五
階段室はロットバルトが見た通り、それぞれ廊下の両端の扉の奥にあった。近い方、北側の階段室の扉を開ける。
三階だけでなく一階へも下れるように階段が続いている。家人が普段使っていたのは玄関広間の大階段ではなく、こちらの階段なのだろう。造りからして三階には、家人が使っていた部屋があるはずだ。
灯りは無く、壁に取り付けられた小さな窓から、陰った陽の光がぼんやりと折れ曲がった階段を浮かび上がらせている。
話し声は階段を上がるにつれて次第に大きくなってきた。
「またお化け……?」
「いや」
それは予想に反して、楽しそうな笑い声だ。
柔らかな女性の声と、それに答えるのは男の声。
話している内容までは聞き取れないが、一瞬廃屋にいるのを忘れさせる響きだった。
階段を上がりきって廊下への扉を開けると、視界に映ったのは二階とさほど変わらない、暗い古びた廊下だけだ。
まだ話し声は続いている。
「真っ暗――どうしよう、また扉全部開ける?」
プティが扉から首を出して、レオアリスの顔を眺める。
「一つだけ開けよう。声は多分、真ん中辺りの部屋だ」
歩き出そうと床を踏んだ途端、予想以上に音を立てて、床が軋んだ。ギシ、という音が廊下に響き、思わず足を戻そうとした時、どこかでガタン! と音が響いた。
何かが倒れるような音だ。
「うわぁっ!」
エル達が階段室に駆け戻る。
「しっ」
レオアリスは再び耳を澄ませた。まるで音に驚いたように、話し声はぴたりと止まっている。
「何だろう、今の音」
「ミーニャだ!」
「あ、エル!」
止める間もなく、エルは暗い廊下を走り、目に付いた扉を次々と開け放った。
「ミーニャ!」
三つ目の扉を開けて、エルは驚いたように立ち止まった。
「どうした?」
追いついたレオアリス達も、室内を見渡して、瞳を丸くする。
「わぁ……」
少年達が感嘆の声を上げたのも無理はない。
その部屋は、これまでの廊下や室内が嘘だったかのように、荒れた様子一つ無く整然としていた。
まるで今もまだ、誰かがここに住んでいるように見える。
窓には全て硝子が嵌り、曇り無く陽光を呼び込んでいる。
花の絵を散らした壁紙、天井から下がる、幾つもの灯りを灯す吊り燭台。
飾り棚の上には、硝子の小瓶に入った香水や化粧品が置かれ、その隣の大きな姿見は覆い布が除けられて室内を半分映し出している。
微かに漂う香の香りは、品良く大気を染めて漂う金木犀。
それらは、先ほど聞こえた声のような、穏やかで優しそうな、少し年齢の高い婦人を想像させた。
特に目を引いたのは、壁際の滑らかな流線を帯びた白木の卓だ。卓を挟むように置かれた二つの椅子の、その一つが床に倒れていた。
「さっきの音はこれか」
レオアリスは室内に入ると、どこか遠慮がちに倒れている椅子に近付いた。何となく、今現在、誰かが使っている部屋に無断で入る気がしたからだ。
膝を付き椅子の背を持って起こしながら、何の気なしに卓の下に目をやって――、視界に映ったものに、さすがのレオアリスも思わずぎょっと息を飲んだ。
足だ。たった今まで誰もいなかったはずの正面の椅子に、誰かが座っている。
「兄ちゃん! 前、前っ!」
「お化けだっ!」
「っ――」
声もなく立ち上がり、呼吸を落ち着けながら、レオアリスはまじまじと卓を挟んで座る相手を見つめた。
既に六十は過ぎた男だった。不健康にこけた頬に落ち窪んだ瞳。気難しそうな印象だ。ただその瞳の中には深い知性と、悲しげな色がたゆたっている。
対峙するように立ち尽くしたレオアリスの視線の先で、男の姿は一度揺れ、その向こうに壁の模様が透けて見えた。
「――驚いた……」
レオアリスが息を吐く。
実体ではない。だがそれは、傾いてきた陽射しを受けて、不思議と違和感無くそこに座っていた。
男はゆっくりと顔を上げ、室内を見渡した。だがその瞳はレオアリス達を捉えている訳ではない。
静かに、独り語りのように、男は語り出した。
『また煩い親族達が来た。私が独りになって以来、ここを引き払えと毎回同じ言葉だ。引き払う気は全く無い。ここは妻と過ごした、大切な場所だ。妻の記憶が木の板一枚一枚に刻み込まれている』
