圓通寺の開山かいさん様と伊達政宗だてまさむね

境内点描
境内点描

 圓通寺の開山様である虎哉こさい和尚という方は、戦国時代に、当時山形の米沢地方の領主であった伊達家に招かれ、当主伊達輝宗てるむね公の跡取りである梵天丸ぼんてんまる少年、後の伊達政宗だてまさむね公の教育責任者となりました。
 山岡荘八やまおかそうはち氏の長編歴史小説『伊達政宗』には、六歳の政宗が、お父さんに招かれた虎哉和尚に初めて会う場面が、次のように描かれています。 〔 〕の註は、この引用にあたり加えさせていただいたものです。

 「人間、師となり弟子となる・・それは何の奇もない行き会のようでありながら、しかしそこには無限の生命の通路がある。 伊達政宗の人生に、もしもこの虎哉宗乙こさいそういつ〔虎哉和尚の正式のお名前〕の登場がなかったら、彼の生涯もなかったのではなかろうか?(中略)
 元亀げんき三〔一五七二〕年、四十三歳で資福寺しふくじ〔現在は仙台市青葉区にある。 このころは米沢に在り、後に伊達家とともに仙台に移る〕にやって来た虎哉は慶長けいちょう十六年八十二歳で他界するまで政宗につき従うこと実に、足掛け四十年の長きにわたった。
 六歳の政宗が、四十五歳まで、つねに良師の人生指導を受け得たということは、戦国時代はむろんのこと、何時の世にも珍しい幸運であったと言わなければなるまい。 こうなると、虎哉が政宗なのか、政宗が虎哉なのかわからなくなってくる。事実、政宗の仏教知識も、漢学も、五山文学ござんぶんがく 〔鎌倉時代末から室町時代にかけて、主に京都や鎌倉の禅寺で、禅僧により中国から伝えられて親しまれた漢文学〕の教義も、みな虎哉からの直伝で、虎哉が武将だったら、政宗と同じような世渡りをしたに違いない。(中略)
 さて、その梵天丸の政宗が、はじめて虎哉に相見〔面会し言葉を交わす〕する日がやって来た。」

━ 山岡荘八・著 『伊達政宗』(光文社刊)より ━    

 なお、この虎哉和尚のお師匠様は、有名な快川和尚かいせんおしょう快川国師かいせんこくし)という方でした。 快川和尚は、晩年甲州(山梨県)の 武田氏に招かれ、今の甲州市の恵林寺えりんじの住職として大勢の僧侶を指導していた時に、織田信長と武田氏との争いにまきこまれ、 恵林寺で多くのお弟子と共に、信長の兵のために命を落しました。 天正十年(1582年)のことです。 虎哉和尚が伊達家に招かれて米沢に赴いたのが、その10年前の元亀3年(1572年)のことです。 もしも虎哉和尚が山梨に留まっていれば、師の快川和尚と共に命を落していたと思われます。 後に虎哉和尚は師の遺志を継いで、関東地方での 布教にも力を尽しました。その布教活動のなかで、江戸に圓通寺が建立されました。
 また、民謡で知られる宮城県松島の瑞巌寺ずいがんじは、圓通寺と同じ臨済宗妙心寺派のお寺で、伊達家の菩提寺としても知られていますが、このお寺を政宗公が復興して菩提寺としたのも、虎哉和尚との関係によるものです。


圓通寺

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