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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第十章「闇をく者としるべの光」 (五)


 どれだけの間壁を叩き続けたのか、アナスタシアは疲れ果てて座り込み、抱えた膝の上に額を預けたまま俯いていた。
 どうすればこの場所から出る事ができるのだろう。このおそらく膨大な土砂で埋まった地中から抜け出す方法があるのか、何度もそれを考えようとして壁を叩く手を止め、途端に空間を支配する恐るべき無音にいたたまれなくなった。
 このまま、誰にも見つけてもらえず、暗い土の下で、飢えと孤独に苛まれて死んでいく――。その考えはアナスタシアを闇雲な焦燥の中に突き落とした。
 壁を叩いて、思いつく限りの名を呼んで、次第にその力も無くなった。腕は鈍く骨に響くように痛み、喉も嗄れて熱を持つようだ。
 疲労と絶望に、アナスタシアは膝を抱え込んだまま、明確な思考も無く視点を結ばない瞳で足元を見つめていた。
 炎は丸い空間の頂上部分で、小さく灯り続けている。酸素が無くなってしまうかもしれないという惧れよりも、灯りを消して暗闇になってしまうのが怖くて、ずっと炎は消せなかった。
 炎がゆらゆらと揺れる。
 アナスタシアの下の小さな影も、その揺らめきに合わせて踊る。
 それは夕暮れ時の、赤い光の中の影を思い出させる。
 幼い頃、こんな光の中で影踏みをして遊んだ。アーシアや館の女官達は柔らかな笑みを溢し、走って追いかけるアナスタシアの小さな足に影を踏ませていた。
(私は負けるのが嫌で、影をあちこち揺らしたんだ)
 炎でわざわざ影を作って、アーシアや女官達が踏もうとしたら、炎を動かした。
 くるりくるりと回る影、可笑しそうに声を立てて笑いながらアナスタシアもアーシアも回る。
 笑い声が夕暮れの陽射しに散る。
 くるり。
 影が回り、アーシアが回る。
 丸い空間の中で誰も踏む者もないのに、茶色い土の上でアナスタシアの影は逃げるように左右に揺れる。
 揺れて。
 じっとその揺らめきを追っていて、アナスタシアはそれに気が付いた。その意味する事が頭の中に入ってくるに従って、深紅の瞳がゆっくりと見開かれる。
「――揺れてる……」
 影は左右に不規則に揺れていた。アナスタシアは炎を動かしていない。それは炎の自然な揺れとは明らかに違う揺れ方だった。見上げれば、頭上の炎は何かに押されるように左右にゆらゆらと揺れている。
 何かに押されるように。
「風――」
 はっとして、アナスタシアはきょろきょろと辺りを見回した。
 風が流れている。
 炎は、この球状の空間を流れる風に揺れているのだ。
 それはどこかに、隙間が在るという事だ。
 アナスタシアは手を伸ばし壁を探り始めた。もどかしく壁をさすり、反対側に走り寄って同じように腕をあちこちに伸ばして壁を調べる。
「あるはず――あるはずなんだから」
 こんなふうに闇雲に探しても見つからない。アナスタシアは立ち止まり、何度か、深呼吸を繰り返した。炎は影を四方に揺らしている。ゆっくり、確実に探せば、必ず見つかるはずだ。
「そうだ」
 もう一度手のひらの上に小さく炎を作り出した。炎はアナスタシアの手を離れると、ゆっくりとした動作で、壁に沿って動き始めた。
 炎が大きく揺れる所、そこに隙間が在るはずだ。
 瞬きすら忘れてじっと瞳を凝らし、アナスタシアは炎の動きを追った。
 歯痒い程に、炎はずっと一定の動きを保ち続けている。それでも少しずつ、じりじりと、どんな小さな隙間も見逃さないように、アナスタシアは炎はゆっくりと動かし壁を伝わせていく。
 永遠に近い時間が流れたように思えた。
 一瞬、炎が乱れた。
