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王の剣士<番外>


『レオアリス』
 暗がりから、声はレオアリスの名を呼んだ。


「――」
 何故、と疑問を抱きながらも、懐かしい、奇妙な感覚に引きずられるように、レオアリスは一歩踏み出した。その後ろでぽつりと呟いたプティの言葉に、意識を引き戻される。
「今、僕の名前呼ばれた」
「え?」
 振り返ったレオアリスの前で、全員が訝しそうにプティを見た。エルが驚いて首を振る。
「違うよ、エルって言ったんだ」
「そうじゃないだろ、サルカって、俺の名前呼んだもん」
「僕も呼ばれた……」
 最後に呟いたケイの言葉は、口の中で小さくなって消えてしまった。
 その場の全員が自分の名前を呼ばれている――。
 冷たい手で首筋を撫でられたような、そんな顔をして少年達は身を縮めた。
(どういう事だ……?)
 レオアリスが聞いた声は一つ、それ以外は聞いていない。
「――趣向としては、悪趣味極まりないな」
 低い呟きに、レオアリスは隣を見上げた。ロットバルトはいつになく厳しい表情で、前方の薄暗がりを見据えている。その横顔を見ながら、レオアリスはあれ、と首を傾げた。
(もしかしてこいつ、怒ってるか――?)
 普段見ないその感情に驚きを覚えると共に、奇妙な感覚はますます強くなった。
 レオアリスが聞いたものと、ロットバルトが聞いたもの、少年達が聞いたもの。全て違う――
 レオアリスは再び視線を薄暗がりに戻した。
(……何が来る?)
 彼等の戸惑いを知ってか知らずか、それは確実に、廊下の向こうからレオアリス達へと近付いてくる。
 ひた、ひた……。
「兄ちゃん」
 少年達は身を寄せ合い、縋るようにレオアリスを見た。
「――大丈夫だ、悪意は感じられない」
 それは確かだ。どちらかと言えば――。
「――」
 薄暗がりの中にいるものを見透かそうと、レオアリスは廊下の先に意識を集中した。
 足音は、もう薄闇との境まで来ている。
 ひた。
 足の先が、薄暗がりに浮かんだ。
 ゆっくりと、人影が形を現わす。
 薄白い光の中に現われた人影に、レオアリスは息を飲んだ。
 見覚えのある――、いや、たった一度だけ、幻の中で見た――。
 白い、雪と光に満ちた光景で。
「……と」
「じいちゃん?!」
「お母さん!」
 サルカ、ケイ、少年達の口から、次々に驚きの声が上がる。
「タニア?! お前、来るなって」
 エルの驚いた声。
(違う、あれは)
 レオアリスは暗がりから抜け出した人物を、呼吸を止めたまま見つめた。
 真っ直ぐ、レオアリスに向けられた漆黒の瞳。軽やかな、だが確かな力に裏打ちされた笑みは。
 目の前の存在が微笑み、口を開いた。
『ここに入ってはいけない。帰りなさい』
 胸を締め付けるような、懐かしい声だ。
『ここを去るんだ、すぐに――』
「去るって」
 不意にロットバルトが踏み出す。
 抜き打つ、と思った瞬間には、ロットバルトの手元から白刃が閃いた。
「――待て!」
「!」
 レオアリスは咄嗟に白刃と人影の間に飛び込んだ。
 視界に迫る白刃と、壁が透ける人影の笑み。
 少年達が何が起こったのか理解する間もない、一瞬の出来事だ。
 ロットバルトがゆっくり息を吐く。
「――何をやっているんです、貴方は」
 低い声には明らかな憤りと安堵、そして動揺が交じっていたが、切っ先はレオアリスに触れる寸前で止まっている。
 人影はレオアリスの後ろで、まだ穏やかに笑っていた。
「何をって……、それはお前だろ。もし」
 不意に高い哄笑が弾ける。人影が笑いながら、薄暗がりに身を引いた。
『帰れ』
 笑い声に紛れて、声が聞こえた。それはこれまでとは違う、しゃがれて年老いた男の声だ。
『私の邪魔をするな』
 長く尾を引いて、笑い声は薄暗がりの奥に消えた。
 ロットバルトが剣を鞘に収める。少年達がほっと息をついた。
「――単なる幻覚、幻聴の類いですよ。もう気配は無い」
「ああ……」
 レオアリスの声には残念な響きがあり、ロットバルトには彼が見た姿が何だったのか、想像ができた。
