暫くして、アナスタシアの瞳からそれまでの警戒の色が薄くなった。完全に解かれた訳でもないが、自分で判っていない相手に無駄な警戒だと思っただけだ。
「何だ、自分で判ってないのかよ」
 アナスタシアの口調にどこか馬鹿にされたように感じて、レオアリスはむっとして口を開きかけ、――思い直して一度閉じた。
「――悪いけど、状況が良く解んねえんだよな。さっきっからやたら突っ掛かってくるけどさ、何か俺に用があるのか?」
 アナスタシアはじっとその姿を見つめた後、つんと顎を反らせた。
「ないよ」
「――」
 ますます眉根を寄せたレオアリスを尻目に、アナスタシアはくるりと背を向ける。相手に敵意が無いにしても、黒竜と対峙しようというこの時に、正体不明の相手とあまり関わり合いたくはない。
「行こう、アーシア」
「え、あ、はい」
 くるりと踵を返したアナスタシアを追いかけようとして、アーシアははたと足を止め、立ち尽くしているレオアリスにぺこっと頭を下げた。
「すみません、お騒がせして」
 完全に毒気を抜かれて、レオアリスは黒髪をくしゃくしゃと交ぜた。
「……いや」
「アーシア!」
 アナスタシアはもう木立の間に立っていて、厳しい瞳を二人へ向けている。申し訳なさそうに後ろを気にしながら歩き出したアーシアと、尚もレオアリスを睨んでいるアナスタシアとを交互に眺め、レオアリスは肩を竦めた。
「何なんだ」
 心の底からの呟きだが、騒いで、睨み付けて、訳の判らない事を言うだけ言って立ち去られたら、誰でもそう思うだろう。
 レオアリスは妙な脱力感と、同時に空腹を感じた。そう言えばまだ食事を取っていない。ちょっと眉を寄せてから、レオアリスは持ち前の前向きさで、あっさり気持ちを切り替える事にした。
「まぁいいや。飯でも食お」
 食事をしようと足元の袋を拾い上げたとき――、ぐぐぅ、と後ろで妙な音が響く。レオアリスは手を止めて背後を振り返った。
 あの二人が立ち去り難そうに足を止め、レオアリスをじっと見つめている。
「――何だよ。まだ何か用か?」
 まだ言いたい事があるのかとレオアリスは目付きを険しくしたが、アナスタシアは怒ったように頬を膨らませて、ぷいと横を向いただけだ。
「そ、その――」
 レオアリスの訝しげな表情に、アーシアが慌てて口を開く。
「その、僕達、食べるものが何もなくて、とても困ってるんです!」
 最後の「です!」が木立に微かなこだまを残して消えていき――、束の間、森は静まり返った。
「……はぁ?」
「アーシア! 余計な事いうなよ!」
 真っ赤になって地団駄を踏んだアナスタシアへ、アーシアはにこりと柔らかい微笑みを向けた。その見覚えのある笑みに押され、アナスタシアはぐっと黙り込み頬を膨らませる。
「エレノア叔母みたいっ」
 アーシアもそんな技を持っているとは知らなかった。社交界、特に貴婦人の高等技術だ。
「アーシアが貴婦人になればいいんだ」
 すっかり拗ねたアナスタシアを一先ず置いて、アーシアはまたレオアリスへ顔を戻した。アーシアとしては、取り敢えずアナスタシアには空腹を満たしてもらって、落ち付いてもらいたい。
 先程からアナスタシアがピリピリと尖った空気を纏っているのを、アーシアは空腹のせいだと思っていた。
 とにかく、ここを逃したら朝まで、下手したら午前中の遅い時刻まで、アナスタシアの食事がとれないかもしれないのだ。ただアーシア自身はこの草地に立ってから、何故だか随分身体が楽になっていたから、純粋にアナスタシアの空腹を考えての事だ。
「ですからその、図々しいお願いなのは判ってるんですが、もしよろしければ、その、余っていれば、少し、いただけないかと……」
「――飯?」
 レオアリスが自分の手元の袋を持ち上げる。アーシアは勢い良く頷き、頭を下げた。
「お願いします!」
 アーシアが深々と頭を下げたのを見て、アナスタシアはまた頬を膨らませている。