 心臓の鼓動が一気に大きくなる。
 焦る心を抑え、アナスタシアはもう一度その場所に炎を動かした。
 一度行き過ぎて戻し、そしてある一点で不規則に揺らめいた炎を、アナスタシアは呼吸を止めたまま見つめた。
「……隙間……」
 その場にまろび寄り壁に手を当てた。立ち上がったアナスタシアの丁度頭の上辺りに、注意してみなければ判らない程の、ごく細い、丁度手の幅程の長さの亀裂が縦に刻まれている。
 細い、だが確実な空気の流れが、手のひらをひんやりと撫でた。
 アナスタシアは暫くその冷たさを瞳を閉じたまま感じていた。それはほんの微かでも、アナスタシアの心を落ち着かせてくれる。
 まだ助かった訳ではない。こんな細い亀裂を抜け出る術など、アナスタシアは持っていなかった。
 それでもこの小さな亀裂が、今のアナスタシアにとって唯一の、外界との繋がりだった。
 アナスタシアは風が額に触れるのを感じながらできる限り口を寄せ、高鳴る鼓動を押し出すように叫んだ。
「アーシア! 誰か! アーシア!」
 叫び過ぎて擦れた声は、微かな反響を残して亀裂に吸い込まれる。背伸びして耳を近付けてみたが、返る声は聞こえて来なかった。覗き込もうとしても亀裂は高い位置にあり、奥までは見えない。
「――アーシア! 聞こえたら返事して!」
 例えば亀裂の向こうまでそれほど距離はなくても、そこに誰かがいるとは限らない。声も届くかどうか判らなかった。
 ただ、風が通っているという事は、必ずどこかには繋がっているのだ。
「アーシア!」
 何度目かに叫び、枯れた喉で噎せ返った。嗄れた喉は声を出すと焼けるように痛む。
「だめだ、このままじゃ……」
 もし誰かが来た時に声が出せなくなっていたらと思うと、このまま叫び続けるのは無駄だ。
 けれども、黙っていて、そこに来た誰かが通り過ぎてしまったら?
 そのどちらも怖かった。
「どうしよう……」
 通りかかった誰かに、そこに来た誰かに、確実に気付いてもらう手段を、アナスタシアは必死に考え始めた。
(何か、目印になるものがあれば……何か)
 指先すらも入らないこんな小さく細い隙間から、何も通す事はできない。通るのはそれこそ、風や水ぐらいなものだ。
(風、水――)
 形の無いもの。
 自分が自由自在に姿を変えられればいいのにと、アナスタシアは唇を噛み締めて天井を睨んだ。
 ちらちらと炎が揺れている。
 大きくなり、小さくなり、それそのものが生きているように踊る炎。
 ひゅっと小さく鋭い音を立てて、アナスタシアは息を吸い込んだ。
 一つだけ、どんな狭い場所をも通れるものがここに在る。
「炎、だ……」
 アナスタシアの瞳が、天井の炎を移したように輝いた。
 炎ならば、アナスタシアの意思のままに、亀裂を擦り抜ける事ができる。
 アナスタシアは細心の注意を払い、手のひらの上に消えない炎を作り上げた。アナスタシアの意志がある限り、消える事のない炎を。
 そおっと、慎重に、亀裂へと近付ける。
 誰かが――、アーシアが来てくれる事を信じて。
 亀裂の先がどこへ繋がっているのか、全く判らない。そこが人の立ち入れる場所なのかも判らない。
 それでも、アナスタシアはこの状況下で、ここまで辿り着いた。炎が彼女の身を守り、光を与え、隙間を見い出させたのならば、この炎がもう一度、アナスタシアを助けてくれる事を信じて――
 アナスタシアは亀裂の奥へ、炎を送り込んだ。
 どれほどの深さを通り抜けたのかアナスタシアにも掴めなかったが、炎は消える事無く確実に亀裂を伝い、アナスタシアの居る場所とは違う別の空間に抜け出ると、闇の中にくっきりと、その熱とかぎろいを浮かび上がらせた。





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