 おそらく。
「失礼しました。……俺には少し、不快なものだったので」
 ロットバルトは薄暗い廊下を歩き、次々と扉を開けていく。
 西側の五つを全て開け放つと、廊下は全体が白い光に染められた。
 そこには彼等以外の姿は無い。
「何の仕掛けか、どういう意図か知りませんが、どうやらそれぞれに見えていたものは違ったようだ。そこに何かしらの意味があるのでしょうね」
「見え方か……」
 確かに、人影が姿を現わした時、エルやケイが口にした名前は、レオアリスが見た姿とは全く別のものだ。
「俺、おじいちゃんだった。去年死んじゃったんだ」
 サルカが言ったのは、自分の祖父という意味だ。
「……お母さんだったよぉ……」
 ケイが涙声でしゃがみ込む。
「家に帰りなさいって……」
「タニアに見えたんだ、俺……」
 ロットバルトは彼等を見渡し、まだ少し普段と違う色を宿した瞳をレオアリスに向けた。
「言葉の内容は同じで、姿が違う。――貴方に見えたのは」
 少し躊躇いがちに、レオアリスが口を開く。
「……ジン。多分――、父さんだ」
 会う事などあり得ない、レオアリスの父親。
 その姿に見えていたから、レオアリスは咄嗟に剣の前に飛び込んだのだ。
 ロットバルトは息を吐き、それから一度自分の剣を見た。
「ともかく、剣の前に飛び出すなどと無茶な真似は止めて戴きたいものだ。どうせ俺――、」ロットバルトは途中で自分の口調に気付いて、口元に苦笑を浮かべた。「私の剣が折れるだけでしょうが、さすがに肝が冷える」
「悪かった。ちょっと考えが足りなかった」
 どうも二人して、普段の調子が少し崩れている。
「幻覚か――」
 もう一度、その姿を捜そうとするように視線を廊下に彷徨わせ、ただすぐに、レオアリスは瞳の色を変えた。
「まあ消えたものは今気にしても仕方ない。先ずはミーニャを探そう。ここの謎を解くのはその後だ」
 そう言ってから、まだ涙を零してすすり上げているケイの前にしゃがむ。
 多分ケイは、母親を亡くしているのだ。
 七歳は、母親の姿で帰りなさいと言われて、その言葉を無かった事にできる年齢ではないだろう。
 ケイの背中をさすり、レオアリスは少年達を見渡した。
「この先は俺達に任せて、お前等はもう帰っていいぜ。疲れただろう」
 従兄のテッドはケイの頭を撫でながら、青ざめた頬で強気な顔を見せる。
「大丈夫、まだ頑張れるよ。だって任務だもん」
「任務の場合は特に、上官が部下の体調管理までをする。引かせる判断も俺の責任の内だ。お前には、作戦行動の仲間として、ケイを安全に連れ帰ってもらいたい」
 テッド位の年齢にはまだ少し難しい言葉だったが、レオアリスの真意は伝わったのだろう、頬を引き締めて、こくりと頷いた。
 レオアリスは笑みを返し、立ち上がる。
「ロットバルト、悪いがこいつらを路地の出口まで送ってくれ。俺は二階の部屋を調べる」
「俺は残る!」
 エルはさっとレオアリスに近寄り、頭二つ分も高い所にある顔を見上げた。
「残ってもいいでしょう? タニアがミーニャを心配して待ってるんだ、帰れないよ」
「俺も残る。だってさ、本当のじいちゃんなら、最後までやれって言うもん」
 サルカもエルの隣に立った。プティも素早く二人に寄って、ぐっと顎を上げた。
「僕も。帰るのはケイとテッドとライナスだ」
 名を呼ばれ、ライナスは少しほっとした照れくさそうな笑みを浮かべて、ケイとテッドの隣に立つ。
「僕はその、帰るよ。僕がケイとテッドを送ってく」
「ちゃんと家まで送れよ」
「明日学校で武勇伝聞かせてやるから」
「寄り道しないようにね」
 ちょうど三人ずつになって、少年達はお互いに手を振っている。
「どうやらもう決定したようですね」
 レオアリスがいいと言う前に、三人はすっかり残る方向で決まったようだ。
「らしいな。まあいいか。どうせもうあと少しの事だ」
 一応ロットバルトに三人を路地の出口まで送らせ、レオアリスはエル、サルカ、プティと一緒にまずは二階の部屋を見て回る事にした。
 先ほど光を取り込む為に扉を開け放った部屋が西側に十、東側にはまだ閉ざされたままの九つの部屋がある。