「――」
(何だかなあ)
 レオアリスとしては、ついさっきまで喧嘩を売ってきていたじゃないかと内心思わないでも無かったが、あの少年の真剣な様子も良く判った。
 レオアリスも食事をしたいところだし、こんなに頭を下げられて、腹の虫まで聞かされては無下に断るのも気が咎める。それに、昨日はレオアリス自身がマリーンの商隊に拾ってもらったばかりだ。
 自分は親切にしてもらって、他人に何もしないのでは彼等に申し訳が立たない。
 あの少女には腹が立つがここは気持ち良く了承しようと、レオアリスは頷いた。
「大したモンないけど、それで良けりゃ」
「ありがとうございます!」
 アーシアはパッと顔を輝かせると、輝く笑顔のまま、まだむくれているアナスタシアの手を取った。


「じゃあ焚き火作るから、手伝ってもらえるか?」
 レオアリスは草地に焚き火が作れることを確認して、アーシアを振り返った。アナスタシアはというと、草地の入り口辺りに座り込み膝を抱えて顔を逸らせている。
 月の光では良く見えにくいが、アーシアは少しも嫌な素振りを見せず、素直に頷いた。
「はい。何をしましょう」
(こいつはいいヤツだなぁ)
 ついしみじみとそんな事を思いつつ、レオアリスは森を手で示した。
「取り敢えず、枝を拾う。そこら辺で」
「あ、これは使えますか?」
 アーシアは何気なく、レオアリスの足元に落ちている枝を指差した。それは昼間レオアリスが法陣に使った枝だ。
「いや、これは折ったばかりだからまだ水気があって……」
 ふと、レオアリスは枝に視線を吸い寄せられ、口を閉じた。
 法陣の上に倒れた枝。倒れた――
(――倒れた? いつだ?)
 昼間、諦めて寝転がった時には、まだ確かに枝は地面に立っていたはずだ。
 起き上がったた時だろうか。あの時は混乱していて、例え枝にぶつかっても気付かなかっただろう。
 自然に倒れたという事も考えられたが、法陣に差していた枝だというのが引っ掛かる。術士としての勘のようなものだ。
 もしかして、それが森の「答え」なら――
「ちょっと待て」
 拾い上げようとしていたアーシアの手を止めて、レオアリスは膝を付き、枝の倒れた先に目を凝らした。
(西……南に近いか?)
 レオアリスは頭上を振り仰いだが、星が枝に遮られていて正確な方角の判断が付けにくい。
「あの……?」
 アーシアは彼が何をしようとしているのか判らず、不思議そうに見つめている。
(――)
 レオアリスは諦めて立ち上がった。朝になれば、もう少し方角が見分けやすくなるだろう。
「これはこのままにしといてくれ。どうせ焚き火に使えるのは落ちて乾燥したヤツだから」
「判りました。じゃあ僕はあちらに行きますね」
 素直に頷いて自分の背後の森を示し、それからまだ黙って座ったままのアナスタシアへ「ちょっと行ってきます」と断りを入れる。アナスタシアのあるかないかの反応に苦笑を洩らし、アーシアはまた草地を出た。
「適当に、抱えられる位でいいぜ」
 そう声を掛けてレオアリスは逆の、枝が倒れた先の森へ分け入る。
 二、三歩歩いて、足を止めた。
 振り返れば、まだ月明かりの下に、倒れた枝先が見て取れる。
「――」
 その示す先の闇に視線を投げる。
 この先に、竜がいるのだろうか。
 気のせいか、そう意識するだけで、空気が質量を増すように感じられた。
 カイがちょんちょんと肩の上を伝い、レオアリスの一束だけ伸ばした髪をついばむ。くすぐったさに笑ってカイの羽を撫で、ふと手を止めてカイに視線を向けた。
「お前、見てこれるか? もう物見できる?」
 レオアリスの問いかけに、ピイと自信たっぷりな声が返る。
 その響きの幼さにレオアリスは可笑しくなって笑った。カイは高い能力を持つ使い魔だが、生まれたのはこの冬の半ばで、まだ三月も経っていない。
「ほんとかよ」
 またつんつんと髪を引っ張る。
