追想の山々1300 up-date 2002.03.06
信州100名山を日帰り4座 冠着山 聖山 子檀嶺岳 独鈷山 |
▼東京(2.00)===佐久IC==上山田温泉==林道登山口(6.00)−−−冠着山(6.25-30)−−−林道登山口(6.55)===聖山へ移動
▼聖湖===聖峠先の別荘地内登山口(7.45)−−−聖山(8.10)−−−登山口(8.25)===子檀嶺岳へ移動 ▼修那羅峠===坂井村役場(9.30)−−−子檀嶺岳(10.50-55)−−−坂井村役場(11.20)===独鈷山へ移動 |
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▼鹿教湯温泉===霊泉寺温泉入口(独鈷山登山口)===車道行き止まり(12.30)−−−独鈷山(13.20)−−−下山(14.00)===霊泉寺温泉入浴後帰京 | |||||
所要時間 冠着山55分 聖山40分 子檀嶺岳1時間50分 独鈷山1時間30分 合計 4時間55分 | |||||
聖 山(1447m)信州百名山=56才
越後の高僧『聖』が開山、盛んなときには36寺院あったという。山麓は別荘、 リゾート施設が次々と建設され、かつて修験道場であったという面影はどこにもない。 麻績村、本城村、坂北村、坂井村という小さな山村の点在する 盆地の北に、冠着山から聖山へ生坂山地が連なり、この山地を南北につなぐ峠がいくつも拓かれたている。一本松峠、猿ケ馬場峠、三和峠、聖峠などである。なかでも猿ケ馬場峠は善光寺西街道の要衝として盛時には10軒もの茶屋があったという。田山花袋はこの峠を越えたとき、往時を託して次のようにうたった。 《今もなお ありやあらずや信濃なる 峠の上にわがみたる茶屋》 『更級紀行』の芭蕉もこの峠を越え、子規もまた同じ道をたどって峠の上で 《またきより 秋風ぞ吹く山深み 尋ねわびてや夏もてなくに》とうたった。 明治45年、牧水もまた峠を訪ねている。峠には牧水の歌碑 が立っている。 《山に入りて 雪の中なる朴の木に から松に何とものをいうべき》 小学校6年生の修学旅行で長野市へ行った。蒸気機関車の石炭の臭いを嗅ぎながら、汽車はこの山の下をトンネルで抜けていった。長野駅へ着いて駅前に整列しているとき、出張中の父が偶然目の前に現れ、キャラメルを手渡してくれた。父親との甘く懐かしいできごとは、まったくと言っていいほど覚えていないが、ふとそんなことがあったの を思い出した。父親とのそうした接触がなかったので、どう対応していいか戸惑って、子供ごころにうろたえて、「ありがとう」の一言も口にできなかった。 冠着山登山口から林道伝いに聖高原へ向けて自動車を走らせる。 途中、一本松峠は田毎の月の姨捨から上って来た峠、次の峠は猿ケ馬場峠でその昔茶店が軒を並べて旅人で賑わった峠、今はそこに人造湖の聖湖がある。近代 的なホテルが建ち、都会地のような道路が回周し、余りの変わりように呆然とする。 聖湖から先が聖高原と呼ばれるエリアで、今でも別荘地としての開発が急ピッチで進められていた。 三和峠を過ぎ、聖峠付近で『聖山登山口』 の標識を見付けた。そのまま別荘団地の中を車を進める。シーズンオフの別荘地は人の気配もなく静まりかえっていた。『信濃路自然歩道 聖山へ1キロ』の標識近くへ自動車を止めて山頂へ向かった。 遊歩道のような登山道が、霧に包まれ落葉した林の中を縫っていた。高低差200メートル程度、20分余で山頂に立った。 本来なら一等三角点らしい山岳展望が楽しめるはずだが、あいにくのガスで視界はまったくない。雰囲気としては公園の丘にでも立っている感じだった。山頂のすぐ下に自動車道が来ている。 もう歩いて登る山ではなくなっていたのだ。 設置されている展望案内板で大パノラマを想像する。 白根、四阿、浅間、蓼科、八ヶ岳、美ガ原、中ア、妙高、高妻、戸隠、白馬岳、鹿島槍、爺ケ岳、岩小屋沢、針の木、不動、南沢、立山・・・ 一等三角点標石の頭をなでてから同じ道を戻った。 2006.02.21 スキー&聖山はこちら 2013.11.18 聖山はこちら |