「三人一組で見て回れ。廊下から覗く位でいい。何かあったら俺を呼べよ」
「はい!」
 三人は頷いて、我先に廊下を駆け出した。
「開いてるとこの、一番奥から見よう!」
「開けてないとこは?」
「――後」
 威勢良く、ただ部屋を覗き込む時にはちょっと恐々とした姿を可笑しそうに見守りながら、レオアリスにはもう、二階に何の気配も無い事は判っていた。
 東側の扉を幾つか開けてみたが、やはりあるのは埃と蜘蛛の巣を被った古い家具だけだ。どこも寝台と文机、長椅子が一揃え揃えられている様子から、この階にあるのはほとんど来客の為の客間のようだった。
「うーん……これだけか」
 適当な部屋に入り、硝子の無い窓から外を見渡して、レオアリスは唸った。部屋から見える庭も、手を入れる者もなく荒れ果てている。
 階段での霧は恐らく、侵入者を追い返す為のもの。先ほどの声、『帰れ』と告げたあの声も、警告の一つだ。
 ただそうして警告を発する原因らしきものが、ここには全く見当たらない。
「何をそんなに大事に守ってるんだ?」
 あんな手の込んだ仕掛けを作り、廃墟になった屋敷を守っている理由はどこにあるのだろう。
 それにもう一つ、あるだろうと思っていたものが見当たらない。
「三階かな」
「上将」
 ケイ達を送って戻ってきたロットバルトが、レオアリスのいた東側の部屋を覗き込む。廊下に立ったままなのは、まだエル達がいるからだろう。
「路地までは送りましたよ。後は慣れた街だ、問題ないでしょう」
「悪いな」
「それと、廊下の両端に階段室があります。三階へ行くにはそのどちらかですね」
「何か判ったか?」
 レオアリスは窓を離れて廊下へと出て、左右の廊下の奥を確認した。東側の両端に少し他の扉より間隔が狭い扉がある。ロットバルトは肩に付いた埃を払い、その肩を軽く竦めた。
「埃ばかりですよ。どちらも暫く使われた形跡はありません」
「うーん」
 もう一度、レオアリスは唸って口元に手を当てた。
「じゃあミーニャがいるとしたら、一階か、外か――」
「もう抜け出している可能性もありますね」
「てことは、別の場所を捜すべきかな。広範囲になるとやり方変えなきゃいけねぇか」
 ミーニャがもうこの屋敷を出て行ったとなると、人数を出して、目撃情報から場所を絞っていかなくてはいけない。
 時間がかかる。レオアリスは窓の外を見た。そろそろ午後も二刻を過ぎ、あと一刻もすればこの季節の太陽は淡く傾いてくる。
「まあ、一応全て確認した方がいいでしょう」
「うん。心配なのは食糧と水だな。昨日から何も食ってないだろう」
「適当に過ごしてますよ」
「お前、二歳児だぜ?」
 どういう訳か少し複雑な顔をして、ロットバルトは一度口を噤んだ。
「上将」
「兄ちゃん!」
 ぱたぱたと足音がし、西側の部屋を捜していたエル達三人が廊下を走ってくる。
「お前等、あんまり走ったら床を踏み抜くぞ」
 元気の良さに笑ってレオアリスが注意を促すと、三人は途端に抜き足差し足になってレオアリスの元に辿り着いた。緊張と興奮に高潮させた頬を向ける。
「こっちは何にも無いよ。全部見た」
「全部の部屋?」
 尋ねると、三人は力強く頷いた。
「変な部屋は無かったか?」
 奇妙な質問に、少年達が顔を見合わせる。
「変な部屋?」
「そう。本とか、そうだな、訳の分からない道具が一杯の」
 ふと、レオアリスは口を噤んだ。微かな声が聞こえたような気がしたからだ。
 口元に指を当てて合図し、それからレオアリスは彼等から少し離れて耳を澄ませた。
 声は確かに、途切れ途切れながら、しんと静まり返った屋敷の中に聞こえてくる。一人ではなく、二人――、おそらく会話している。
 辛うじて聞こえてくる声を辿り、レオアリスは天井を見上げた。
「三階か」
 エル達はレオアリスの判断を待つように、じっと彼の顔を見つめている。レオアリスは白茶けた廊下と先ほど上がってきた大階段を見つめてから、頷いた。
「行ってみよう。多分これで、最後のからくりだ」



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