「判った判った。信じるって」
 カイは伝令使としての能力以外にも、周辺の状況を探り、少し特殊なやり方で主へ伝える事ができる。それが物見だ。
「じいちゃんは」
 その先の言葉は紡がれなかったが、カイルは多分、その為――レオアリスの旅を助ける為に、彼をレオアリスにくれたのだろう。
 胸の奥が、じわりと温かくなる。
 カイは今から行くかと問うように、また髪を引っ張った。
「今はいいよ。明日。ゆっくり寝てな。呼ぶから」
 頭を撫でてやると、カイは首をかしげてから、溶けるように姿を消した。
 レオアリスは暫くカイが消えた肩を眺めていたが、すっと顔を上げた。
 先が、見えてきた。
 あの枝の方角をカイに探ってもらえば、もう明日中には竜に辿り着けるかもしれない。
 森の樹々がざわりと揺れる。
 レオアリスは急かされる気持ちを押さえるように深呼吸すると、焚き火の為の枝を拾い始めた。

 森の中には少し見回しただけでも、小枝が落ちているのが目につく。それを拾い集めて小脇に抱えるくらいになった頃、アーシアは再び息苦しさを感じ始めている事に気が付いた。
 先程まで薄れていた、黒竜の気配がべっとりと身を包むようだ。
 しかし、それだけ黒竜が近いのかというと、それは先ほどと変わらない。
(……何が違うんだろう)
 アナスタシアと離れたからだろうかと、首をかしげる。それでも暫く拾い続け、両手一杯になったぐらいでアーシアはまた草地に足を向けた。
 草地に出ると、一番にアナスタシアと目が合った。にこりと笑ったがぷんと顎を反らされ、アーシアは苦笑を零した。
 それから、また呼吸が楽になった事に、驚きと疑問を覚える。
 アナスタシアがいる事もあるだろう。
(でも、そうだ……)
 やはり、空気が澄んでいるせいな気がするのだ。黒竜よりも、森の気配が濃い。アーシアはその原因が何なのか、注意深く草地を見渡した。
(あ)
 土の上に、何かがある。
 歩いていって見下ろしたそこは、先程の枝が落ちている場所だ。良く見ればその下に丸い線が描かれていた。
「これ……」
 もっとしっかり見ようと手をついたとき、ちょうどレオアリスが枝を抱えて戻ってきた。
「それは法陣」
 足元に枝を下ろし、レオアリスが宙に丸を描いてみせる。
「法、陣……ですか?」
「そう。昼間術に使ったんだ。そいつは土の術式だよ」
 術と聞いてアーシアは瞳を丸くする。けれど、空気が澄んでいる理由や、呼吸が楽な理由が何となく判った気がした。法陣が森の力を集めて、ここに止めているのだ。多分この法陣は、大地の力を借りるような、優しい術なのだろう。
 そう言うと今度はレオアリスが驚いた顔をする。
「お前、術士?」
「いえ、違います。ただこの辺りは、空気がきれいだから。森がすごく感じられるっていうか」
「へぇ……そうかも。土の法陣だしな。森は土に連なるし、法陣があるだけでもちょっと影響するかもしれない」
 だから敷きっぱなしは止めろと、カイルにいつも言われているのを思い出し、レオアリスはしゃがみ込んだ。
「取り敢えず切ろう」
「え?」
「切るってのは、法陣の一部を開けて、終わらせるっつーか」
 レオアリスの説明を遮るように、アーシアは両手を上げた。
「待ってください。――問題がなければこのままにしておいていただけませんか?」
 このお陰で森の生命力がこの場に満ち、黒竜の気配が薄れているのだ。
「――いいけど。……多分」
 レオアリスはどことなく自信のなさそうな表情を浮かべたが、アーシアは礼を述べて、再びレオアリスをしみじみと眺めた。
「貴方は、術士なんですね」
「まあ……」
「すごいなぁ。初めてです、術士の方を拝見するのは」
「拝見って」
 すっかり感心しきった様子のアーシアに逆に申し訳ないような気分になって、レオアリスは小枝を拾い立ち上がった。
「とにかく、飯の支度をしようぜ。腹減ったし」
