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「竜の宝玉とはじまりの森(仮)」

第十章「闇をく者としるべの光」 (七)


 炎は絶える事無く、闇の中で揺らめいていた。
 アナスタシアが炎を送り出した先は、坑道の奥深くにある広大な空間の、ほぼ垂直に近い斜面の途中にあった。地上から見ればそこは、黒竜によって穿たれた深い縦穴に隣り合わせの位置にあったが、そこに至る道は狭く危険に満ちた暗い坑道のみだ。
 今、地上の池のほとりには、アナスタシア救出と黒竜を封じる為に、正規軍の第四、第五大隊が集結し始めていた。深紅の鱗を持つ正規軍の飛竜達が次々と舞い降り、兵士の纏う鎧と剣がぶつかり合って鳴るかちゃかちゃという金属音が満ちている。
 正規軍大将ヴァン・ヴレッグもまた、少し前にこの宿営地に降り立ち、厳しい顔を正面の丘へと向けていた。
 もし硝子張りのように物体を見通す眼を持っていれば、彼等とさほど違わない位置に、アナスタシアが閉じ込められたまま座り込んでいるのが見えただろう。けれど誰も一人としてそんな眼を持つ者はなく、アナスタシアとの間は距離ではなくその物量によって遠く隔てられていた。
「公が生きておられるのは確かか」
 ヴァン・ヴレッグは傍らに立つウィンスターに問いかけた。
「確証があるわけではございません。ただ、ワッツ少将の言に寄れば、剣士と公の従者は確かにそう言っていたと」
 ヴァン・ヴレッグはウィンスターが口にした剣士という言葉に、ぴくりと眉を寄せた。だが口に出しては、「なるほど」とだけ言って、視線を逸らせた。ウィンスターはヴァン・ヴレッグの顔をじっと見つめたが、それに関して特に問いかけようとはしなかった。
「法術部隊と隊士十名が既に坑道へ入っています。黒竜を発見すれば急使を送る手筈。それに備えて地上部隊を展開させ、万が一黒竜の封印に失敗した時の防壁を作る必要があります。――もう一隊の法術士達は、どのような役割を?」
 ボルドー達先遣隊の後から、およそ四十名の法術士がヴァン・ヴレッグの本隊とともに宿営地に到着している。併せて五十名、西方軍の有する法術士団の全てだ。黒竜を封じる為に、ヴァン・ヴレッグは全ての術士をこの地へと配備した。
 ヴァン・ヴレッグに代わって応えたのは副将であるデフだ。
「“籠の鳥”だ。先遣のボルドー達は地中において封印の刻印を打ち、封術を行う。地上の術士達は彼等の術の発動に合わせ、地中と地上から黒竜を囲い込み、封印する。完全に籠に入れてしまえば、例え黒竜といえども、おそらく数百年はこの地から出られまい」
 数百年、と呟いたウィンスターへ、デフは「奴にとっては、一眠りするだけの間かもしれないが」と付け加えて自嘲するように笑った。
「だが、その間に封印を重ねて鎖を重くするぐらいはできるだろう。……黒竜を発見し次第、封術の準備に取りかかる。部隊は術士達に一小隊ずつ付け、六ヶ所に展開させる。これが展開図だ」
 デフはウィンスターの前に丸めていた紙を広げ、そこに描かれた宿営地の場所と封術の法陣、それに沿った部隊の展開図を示した。ウィンスターは展開図を子細に眺め、位置を確認して頷いた。
「承知しました。早速配置を開始します。……しかし、もし黒竜を見つける前に公を発見できなかった場合は、封術の発動は遅らせるのですか」
「――」
 デフは黙り込み、ヴァン・ヴレッグの横顔を見た。
「――もし黒竜を先に発見した場合、当然黒竜の封印が先になるだろう」
 ウィンスターは一瞬だけ何かを言いかけて口を開いたが、すぐにそれを閉ざし、ヴァン・ヴレッグとデフに敬礼すると、部隊の展開を指示すべく宿営地の中へと足を向けた。
 やがて指示を受け、宿営地の正規軍は静かに、迅速に移動を開始した。



 静かに動き始めた正規軍の、遥か足元で、アナスタシアは膝を抱えて音の無い空間にじっと耐えていた。
 アナスタシアがこの球状の空間の中で目覚めて二刻、炎を送り出してから、既に一刻近い時が過ぎている。
 厚い土の向こうで揺れる炎はアナスタシアに自らの存在を伝え続け、風も時折空間を照らす炎を揺らしては、そこが密閉された空間ではない事をアナスタシアに伝えてくれる。
 アナスタシアは膝を抱えた指先にぎゅっと力を込め、ひたすら気丈に待ち続けていた。
(必ず、アーシアが、誰かが見つけてくれる)
 やれるだけの事はやった。後は待つ事――それが一番辛く苦しい事だったが、信じてじっと待つ事だけだ。
(必ず――)



 炎は広い闇の中で、ゆらゆらとその存在を主張し、訴え続ける。
 その闇の中を、一瞬何かが横切った。炎が一瞬、叫び声の代わりのように大きく揺れる。
 僅かな沈黙の後、通り過ぎたように見えた影は、炎に気付いたのか、一度大きく旋回した。
 微かな羽音を立てて、影――カイは炎の傍に浮かんだ。
 ピィと高く鳴き、主を呼ぶ。暫くカイは首を傾げていたが、レオアリスの声が返らない事に、どうすべきかと迷うように目の前の炎と背後の闇を見比べた。
 炎の前に浮かんだまま、ぱちりぱちりと瞳を瞬かせ、踊る炎を見つめている。
 やがて一度大きく羽ばたいて風を煽ると、カイは炎に飛び込むように姿を消した。
 炎が揺れる。
 闇の奥で、二つの銀の光が一度だけ瞬き、低い雷鳴のような音が闇を這って散った。