声は淡々としながら、聞く者の心を揺さぶる哀切な響きに満ちていた。時折過ぎるのは、憤りと、それに勝る悲しみだ。
『妻だけが、ずっと私の傍にいてくれた。どんなに研究に没頭しても、彼女はずっと私の隣で微笑んでいてくれた』
(記憶――)
それは過去の記憶を、今ここに再現しているように見えた。
懐かしむ瞳が、レオアリスを通り越す。視線を追って振り返った先に、扉があった。
今入ってきた扉ではない。続き部屋への、おそらく寝室への扉だろう。
ロットバルトがその扉を開けるかどうか、無言で問い掛ける。
レオアリスは僅かに思い悩んで、首を振った。
おそらくその扉が、この屋敷の守っているものなのだ。
『私のしている事はおそらく愚かな行為だろう。失ってからこうして思い出す妻の姿がどれほど真実なのか、私にも判らない』
自分を嘲うような男の瞳に宿っているのは、それを裏切る切望の色だ。
『それでも構わない――。せめて彼女の許に行くあと僅かな間は、私は彼女の微笑みに答え続けよう』
男は立ち上がり、レオアリスの傍を――正確にはレオアリスの上を通り抜け、扉に向かった。その動きに引き寄せられるように、レオアリスも扉に近付く。
男を迎え入れるように、扉は音も無く内側に開いていく。
扉から、猫足をした天蓋付きの寝台が見える。深い緑色の毛足の長い絨毯が部屋全体に敷かれている。寝台の柱にゆるやかにたわめて纏められた絨毯と同じ色の天鵞絨の布。寝台をぐるりと覆うのは、白く透ける薄い布だ。
男は厳かとさえ言える動作で寝室へと入っていく。
男の後を追ってレオアリスが扉の木枠に手をかけた時、寝台を覆う薄い布がふわりと揺れた。
風はない。
だが見ている者の瞳を幻惑するように、重なって流れる薄い布は、それ自体に意思があるかの如くひらり、ひらりと揺れ――、やがてその奥に、人影を映した。
「――」
寝台の上に座る人影。揺れる布の切れ間から、寝台に腰掛けた足が見える。
男に気付いて、ゆっくりと、その人は振り返った。
向けられる、穏やかな笑み――
「―― 」
『――レオアリス』
やわらかな女性の声に、もう一つの声が重なる。
「今日はとても良い天気ね」
『良い天気だな。積もった雪も溶けそうだ』
声は次第に女の声と逆転し、明確に耳に響いてきた。
女の姿に重なって、一人の青年が立ち上がる。
漆黒の髪と瞳。飄然とした、だが自信に満ちた笑み、引き締まった面差しは、レオアリスにとても良く似ている――。
息を呑んだまま見つめるレオアリスの前で、青年は眩しそうに窓の外を眺め、またその瞳をレオアリスに向けた。
『たまには外に出て、一緒に庭を散歩しませんか。あなたはいつも部屋に篭って研究ばかりだもの』
「こんな日は外に出て、黒森でも散歩するのが楽しい。カイル達は部屋に篭って薬草取り位しか森に行かないが、ただ森を歩くのもいいもんだぜ」
(――さん)
呼ぼうとしたが、舌は自分の意思を失ったかのように、声にはならなかった。
青年はゆっくり、寝台の傍を離れた。窓を開いて風を入れると、深緑の絨毯を踏んで、レオアリスの立つ扉へと二、三歩歩み寄った。
「あんまりぶらつき過ぎると、母さんが怒るけどな」
悪戯っぽく、互いの間だけの合図を送るように、青年はレオアリスに向かって口の端を上げて見せた。
父親と息子の間だけに成立する、秘密の会話だ。
「お前も行くだろ?」
青年はレオアリスの瞳をしっかり捉え、返答を待つように首を傾けた。
堰を切り、声が溢れる。
「父さん!」
その瞬間、青年の姿は陽炎のように揺らぎ、元の初老の女性の姿が現れた。
『――』
「――」
二つの声も、最後は聞こえなかった。光に溶けるように、青年の姿が消える。
「――父さん! 待ってくれ」
青年の姿を探して寝室に飛び込み、慌てて辺りを見回すレオアリスへ、女は柔らかく微笑んで、すぐにその姿も見えなくなった。
呆然としたまま、レオアリスは暫くその場に立ち尽くした。
青年の姿も、女の姿も、男の姿も、影一つ無い。
ただ開け放たれた窓から風が吹いて、寝台を覆う布が揺れる。
「――」
漸く我に返り、レオアリスは寝台に近寄ると、覆っている薄い布をからげた。
予想していた通り、そこには誰の姿もない。綺麗に整えられているものの、使われた形跡も見当たらなかった。