 法陣から離れた場所を選んで、小さな焚き火を作りはじめる。手際良く準備していくレオアリスを感心して眺め、アーシアはその傍らにしゃがみ込んだ。
「あっという間ですね。すごいです」
 焚き火で食材を焙る為の台まで作っている。まだ折り取ったばかりの細い枝で組まれていて、水分を保っているから燃えにくいのだという。
「すごいって……慣れてるからな。それよりそっちの束取ってくれるか? ……えっと」
 アーシアは足元の小枝の束を手渡した。
「はい。僕はアーシアといって、あの方はアナスタシア様です」
「様?」
 焚き火を組む手を一旦止めて、レオアリスは背後の二人に首を向けた。
「あ、その」
 アナスタシアは少し離れた所におとなしく座っているものの、そっぽを向いたままで、アーシアは慌てたように両手を振った。余り無用心にアナスタシアの身分が判るような事を話してしまうのは、軽率な気がしたからだ。
(そんな人じゃなさそうだけど……)
 少し後ろめたい気分になったものの、レオアリスは特に気にした様子も見せず、また手許に視線を戻した。
「いや、まあいいけど。どんなんでも」
 その言い方にぴくりとアナスタシアの肩が揺れる。
「どんなんでもって何だっ」
 尖った声が飛んできて、レオアリスは再び先程の状況を思い出した。
「……別に」
「別に? 適当な事言うなよっ」
「お前こそ、いちいち突っ掛かんなよ」
 また立ち上がって睨み合いそうな雰囲気だ。アーシアは慌てて、二人の視線を遮るように身体を置いた。
「ま、まあまあ、お二人とも」
 宥めようとするアーシアを恨めしそうに見つめて、アナスタシアは抱えた膝の間に顔を伏せた。
「ふんっアーシアのバカ!」
 アナスタシアには、あの少年への警戒や疑念がまだ解かれていない事もあったが、何よりアーシアが自分以外に親しげなのが気に入らない。
(何だよ。私より頼りになるみたいな感じでさっ)
 出逢ってからまだほんの僅かな時間でしかないが、確かにあの少年の方が落ち着いていて、焚き火の作り方も知っていて、術なんかが使えて、しかも食糧までしっかり持っている。
 自分で並べ立ててみて、余計アナスタシアは腹が立った。
(何が術士だっえらそーに! 何も判ってないじゃんか!)
 それにアーシアはいつの間にか、少し元気になったようだった。注意深く見ても、無理しているようには感じられない。
(それもあいつのせいかよ)
 アーシアは法陣がどうとか言っていたが、そんなところまで気に入らない。
 それでアナスタシアは、拗ねたようにずっと膝を抱え込んでいた。気に掛けたアーシアが近寄り、アナスタシアの傍にしゃがみこんで心配そうに覗き込む。
「アナスタシア様、大丈夫ですか?」
「――へーきっアーシアはあいつと話してれば?」
 自分が心配されるだけなのがますます気に入らなくて、アナスタシアは顔も上げずにぎゅっと膝を抱え込んだ。
「アナスタシア様」
 さすがのアーシアも、まさかアナスタシアが焼きもちを焼いているとは気付かず、不機嫌の理由が判らなくて困ったように首を傾げる。レオアリスはそれをちらっと見たものの、何も言わずにすぐ手元に視線を戻した。
 火を熾し、枝に移るのを見届けて、袋からサラの包みを取り出す。見た事もない、丸くて平べったい食べ物に、アーシアは再び立ち上がると不思議そうに近寄った。
「それは?」
「サラの根の餅。食った事無い?」
「ありません。……えっと」
「? ああ――」
 そう言えばまだ名乗ってもいなかったと、レオアリスは改めてアーシアに向き直った。
「レオアリス」
「レオアリス様。貴方の土地の食べ物ですか?」
 自分の名前とも思えない呼ばれ方をして、ぎょっとレオアリスは身を退いた。
「様ぁ? ……レオアリスでいいよ、気持ち悪ィ。第一そんな気の詰まる言い方しなくたっていいしさ」
「すみません」
「アーシアにそんな言い方するな!」