(必ず――)
 来てくれるから、と自分でも覚えていないくらい繰り返した言葉を、もう一度呟いた時だ。
 微かな羽音が聞こえ、アナスタシアは閉じていた瞳を開いた。
 音はもうどこにもない。
「――」
 アナスタシアは緊張に肩を張り詰めた。心臓が急激にどくどくと血を送り出し、全身が脈打っているようだ。
(今、音がした……したよね)
 軽い、耳元を掠めるような羽音が、確かに聞こえた。ここに落ちてきて初めて、アナスタシア以外によって立てられた音だ。
「羽音――」
(まさか、アーシア?!)
 どくりと心臓が跳ねる。
 ただ、聞こえた音はアーシアの翼の音より軽い気がする。
 確かめなくてはいけない。だが耳を澄ましても、先程の音はどこかへ消え失せてしまったのか、かさりともしない。不安が返す刃のように心臓に触れた。
(嫌だ、気のせいだったら……。でも)
 気のせいだったら……アナスタシアの期待が造り上げた幻聴だったとしたら、絶望は深くなるだけだ。
 だが、炎の先に誰かが来たのなら。今、声を出さなければ、通り過ぎてしまう。
(確かめろ……早く!)
 アナスタシアは自分を叱咤し、思い切って顔を上げ、壁の亀裂を見つめた。
(早く!)
 立ち上がったその時、唐突に、壁の隙間から矢のように黒い影が飛び込んだ。
「きゃあ!」
 思わず身を縮めたアナスタシアの目の前で、影は球状の壁をぐるんと一回転すると翼を広げて停止し、彼女の前に降り立った。
 アナスタシアは驚きに口を開けたまま、その姿を見つめた。
 現われたのは黒くて小さな、尾の長い鳥だ。
 見覚えのあるその姿に、アナスタシアは瞳を見開いた。
「――まさか」
 誰かが通りかかるのを願い、炎に気付いて、その奥のアナスタシアの存在に気付いてくれる事を強く願っていたものの――、あまりに唐突な、予想もしない相手の出現に、アナスタシアは信じられないものを見る想いで目の前の黒い鳥をじっと見つめていた。
 まだ雛に近いその鳥は、およそこの場に不釣り合いに、愛らしく小首を傾げている。
 森で見た姿、一緒に水を捜しに行った、あの姿だ。
 レオアリスの連れていた、伝令使――
「カイ……?」
 カイはピイと鳴いた。
 おそるおそる伸ばした腕に、カイはふわりと降り立つと、一仕事済んだ後のように羽を啄ばみ始めた。腕に止まった脚の爪が皮膚にほんの少しだけ痛みを伝え、それが夢でも幻でも無いのだと教えてくれる。
 アナスタシアが聞いた羽音は、カイが炎を擦り抜けた時の音だったのだ。
「カイ……」
 頭を撫でるとカイは首を竦め、金色の瞳をぱちりと瞬かせた。
(まさか……)
 近くに――こんな場所に。
「……レオアリスが、いるの?」
 レオアリスの名を聞いた途端、カイはまたピイと鳴いて、嘴を開いた。まだ耳に残っている少年の声が流れる。
 『アナスタシア』
 はっと息を詰め、アナスタシアは身を乗り出した。ここに閉じ込められてから初めて聞く、誰かの声だ。
 それも、思いもかけない相手の声。
「レオアリス……」
 その声を聞いても、まだアナスタシアは自分が夢を見ているのではないかと思えた。
 それでもカイの爪の感覚は本物だ。
 『……アーシアか俺か、必ず行くから――そこでじっとしてろ』
 身体の奥底から、例えようもない暖かさが込み上げてきて、アナスタシアはその場にぺたりと座り込んだ。涙が湧き起こり、ぽろぽろと頬を伝う。
(来てくれた――)
 カイは何事も無かったように嘴を閉じると、しばらく首を傾げながらアナスタシアを見つめていたが、再びふわりと舞い上がった。
「ま、待って……!」
 慌てて伸ばした手が空を切り、アナスタシアはカイの消えた後の空間を見つめた。
 できれば行かないで欲しかった。こんな空間に、また独りで取り残されるのは嫌だ。
 それでも、アナスタシアにもカイが消えた事の意味は判る。主の、レオアリスのもとに、アナスタシアの居場所を教えに行ったのだ。
 多分、いや、絶対に、ここで待っていればアーシアとレオアリスが来てくれるはずだ。
(待ってれば……?)
 アナスタシアは下ろしかけた腕を、壁に当てた。
 アーシアとレオアリスがいる。この壁の向こうの、どこかにだ。
 二人が、アナスタシアを捜しに来てくれている。
 冷たい無機質な壁が、今は温もりを持っているように感じられた。細い隙間は、くっきりと刻まれ開かれるのを待っている扉だ。
 それは片側からしか開かれないだろうか?
「じっとしてろって……私を誰だと思ってるんだ」
 ぐい、と乱暴に涙を拭い、アナスタシアは手の先の隙間を睨み付けた。
 二人がいる。この向こうの、どこかに。危険を冒してまで、この地底に来ている。
 微かな熾火だった炎はアナスタシアの中でゆらりと揺れ、はっきりとした熱を持って燃え盛り始めた。
「ただ救けられるのなんて待ってられるか。――絶対に、ここを出てやる!」





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