ぐっと唇を引き結び、レオアリスは居間への扉へ向かった。
これがおそらく、この屋敷の最大の仕掛けだ。
戸口に立っていたロットバルトが左の壁を示し、そこにあるものに足を止める。
寝台の横の壁に、一枚の絵が掛かっていた。
描かれているのは、白髪を上品にまとめた、穏やかそうな初老の婦人。たった今目の前で微笑んでいた人物だ。
「守ってるのは、この人か――」
視線を向けた先で、ロットバルトもまたその肖像画を見上げている。その表情にも、レオアリスと同じ、驚きと、夢から覚めたような色がある。それからもっと別の、瞳を更に蒼く染める感情。
「――何か見えたか?」
レオアリスが尋ねたのは、今自分が見たものが本物かどうか確認したかったからだが、すぐにそれに意味が無い事に気が付いた。
この場所で見えるものはそれぞれ違う。
多分彼は彼自身の、別の姿を見たのだろうと、そう思った。
「さて……。見えたものが本物か、それとも望みの投影か――」
そこに先ほどの凍るような怒りは見えず、普段より自然な、穏やかな表情が浮かんでいる。
何を見たのか尋ねようかとも思ったが、それも止めた。
「――最後は聞こえなかったけど――何となく、名前を呼ばれた気がする」
「……そうですね」
ロットバルトも同意を示すように笑みを刷いた。
これで全てが終わったような、そんなしんみりとした空気を破り――。
唐突に、にゃあ、と間延びした鳴き声が聞こえた。
「ん?」
レオアリスは振り返り、声がした辺り――居間の、窓に向けて置かれている長椅子を覗き込んだ。
声の主は、弾力のありそうな天鵞絨張りの長椅子の上に、でん、と座っていた。
猫だ。
艶やかな焦げ茶色の縞模様に、両の前足の先だけが白い。ひょいと振った尻尾は短く、先端が鉤のように曲っている。ちょっと横幅が広く眼光鋭い、いわゆるふてぶてしい容貌の猫だ。
猫は満ち足りた様子で、長椅子の上で大きく欠伸した。
「こんな所に猫か、ここの飼い猫だったのかな……」
レオアリスが手を伸ばそうとした時、エルが猫を見てぱっと顔を輝かせた。
「ミーニャ!」
走り寄り、両手で重そうに猫を抱き上げる。
「ミーニャ……?」
一言呟いてから、レオアリスは唖然として固まった。
「――ええ! ――猫ぉ!?」
猫は満足げに、エルの腕の中に納まった。と言うより、動くのが億劫で、飼い主に運ばせようという腹積もりのようだ。
「ちょっと待てエル、ミーニャってそれか?!」
「そうだよ! ありがとう、見つけてくれて」
エルが嬉しそうに頷くのを見ても、まだレオアリスは唖然としたままだ。サルカとプティが駆け寄ってエルの肩を叩きながら喜び合っている中、ロットバルトの低く、微妙な含みを持った声が耳を打つ。
「だから言ったでしょう、周囲の大人が取り合わないのはおかしいと」
「いや、だってタニアは妹って言ったじゃねぇか」
「少し考えればすぐ予測できますよ。三歳の子供が猫を妹扱いしてもそれほど不自然ではないし、いかにも猫に付けそうな名前だ」
「――お前、そこまで判ってたんなら言えよ……」
本気でタニアの妹だと思っていた自分がかなり情けなく思えて、レオアリスはがっかりと肩を落とした。対してロットバルトは悠然としたものだ。
「どうせ猫だろうが人間だろうが、タニアの頼みに手を貸すと言うのには変わり無いでしょう」
「――」
多分そうだろう。
「どちらでも、貴方は断れませんからね」
「――」
「それに書類は山と積まれていて、丁度良く副将もいない。しかも『お化け屋敷』などという胡乱なものも、貴方の興味を引くには十分だ。結果は変わらない」
全て反論は無い。ただ、何となく釈然としないのは何故だろう。
だが取り敢えず自分の中で折り合いを付けて、レオアリスは顔を上げた。
「――まぁ、これでタニアが喜ぶからいいか」
エルやサルカ、プティの三人も、目的を達成した喜びで、とてもいい表情をしている。
「さてと――」
ミーニャは無事――誰が何と言おうと無事見付かった。
ただ後もう一つだけ、やる事があるのを忘れてはいない。
「謎解きをするか」
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