 再び飛んできた噛み付くような口調に、レオアリスは一度息を吐いた。
「――お前、いい加減」
「あ、あのすみません! 僕はこれが普通なので」
 レオアリスはアナスタシアとアーシアを見比べ、重い溜息をついた。物凄くやりにくい二人だ。
「いいけど……」
 サラの餅を台の上に載せ、焙り始める。次第に香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。
「美味しそうですね」
「これは俺の村の、ムジカじいちゃんが作ってくれたやつなんだ。焼くと美味いんだぜ」
 レオアリスが得意そうな表情を浮かべたので、見ていたアーシアには、彼がそのムジカという人物を慕っているのだろうと思え、何とはなしに安堵を覚えた。
(やっぱり悪い人じゃ無さそうだ)
 しかし、何故こんな森で眠っていたのだろうと、今更ながらアーシアは首をかしげた。彼はどう見ても、この場に一人でいて、そのムジカという人物がどこか近くにいるようにも見えない。
「レオアリス…さんは、何でここに来たんですか?」
「え?」
「この森に――」
「ああーっ! 焦げる! 裏返せ!」
「え、あっ」
 アーシアは慌てて手元の餅を引っくり返した。
「あっ焦げてます!」
 引っくり返した裏側は黒く焦げ目がついてしまっている。レオアリスはちょっと覗き込んでから、何でも無さそうに笑った。
「あー、平気、こんくらい。ちょっと叩いて剥がせば食える」
 そう言って言葉どおり、焦げ目を手早く落として行く。良かった、とアーシアはほっと胸を撫で下ろした。せっかくの食料を駄目にしてしまっては申し訳ないし、アナスタシアに食べてもらう事ができない。
 裏返した餅が丸く膨れ出したところで、レオアリスは火から取り上げ、取って来ておいた幅広の葉っぱの上に載せた。
「どーぞ。これだけだけど、結構腹一杯になるぜ」
 焼いた事で最初の倍近く膨らんで、それはほかほかと美味しそうだ。
「ありがとうございます! アナスタシア様、焼けましたよ」
 アーシアはまだ膝に額を載せたままのアナスタシアを振り返り、嬉しそうに声をかけた。
「本当は一緒に汁物とか欲しいとこだけど鍋もないしな。野菜とかと煮込んでも美味いんだけど。まあこんな森ん中じゃ仕方ない」
「鍋ならありますよ。僕持って来てます」
「え? 鍋?」
 思いがけない答えを聞いて驚いたように眼を瞠るレオアリスへ、アーシアは少し恥ずかしそうに頷き返した。
「鍋と調味料はあるんですけど、食材が無いんです」
「へぇぇ。すごいな。いや、すごいのか? フツー持って来ないよなぁ」
 自問自答して首を傾げるレオアリスに照れた笑みを返し、それからアーシアは立ち上がると、アナスタシアの傍に寄った。
「アナスタシア様、どうぞ。美味しそうですよ」
 アナスタシアはチラリとアーシアの差し出した餅を見て、再び顔を伏せた。
「……いらない」
「え?」
「そんな不味そうなモノ、食べたくない」
 口にしたその場で、もうアナスタシアは自分でも後ろめたい気持ちになったが、張ってしまった意地は中々撤回ができない。ぎゅっと強く膝を抱え込んだ。
 アーシアは慌てて、アナスタシアの前にしゃがみ込む。
「そんな、とっても美味しそうです」
「いらないったら」
「アナスタシア様」
 アーシアはすっかり困って、アナスタシアの漆黒の髪を見つめた。
「どうなさったんですか? お体の具合でも」
「……ほっとけよ。食いたくないんなら食わなきゃいい」
 レオアリスの突き放した声に、アナスタシアがぴくりと肩を揺らし、顔を上げる。
「お前なんかに貰うほど、私は落ちぶれてない!」
 さすがに腹を立てたレオアリスは、振り返ってアナスタシアを睨んだ。
「こっちだって、無理して食ってもらう必要ないね! 一生食うなっ」
 つい先ほど初めて出逢った時よりも、一層険悪になってしまっている。アーシアは戸惑うように二人を見比べた。
「アーシア、そんな奴ほっといて、お前が食っちまえ」
「いえ、僕は食べないんで」
「アーシアを呼び捨てにするな!」
「アナスタシア様」
 レオアリスは立ち上がり、二人の前まで来ると、手を腰に当ててアナスタシアを見下ろした。
「お前なぁ、いい加減にしろよ! 言いたい事があるならはっきり言え!」
 アナスタシアも負けじと立ち上がり、ぐいと睨み付ける。すっかり引っ込みがつかなくなってしまった。
「言いたい事なんかあるもんか! 単にお前がいるのがムカつくだけだ!」
「てめぇ」
「ま、待ってくださいっ!」
 今にも掴み合いになりそうで、アーシアは慌てて二人の間に割って入った。にっこり笑って二人を交互に宥める。
「喧嘩はやめましょう、喧嘩は。ほら、こんな広い森で、せっかく会えたんですし、もったいないですよ」
「私は会いたく無かった!」
「それは俺の言う事だ!」
 ぷいっと顎を逸らしてアナスタシアはその場に再び座り込み、レオアリスは背を向けて焚き火の傍に戻ると、どかりと座った。
「寝るっ」
 そう宣言するとアナスタシアはそのまま草の上に横になり、ぎゅっと瞳を閉じてしまい、レオアリスは振り向きもしない。
「――はぁ……」
 アーシアは困り果てて溜息と共にうな垂れ、まだぽかぽかと温かい手の上の餅を眺め、また切ない溜息を重ねた。


 アナスタシアは暫くは唇を噛み締めて目を閉じていたものの、空腹はひどく胃の中で暴れ回り一向に眠気は訪れない。それどころかぐうぐうと、あられもない音を立てている。
 余り自覚は無いが、一応良家の子女であるアナスタシアは、恥ずかしくなって膝を抱えて丸まった。
 あの餅は、実をいうとすごく美味しそうだった。香ばしい臭いがまだ残っている気がする。それを思うと余計に、胃は要求の声を上げる。
 ちらりと瞳を開けると、すぐ傍で横になっているアーシアの姿が見えた。
 穏やかな寝顔にほっと安堵すると同時に、疲れているアーシアにひどい態度を取ってしまったことに、後悔を覚えた。アーシアはいつもアナスタシアの為に、一生懸命になってくれる。
 それに、別にあの少年にも、あれほど変な態度を取る事は無かったのだ。正体は知れないが、少なくとも彼のお陰でアーシアは回復している。
 何であんな態度を取ってしまったのだろうと、そればかりが頭をぐるぐる周り、自分に嫌気が差していた。
(――)
 再びぐぅっとお腹が鳴って、空き地に散る。
 恥ずかしさと悲しさと情けなさがない交ぜになり、うっかり涙が滲みそうになったとき、離れた場所で起き上がる音が聞こえた。
 柔らかい草を踏む足音に、すぐ傍の焚き火にしゃがみ込む気配。
「あーあ、このまんまじゃ硬くなっちまう。……おい」
 声をかけられて、アナスタシアは思わず息を詰めた。それを意に介したふうもなく、レオアリスは言葉を続けた。
「起きてんだろ? もったいないから食えよ」
「――」
 レオアリスは近づいてくる気配こそないものの、まだ話かける気はあるようで、返事が無い事に怒る感じもない。
「お前、結構いいとこのお嬢さんっぽいからさ、まあ何でいいとこのお嬢さんがこんな森にいるのか良く判らないけど、口に合わないってのは何となく判る」
「そんなんじゃないよ!」
 がばっと起き上がったアナスタシアに、レオアリスは驚いたように顔を向けた。
「……どっちが?」
「私は食べられないものなんて無いっ」
「――ああ」
 一度考え込むように視線を上に投げてから、レオアリスは可笑しそうに笑った。
「――」
 笑うとは思っていなかったから、アナスタシアは思わず息を詰めた。
「まぁ、とにかくこれ、俺のじいちゃんが腕によりをかけて作ってくれたヤツだから、無駄にしたくないんだ」
 そう言うと、アナスタシアへ葉の上に載せたサラの餅を差し出す。
「硬くなる前に食えよ。って言っても、もうだいぶ硬いけど」
「――」
 アナスタシアはじっとその姿を見つめてから、気まずそうに焚き火ににじり寄り、その前に座る。
「…いただきます」
 受け取って、ちょこっと頭を下げたアナスタシアを眺め、レオアリスは吹き出した。
「何だよっ」
「いや…っ、さすが従者を連れてるだけあって、育ちがいいんだなって」
「悪いか?」
「別に? そう育ててくれた人がいるんだろ」
「――」
 アナスタシアは黙って、まだ温もりを残している餅に口を寄せた。言うほど硬くもなく、仄かな食欲をそそる香りがふわりと立ち上がる。
 一口、口に入れたそれは、これまで食べた事も無いほど美味しいと思った。身体がゆっくり暖まっていく。
「……美味い」
 素直にそう口にすると、レオアリスはあっさり笑う。よく笑うヤツだ、とアナスタシアはそんな事を思った。
 初めて、余りいい出逢い方とは言えない出逢いをした割には、ずいぶん屈託が無い。元々そういう性格なのだろう。
(……アーシアは、人を見る目があるし)
 と、まるで言い訳のように思った。レオアリスはアナスタシアの内心など知らぬ気に頷く。
「そりゃそうだ。普通それだけ空腹なら何だって美味いし、それは特製だからな」
 それから立ち上がり、レオアリスはアナスタシアの黒髪を見下ろした。
「じゃ、俺寝るから。お休み」
 背中を向けかけたレオアリスを、思わず呼び止める。首を傾げてレオアリスは振り返った。
「何? それ以外食うモン無いけど」
「そうじゃなくて、」
 俯いたままアナスタシアは視線を彷徨わせた。言うべき言葉は喉の奥まで出かかっているのだが、中々喉にひっかかったまま声になろうとしない。
 こんな時どうするべきか、チラリとアーシアに視線を投げたが、頼みの綱のアーシアは背中しか見えずに、困ったアナスタシアは自分の中を慌てて探った。
 『贈り物を戴いた時には、お礼を言うものですよ。』
 浮かんできた言葉を必死に掴んでみれば、それは大叔母エレノアの言葉だった。
(そうだ、貴婦人の)
 アレだ、アレが一番礼儀正しい遣り方だとエレノアも言っていた、とアナスタシアはすいと顔を上げ、出来るだけ優雅に、エレノアの遣り方をなぞるようににっこりと微笑んだ。
「ありがとう」
 それから、またサラの餅にぱくりとかぶりつく。
 その前で、レオアリスは完全に固まってしまった。
 本当はレオアリスも自分の態度に反省していて、謝るというか取りあえず何とかしようと思っていたところで、先を越されてしまったということもあった――が。
 今まで月の僅かな光だけで、相手の顔がよく見えていなかった。しかし今、焚き火の前で真っ直ぐ顔を上げて初めてしっかり眼にしたのは、見た事も無いほどの、ものすごい美少女だったからだ。
 途端にどっと顔に血が昇るのが判る。焚き火の赤い光に照らされていて、いや、アナスタシアが食べるのに夢中になっていて良かったと、レオアリスは心底ほっとした。
「じゃ、じゃあ、食ったら早く寝ろよっ」
 ぶっきらぼうに、早口でそう言うと、さっさと焚き火の前を離れて少し離れた所で再び横になり、毛布代わりの上着を頭から被った。
(び、びっくりした……)
 びっくりしたと言うか何と言うか、実際レオアリスは同年代と話した経験もほとんど無いのだ。たまに遠くから見かける程度だ。
 ただうろたえた自分が、なんとなく情けない。
(――さっさと寝よう)
 レオアリスはぎゅっと眼を閉じた。
 一方のアナスタシアは、レオアリスの驚きなどまるで気付かないまま、両手一杯の大きさがあった餅をぺろりと食べ尽くすと、満足してまたアーシアの隣に戻り横になった。

 二人の会話と、アナスタシアが静かに食べる気配と、彼女がまた横になって寝息を立て始めるまで、アーシアは零れる笑みを堪えて、そっと横になっていた。





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